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歌姫とナポレオン ―歴史劇としての『トスカ』


文◎加藤浩子

ジ・アトレ1月号より

 2021年のオペラ始めはプッチーニ『トスカ』!愛するカヴァラドッシを救うため、歌姫トスカが警視総監スカルピアと争う怒濤の物語がドラマティックな音楽で描かれる、言わずと知れたイタリア・オペラの傑作だ。「歌に生き、恋に生き」「星は光りぬ」など歌と音楽があまりにも魅力的な『トスカ』だが、その内容は、恋人たちの愛の物語だけでなく、政治体制の対立という重厚な物語でもある。そんな『トスカ』を歴史ドラマの側面から読み解いてみよう。


ナポレオンが見初めた歌姫

2018年公演より

 昨年の春、フランスのルーアンという街を訪れた筆者は、ふらっと入った美術館で見つけた一枚の肖像画に釘付けになった。

 「ジュゼッピーナ・グラッシーニの肖像」。イタリアの歌姫で、フランスの「帝室歌手」としても活躍したジュゼッピーナ・グラッシーニ(1773~1850)の肖像画である。作者はフランスの女流画家で、マリー・アントワネットの肖像画などでも知られるエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン。画中のグラッシーニはフォン・ヴィンターのオペラ『ザイーラ』のヒロインに扮し、スルタンを魅了した女奴隷という役どころが肯ける、婉然とした眼差しを宙に投げている。

 グラッシーニがフランスに進出したきっかけはナポレオンの寵愛である。ナポレオンは二度目にイタリアに侵攻した1800年、スカラ座でグラッシーニを見初めてフランスに連れ帰った。その時トスカがスカラ座で歌っていたら、ひょっとしたら彼女がナポレオンの寵愛を受けていたかもしれない。

 そんな想像を巡らせたくなるのには、理由がある。ジャコモ・プッチーニの人気オペラ『トスカ』は、ナポレオンがグラッシーニを見初めたちょうどその頃の設定だからだ。ナポレオンの存在がなければ、『トスカ』の物語は起こり得なかった。「ナポレオン」と「歌姫」は、『トスカ』において深く結びついている。

歴史オペラ『トスカ』

2018年公演より

 「歴史オペラ」と呼ばれる作品はたくさんある。イタリア・オペラ界におけるプッチーニの先輩ヴェルディは、歴史上の人物や出来事を題材にした歴史オペラが得意だった。16世紀スペインの宮廷を舞台にし、史実の人物が大勢登場する『ドン・カルロ』(2021年6月に新国立劇場で上演予定)は好例だろう。

 だが「歴史オペラ」のほとんどは、歴史小説同様、史実とフィクションがごた混ぜになっている。史実をベースにしながらどこに想像力を働かせるかは、作者の考え方次第だ。

 『トスカ』は、あまり「歴史オペラ」であることが意識されていない作品ではないだろうか。主人公の二人の恋人はフィクションだし、敵役の警視総監スカルピアや、端役ではあるけれどドラマの上で重要な役割を担うアンジェロッティにはモデルがいると言われるが、歴史上の有名人というほどではない。

 だが『トスカ』の二人の恋人は、あの時代のローマでなければ存在し得なかった。それを考えると、『トスカ』こそ「歴史オペラ」だと言っていい。もちろん、物語の中心はサスペンス仕立ての恋愛劇だが、その入れ物の設定は、まさに歴史劇としか言いようがないのである。

1800年、ローマ緊迫の一日

 「1800年のローマ、6月17日から18日」『トスカ』の台本には、そう指定されている。「16世紀のスペイン」「18世紀半ばのパリ」といった大まかな指定がほとんどのオペラの台本には、稀なことだ。

 具体的な指定には理由がある。この3日前、ナポレオン率いるフランス軍が北イタリアのマレンゴでオーストリア軍に勝利した。俗に言う「マレンゴの戦い」である。スカラ座でグラッシーニを見初めた十日ばかり後のことだった。

