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【コラム】オペラ『シモン・ボッカネグラ』を知る(前編)

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文:広瀬大介(音楽学、音楽評論)

『シモン・ボッカネグラ』の成立、24年越しの改訂



 1850年代はじめに作曲された三つの傑作、《リゴレット》《イル・トロヴァトーレ》《椿姫》を経て、40歳を迎えたばかりのジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)は、イタリア・オペラの次なる発展をもたらすための一歩を踏み出そうとするが、そのための新しい方法を見出すことができず、苦悩の日々を送る。ヴェルディは、リゴレットが抱える娘への尽きせぬ愛情とその娘を踏みにじる権力への怒り、あるいは娼婦でありながらも真実の愛に目覚め、だがその愛を許されぬ社会的状況に押し潰されるヴィオレッタによって、あれだけの説得力豊かな音楽を書くことができた。とはいえ、旧来の決まり切った音楽の枠組みたる、緩急のアリアを組み合わせるカヴァティーナ、カバレッタ様式で、このような心情の機微を描くことへの限界を感じてもいた。

ヴェルディ
ジュゼッペ・ヴェルディ


 1853年10月、ヴェルディはジュゼッピーナ・ストレッポーニを伴い、パリへと赴く。彼の地のグランド・オペラを作曲することで、新しい様式への手がかりが掴めるかもしれない、という、藁にもすがる思いであったことだろう。だが、スクリーブから渡された台本《シチリアの晩鐘》は旧作の焼き直しであり、何よりヴェルディが新しい音楽を創るために求めてやまない、登場人物の苦悩・葛藤が観られない。それでも必死に作曲を試みはしたが、祖国愛を描く題材は《リゴレット》以前に書き尽くしてしまい、パリの聴衆にも訴えかけない。



 パリでの失敗はあったが、ヴェネツィア・フェニーチェ劇場との来たる新作の契約は迫っていた。次なる題材は、14世紀のジェノヴァを舞台とした史劇とされる。グティエレスの戯曲『シモン・ボッカネグラ』を原作として取り上げたのは、《イル・トロヴァトーレ》と同じ原作者から、同じような人間ドラマを導き出したい、という切実な願いからであっただろう。だが、穏やかでお人好しで、長年にわたって協力を惜しまなかった台本作家、フランチェスコ・マリア・ピアーヴェもまた、ヴェルディが抱えていたこの時期の苦悩を我がこととしては理解できなかった。劇場関係者が理解できないのであれば、聴衆にそれを理解しろというのはなおさら難しかろう。

 おそらくヴェルディは、シモンにも、そしてその政敵フィエスコにも、同様に強い共感を抱いていた。自身の信念を、それが社会的通念とは異なっていても貫く強さを持つシモン。許されぬ恋に墜ちたシモンとマリアの姿は、そのまま道ならぬ愛に苦しむ自身とジュゼッピーナの姿に重なる。そして、ひとを容易には信用することなく、心の奥底に絶望を抱えているフィエスコもまた、狷介不羈(けんかいふき)と言われた自身の姿の投影であろう。これまでの解釈では、どちらか一方に対しての思い入れが強調されるきらいがあったが、おそらくは両者ともに、ヴェルディのある側面を表す人物であり、ふたりの対決を十全に描くことこそが、ヴェルディの思い描く新しいオペラのかたちであったにちがいない。



 だが、表題役にアリアが一曲もないオペラなど、当時のイタリアの聴衆は想像できただろうか?陰鬱な主人公とその政敵の葛藤が中心に据えられる一方で、お決まりのテノールとソプラノの愛の二重唱も満足に聴けない。なにより、言葉が与えられなければ、それにふさわしい霊感も、音楽形式も見つけることはできないヴェルディもまた、自身の内面に燃える想いを芸術のかたちで昇華することはできなかった。ヴェネツィアの聴衆は、1857年3月12日に初演されたこのオペラを失敗と見做した。それは、この地で《椿姫》が初演されて以来、2度目の挫折となったのである。



 1871年、《アイーダ》がカイロで初演。続いて1874年には《レクイエム》もミラノで初演。この《レクイエム》が大当たりをとったことで、その後しばらくヨーロッパ各地で演奏旅行が続く。《シモン》の失敗から約20年を経たヴェルディは、知り合いに数多くの手紙を書いて題材を求めるも、そう簡単には見つからない。妻ジュゼッピーナ、指揮者のフランコ・ファッチョ、出版社のジュリオ・リコルディは、気難しいヴェルディに題材を押しつけるのではなく、それとなく提案する風を装って、才能あるひとりの若者、アッリゴ・ボーイト(1842-1918)を話題にする。ヴェルディとは1860年代にすでに面識があったが、20歳代のボーイトは、ヴェルディを因習にとらわれた旧世代人と批判する「スカピリアトゥーラ」の中心的存在であり、ドイツのライバル、リヒャルト・ワーグナーの作品を新しい時代の音楽として称揚していた。



 《シモン》の失敗以来 20年、《仮面舞踏会》《運命の力》《ドン・カルロ》《アイーダ》を積み重ね、周りの関係者も、ヴェルディがどのような原作を求めているのかを否が応でも理解する。ファッチョとリコルディは、ボーイトに書かせた《オテロ》の草稿をヴェルディに読ませ、やがて自身もこの計画に熱中するようになる。歌手テレーザ・シュトルツとの道ならぬ愛によってジュゼッピーナを苦しめていたヴェルディは、善人面をする悪人、イヤーゴに大きな興味を示すようになっていくのである。



 だが、もうすぐ70歳になろうとするヴェルディは、《オテロ》を完成までこぎつけることに確信が持てず、時間を無駄に費やしていく。1880年12月、リコルディは、まずはボーイトとヴェルディが具体的な共同作業を通じて互いの信頼を深めていくことが必要と考え、ヴェルディを旧作《シモン・ボッカネグラ》の改訂に引っ張り出しつつ、台本の改訂をボーイトに依頼する。ミラノ・スカラ座で予定された改訂稿の初演は翌1881年3月。提案から初演までわずか3ヶ月程度しかなかったのも、ヴェルディに逡巡する暇を与えないための作戦であっただろう。

シモンスコア
『シモン・ボッカネグラ』1881年版のスコア


 ファッチョ自身が指揮を担当したこの改訂初演は、華々しい成功を収めたという。後にイヤーゴを歌ったヴィクトル・モレルがシモンを、オテロを歌ったフランチェスコ・タマーニョがガブリエーレを歌ったのだから、その公演はさぞかし盛り上がったことだろう。このときの改訂作業を通じて、ヴェルディは《シモン・ボッカネグラ》に、《仮面舞踏会》以来のあらたな音楽的着想をふんだんに取り入れることができ、そのうちのいくつかは、さらに発展を遂げて《オテロ》への道筋を作った......、と説くのは簡単ではある。だが、この作品を《オテロ》に向けての架け橋のように、簡単にまとめてしまうのはやはり違和感が残る。なにより、多くの場面には、ヴェルディの最上の霊感が充ち満ちているのだから。それらについては、もう少し具体的に触れねばなるまい。




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