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象徴主義とリアリズムの間で ―ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』をめぐって

文◎新田孝行
ジ・アトレ 2022年4月号より

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2016年エクサンプロヴァンス音楽祭公演より
© Patrick Berger/ArtComPress

ドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』は1902年4月30日、パリのオペラ・コミック座で初演された。原作は1892年に出版されたモーリス・メーテルリンクの同名戯曲。作曲に際しドビュッシーは四つの場面を削除したものの大きな脚色を施さず、オリジナルのテクストをほぼそのまま歌詞として採用した。鬱蒼とした森に覆われた架空の国「アルモンド」の薄暗い城を舞台に、二人の王子(ペレアス、ゴロー)と一人の女性(メリザンド)をめぐる秘められた愛と嫉妬が描かれる。ゴローが新しく結婚した妻メリザンドとともに老王アルケルの城にやってくる。城にはゴローの異父弟ペレアスがいる。メリザンドはペレアスと出会い、交情を深める。ゴローは二人の関係を疑い、妻に暴力をふるう。出発を決意したペレアスはメリザンドに愛を告白、彼女もそれを受けいれるが、ゴローによってペレアスは殺され、メリザンドも子どもを産んで間もなく静かに息絶える。

文学史上メーテルリンクは演劇における19世紀末象徴主義の代表者とされる。しかし、作曲家ピエール・ブーレーズが指摘するように『ペレアス』の象徴主義は実は「中途半端」である*。神話的に造形された人物が日常的な悲劇に巻き込まれる。象徴主義にリアリズムが入り混じる。確かに道具立てとしては、いわく言いがたい設定が揃っている。人を惑わす森と一輪の薔薇の花、荒れ狂う海と晴れやかな大気、泉の澄んだ水と地下道の淀んだ水、暗闇に佇む物乞いたち、羊たちの群れ、そしてメリザンドの長い金髪。登場人物たちも自らについて語らず、謎を保つ。しかし、台詞自体は凝った表現で書かれているわけでなく、むしろ平明である。平明なのに会話が通じず──メリザンドはあまり質問に答えない──、謎はさらに増す。こうした象徴主義とリアリズムの「相互干渉」(ブーレーズ)にこそ『ペレアス』の特徴がある。端的な例は第四幕第四場でペレアスとメリザンドが〝両想い〟だったことが判明する下り。「愛してる」「私も」という最も陳腐な愛の確認を、ドビュッシーはオーケストラを沈黙させることで象徴的な事件へと変貌させる。

メーテルリンクはチェーホフやイプセン同様、筋と対話によって進行する演劇が行き詰まり、「ドラマの危機」(ペーター・ソンディ)を迎えた時代の劇作家だった。「登場人物が抵抗せず宿命を甘受する詩」を求めていた作曲家にとって彼の戯曲は理想的な台本となった。『ペレアス』では人間の能動的な行動が積み重なって因果関係のドラマを構成するのではなく、文脈を欠いているがゆえに象徴的であり現実的でもある出来事が連鎖する。見えない宿命に突き動かされるかのように人物たちは急に感情を爆発させたり(ゴローのメリザンドに対する激しい暴力)、突然心情を明かしたり(右記、愛の告白)、あっけなく死んだりする(鳥でも死なない小さな傷で命を落とすメリザンド)。本作のライトモティーフが、ワーグナーのそれのように機能和声の理論に基づく劇的な展開において物語を語るためではなく、人物の内的な感情や状況の気分とその微妙な変化を伝えるために用いられているのも、これに対応する。

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2016年エクサンプロヴァンス音楽祭公演より
© Patrick Berger/ArtComPress

象徴主義とリアリズムの「相互干渉」について第三幕第一場を例に説明しよう。星空の夜、メリザンドが城の高い塔の窓辺に立ち髪を梳っていると、ペレアスがやってきて窓から乱れ落ちた彼女の髪の毛に自分の首を巻きつける有名な場面。女性の髪は象徴派の詩人が好んだ主題(例えばマラルメの『エロディアード』)だが、のちに第四幕でゴローがメリザンドに乱暴する──髪の毛をつかんで跪かせる──現実的な手段ともなる。もう一つ、「聖ダニエル様と聖ミシェル様、聖ミシェルと聖ラファエル様、日曜の真昼に私は生まれた」と歌うメリザンド──ここでもまたオーケストラは沈黙する──に、ペレアスは「ここにいない鳥のように歌いながら、窓辺で何をしているの?」と尋ねるが、無伴奏で歌われる彼女の歌はきわめてリアルで、「ここにいない鳥」の「歌」という象徴化にそぐわない。端的に二人のメリザンドがいると考えることもできる。すなわち、舞台上のリアルな視覚対象としてのメリザンド(役の歌手)と、その声がペレアス(と観客=聴衆)に想像させる「ここにいない鳥」としてのメリザンド(という幽霊)。アメリカの音楽学者キャロリン・アバーテはさらに、ペレアスが文字通り「ここにいない」、つまり劇場で本当に聞こえない何かを聞いた可能性さえ指摘している。**

この場面にはまた、「ジェンダーの本質主義に対する非難」(アバーテ)も読み取れる。ペレアスはメリザンドの歌を鳥の無意味な鳴き声に譬えているが、その彼自身が歌詞の内容を無視して彼女の声の響きに耽溺する。「オラー! オー! オー!」と雄叫びを挙げながらメリザンドに近づき、「誰?」と訊かれて「Moi!,moi! et moi!」(「僕! 僕! 僕!」)と繰り返すペレアスのほうがよほど動物的ではないか。一方メリザンドはどんな聖人たちか理解して歌っている。彼女のキャラクターは〝不思議な少女〟、時には〝鈍くてイライラする女〟などと評される。確かに謎めいた人物で、その秘密は本作の核心にある。しかし、オペラ冒頭で「触らないで!」とゴローを拒絶する──やはりオーケストラの伴奏はない──ように、意志をもったリアルな人間としての側面もある。実は女は知的なメッセージを発しているのに、男が勝手に変なイメージを押しつけているのではないのか。

こうしたフェミニズム批評的な視点は近年の『ペレアス』解釈を特徴づける一つの傾向であり、今回上演されるケイティ・ミッチェルの演出もこれに属する。2016年にエクサンプロヴァンス音楽祭で初演されたこの『ペレアス』で、ミッチェルは台本テクストのイメージを活かし、微かな悪意も感じさせるユーモアを加味しつつ、結婚や夫婦生活、出産について女性が抱くリアルな心象を夢のような、シュールレアリスティックな手法で浮き彫りにする(メリザンドも二人──あるいはもっと?──登場する)。原作が孕む象徴主義とリアリズムの「相互干渉」を、現代の視点から位相をずらしつつ反復する名演出である。乞う御期待!

* ピエール・ブーレーズ「『ペレアスとメリザンド』のための鏡」、『ブーレーズ作曲家論選』、笠羽映子訳、ちくま学芸文庫、2010年、171─197頁。
** Carolyn Abbate, "Debussy's Phantom Sounds," in In Search of Opera (Princeton, NJ: Princeton University Press, 2001), 145-84.