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『修道女アンジェリカ』コラム 修道院ってどんなところ?(前編)


10月1日(日)にいよいよ幕を開けるオペラダブルビル(二本立て)『修道女アンジェリカ/子どもと魔法』
プッチーニの『修道女アンジェリカ』はそのタイトルの通り女子修道院で暮らす修道女が主人公です。修道院とはどんなところで、その中ではどんな生活が営まれているのでしょうか?
東京大学史料編纂所学術支援職員で、イタリア教皇史がご専門の高久充先生にお話を伺いました。インタビューは『修道院アンジェリカ』に出演する塩崎めぐみ(修道院長役)さん、中村真紀(ジェノヴィエッファ役)さん、郷家暁子(修道女長役)さん、小林由佳(修練女長役)さんを交えて行われ、役づくりにかかわる沢山の質問が寄せられました。

高久充先生

『修道院アンジェリカ』の舞台となった17世紀の修道院はどういったところだったのでしょうか。


高久先生  修道院は、今も昔も神に奉仕する人々が共同で暮らす祈りの場所です。司祭(いわゆる神父)や修道士の住む男子修道院と、修道女(シスター)たちの住む女子修道院とがあります。修道士や修道女は、従順(目上の者に従うこと)、貞潔(独身を守ること)、清貧(私有財産を持たないこと)の三つの誓願を立て、生涯を祈りと労働にささげます。


 修道院や修道会には、慈善事業や教育、宣教などの活動をメインとしているところもありますが、アンジェリカの暮らす修道院は、外部での活動をあまりせず、祈りと修道院内での労働を重視する観想修道会の修道院だと思われます。修道女は修道院の壁の中で一生を過ごし、特別な許可なく外出することはできません。外部の人も、許可がなければ修道院の中には入れません。この外部の人が入れない区域のことを禁域と言います。修道院の中のほとんどは禁域ですが、面会者は禁域外に設けられた面会室において、時には他の修道女の立ち合いの下、面会をしました。家族であっても、気軽には面会できませんでした。


中村 手紙なども制限があったのでしょうか。


高久先生 検閲があったでしょうね。

『修道女アンジェリカ』美術プラン

 当時、修道院の施設は、一定の様式を備えていました。まず門と、敷地を囲う周壁があります。修道院に付属する畑や森などは、周壁の外に広がっていることもあります。そして、教会があります。教会は、門の内側にある場合も、広場や通りなどに直接面した入口があって、普通の教会のように自由に入れる場合もあります。教会そのものは禁域外であることが多く、地域の信仰の中心的役割を果たすこともありましたが、修道女たちのための区画は明確に分離されています。

 教会の隣には回廊があります。四方を屋根付きの廊下に囲まれた中庭です。ここが、修道生活の中心、修道生活をつなぐハブでした。噴水や花壇が設けられ、果樹が植えられている場合も多いです。回廊の周囲には、大食堂、集会室、図書室、医務室、作業場など、修道院の主要な機能が配置されています。医務室は、オペラの中に出てきますね。上の階には、共同寝室や修道女の個室があります。地下などには、貯蔵室が設けられています。建物に付属して、薬草園や菜園もあります。院内に客室や巡礼宿が設けられている場合は、禁域の外側にあり、外部の人が利用することもできました。修道院経営の学校も同様です。


小林 修道院は街ごとにあったのでしょうか。

左から、高久先生、塩崎さん、郷家さん、中村さん、小林さん

高久先生 大きな街なら、いくつもあったでしょう。田舎街であれば、一つまたは少数しかない場合もあったかもしれません。当時、修道院はその地域の信仰の中心であるだけではなく、主要な教育機関の一つであり、医療機関であり、経済の中心でもありました。また、修道院が領有する地域であれば、領主としての役割も果たしました。非常に重要な存在であったわけです。


どういう人たちが修道女になっていたのでしょうか。劇中、主人公の修道女アンジェリカは公爵家に生まれながらも、
婚外子を産んだことにより修道院に入れられたことが語られます。当時そのようなことは本当にあったのでしょうか。


高久充先生

高久先生 神に奉仕することを望んで、自ら入会を志願するというのが基本です。ただし、かつては家父長の権限が強く、特に貴族階級では、家父長の決定により本人の意志に関係なく、子女が修道院に入れられるようなことも多くありました。男子の場合、相続によって一族の財産が分割されてしまうのを避けるため、そして女子の場合、結婚の際の持参金(お金だけでなく、領地なども対象となりました)が非常に高額だったためです。修道院に入るためにも持参金は必要ですが、額が全然違います。中世、ルネサンス期のフィレンツェでは、持参金に対する保険があったくらいです。