 1800年6月17日のローマは、この「マレンゴの戦い」に翻弄された。オペラ『トスカ』では、緊迫したこの一日の出来事が、音楽と結び付けられて名場面へと昇華している。

 その頃のローマは、1798年にナポレオンが建国した「ローマ共和国」が滅び、教皇国家が復活していた。しかしながら、共和国の設立と同時にローマを追い出されてフランスにいた教皇ピウス六世が亡くなり、新しい教皇ピウス七世もその頃はヴェネツィアにいたため、教皇不在の状態で、ナポレオンに追い出されていたが復権したナポリ=シチリア王国が実権を握っていた。アンジェロッティはローマ共和国の領事だった人物で(モデルあり)、ナポリ側が政治犯として投獄するのは当然だった。スカルピアはナポリ王国から派遣されてきた警視総監で、実質的な権力者だった王妃マリア・カロリーナから、共和国派の一掃を命じられていた。アンジェロッティの脱獄を許したのはスカルピアの大失態であり、彼を捕らえなければ自分の首が飛ぶという窮地に追い詰められていたのである。

カヴァラドッシの理想

2018年公演より

 「マレンゴの戦い」では、当初オーストリア軍が有利だった。ローマに入った第一報は、その優勢を早とちりした「勝利」だった。第一幕の後半で、教会の堂守が「ボナパルトが敗けた」と喜び勇んで告げるのは、この誤報のせいである。だがこの誤報が劇中に取り入れられたことで、第一幕のフィナーレを飾る戦勝祝いの「テ・デウム」が生まれたのだ。

 「ボナパルトの勝利」は次の幕で伝えられる。ここもまた、極めて劇的かつ効果的だ。場面はスカルピアの部屋。アンジェロッティをかくまったためにスカルピアに捕らえられたカヴァラドッシが、拷問を受けて息絶え絶えになっている。そこへ、スカルピアの部下シャッローネが駆け込んできて告げる。「ボナパルトが勝利しました」。その瞬間、カヴァラドッシは躍り上がって叫ぶのだ。「勝利だ!」

 なぜここでカヴァラドッシは「勝利だ!」と叫ぶのだろうか。

 カヴァラドッシは熱烈なナポレオンシンパである。父はローマ人だが母はフランス人で、パリで生まれ、フランス革命下で成長して革命の思想を刷り込まれた。父が亡くなり、遺産の整理のために戻ったローマでトスカと恋に落ちた。ちなみに絵画の師は、ナポレオンの首席画家としても活躍したジャック=ルイ・ダヴィッド。ダヴィッドの代表作の一つ「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」(1801)は、この時のナポレオンのイタリア侵攻を理想化した一枚だ。

歌姫トスカのリアリティ

2018年公演より

 トスカもまた、ナポレオン無くしてはおそらくローマで歌姫として活躍してはいなかった。教皇のお膝元であるローマでは、女性が舞台に立つことは認められておらず、ナポレオンによって撤廃されたのである。1800年のローマだからこそ、トスカは歌劇場で歌うことができ、そしてカヴァラドッシと出会えた。

 トスカはもともと北イタリアのヴェローナ生まれの孤児で、羊飼いをしていたところを修道院に拾われた。修道院の合唱団で歌っていたところを作曲家のチマローザに見出されて還俗し、歌手になったという設定だ。ローマに来る前は、ミラノやヴェネツィア、ナポリで歌っていた。ちょっと場所や時期がずれていたら、カヴァラドッシと出会わずにナポレオンに見初められていても不思議ではなかった。

 けれどナポレオンを虜にし、さらにワーテルローの戦いでナポレオンを破ったウェリントン公爵の愛人にもなったグラッシーニのようなタフな女性は、プッチーニの好みではなかっただろう。恋と歌と信仰に生きた平凡な一人の女性の情熱こそ、彼が描きたかったことなのではないだろうか。それがこれほどリアルに迫ってくる一つの理由は、リアルな歴史劇という「器」にもあるように思うのだ。 (文中の人物設定は、主にサルドゥの原作『ラ・トスカ』の記述に基づく)


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