小林 さすがフィレンツェですね。


高久先生 そうですね。アンジェリカの物語からは少しさかのぼりますが、イタリアの国民作家マンゾーニの代表作で、17世紀前半を舞台とした『婚約者』(『いいなづけ』とも呼ばれます)には、実在の人物をモデルにした「モンツァの修道女」が登場します。貴族(小説では公爵、史実では伯爵)の家に生まれた彼女は、初めてもらった人形が、修道女の格好をしていました。父親によって、一族の財産を守るため、生まれながらにして修道院入りを決められていたのです。 ところが、この修道女は成長すると、ひそかに愛人を修道院内に引き入れ、事が露見しそうになると、愛人と共謀して秘密を知る修道女たちを次々と殺害したことで有名になります。


一同 すごい!そんな俗っぽい話もあったんですか!


高久先生 『修道女アンジェリカ』のアンジェリカのように、身分の高い女性が婚外子を産んだことを理由に修道院に入れられるというケースは、家父長の決定次第ではあったかもしれません。また、修道院本来の目的とは外れますが、どうしても素行が改まらない人を修道院に入れる例がよくあったと言われています。その場合、院長以外には、スキャンダルを避けるためにその事実を伏せた上で、多額の持参金または寄付を出したものと思われます。


『修道女アンジェリカ』リハーサル風景

※マンゾーニはイタリアの国民的作家。ヴェルディが心酔していたことでも知られ、彼の死を悼む曲として有名な「レクイエム」が作曲された。肖像は1967年年から1979年まで10万リラ紙幣に使われていた。


修道女になるには、どういったプロセスを経ていたのでしょうか。どのような修練をしていたのでしょうか。


高久先生 修道女になろうとする人は、まず修道院で仕事を手伝いながら何ヶ月か過ごし、適性があるかどうかが見きわめられます。院長が適正ありと判断すると、まずは志願者(アスピラン、アスピラント)になります。その後、信仰生活や共同生活の基礎や仕事を学びます。数年間の志願期が終わると、今度は修練志願者(ポストラン、ポストラント)になります。こちらも数年あります。神からの呼びかけを自認したこと、呼びかけに対して奉仕する気持ちがあることを確認し、修練を準備する期間です。修練志願期が終了すると、修練者、修練女(ノヴィス)となります。会にもよりますが、この時修道名(シスター・〇〇など)が与えられます。広義では、ここから修道女と言えます。


左から、塩崎さん、郷家さん、中村さん、小林さん

修練者は修道会の規則について、従順・貞潔・清貧の誓願について学び、実践します。数年かけて修練期を終え、長上の許可が下りると、従順・貞潔・清貧を一定期間(一年から数年)誓います。最初に誓願を立てることを、初誓願といいます。誓願を宣立すると、正式に修道女とみなされるようになります。修練志願者や修練者にも制服がありますが、初誓願後は会の正式な修道服を身に着けるようになります。修道女は初誓願の後、何度か有期の誓願を更新します。その後、生涯にわたる誓願を立てることになりますが、これを終生誓願といいます。


 それぞれの期間は、長上(院長や修練長)の判断で長くなることも、短くなることもあります。次の段階に進む際にも、厳しい試験があります。自ら、あるいは長上の判断で適性がないと認められた場合には、修道院を去ることになります。有期誓願の修道女も、誓願の期間が終わった際に、更新せずに世俗に戻ることができます。終生誓願を宣立した修道女の場合、修道院を去るためにはバチカンの特別な許可が必要です。


 これが現在も通用する一般的なプロセスですが、かつては小さな子どものうちに修道院に預けられ、修道院で育てられて修道女となったケースがありました。また、17世紀を含めて、近世においては、中上流階級の女子教育は、修道院経営の学校で行われることがほとんどであり、学校から修道院に入るケースも非常に多くありました。成人後に修道院に入る場合も、夫が亡くなった後に修道院に入る場合もありました。修道女になる道は、さまざまあったと言えるでしょう。


小林 修道女になるためには、年齢に関係なく、修行のプロセスを経なければいけなかったのですか?


高久先生 基本的にはそうです。ただ、それまでに受けてきた教育や背景などによって、各ステップが短縮されることはあったでしょう。



(後編へつづく 後編は修道院の組織や生活、そして修道女にとっての自殺について)
※本記事は座談会の内容を再構成したものです。



後編はこちら

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