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トークイベント『紫苑物語』~ 一の矢「知の矢」――石川淳の原作からオペラへ―― 開催レポート(下)

2018年10月29日に開催したトークイベント、『紫苑物語』~ 一の矢「知の矢」――石川淳の原作からオペラへ――。
2月に世界初演を控えているオペラ『紫苑物語』について、台本の佐々木幹郎、作曲の西村朗、指揮の大野和士、演出を手掛ける笈田ヨシ、そして監修を務める長木誠司の5名が一同に会し、このオペラ創作にかける熱い思いを語りました。

今回は、トークイベント後半の模様をお届けします。

<トークイベント『紫苑物語』~ 一の矢「知の矢」――石川淳の原作からオペラへ―― 開催レポート(上)はこちら>




演出は、音楽を載せる器

笈田ヨシ(演出)

長木:大野さんの発案で、演出を笈田さんにお任せしようということになりました。笈田さんと大野さんはこれまでもお仕事をなさっていて。今回、お話をお持ちしたら、「是非」ということでお引き受けいただきました。笈田さんのほうから少し、今回の演出に関してお話しいただけますでしょうか。

笈田:とにかく、オペラは音楽が第一。とにかく、音楽をいかに活かせるかというのが目的です。従って私の役目は、奥深い哲学のある素晴らしいテキスト、そしてそこから生まれた豪華絢爛たる音楽、そして素晴らしい演奏、そういう素敵なご馳走を器の上に載せて、その器をお客さんの前に差し出す。その器の役目を、演出家は負わなければならないと思ってるんです。

しかし、その器があまり豪華絢爛ですと、音が聞こえなくなる。人間は不思議なもので、音に集中すると目が見えなくなるんですよ。一方、よく見ることに集中すると音が聞こえなくなる。ですから、あまりにも派手にやると音楽はBGMになる。見た目というものが音を消さないように、しかし、何かはやらなくてはならない。それが、非常に面白いところでもあり難しいところでもあり、私の仕事です。

長木:少し舞台のデザインをお見せしてみましょうか。




1幕のセットプラン
2幕のセットプラン



笈田: 1幕は赤が主題となっています。宗頼が殺したり、非常に暴力的な行為を行うわけです。ですから、そのテーマとしてベースを赤にしました。後ろに見えるのは大きな鏡です。この鏡が下りると、床に映っているものが、そのまま後ろの背景になっていくわけです。鏡を動かすことによって背景も変わっていく。皆様の目にもお楽しみいただけると思いますし、あまり音楽の邪魔にもならないと思い、こういうことを始めました。

次に、2幕になると、主役の宗頼が、本当の愛について考え始めたり、死・殺・知というものを乗り越えて、遠い向こうの方へ希望を持って行きます。そこで、ブルー、グリーンをベースにしました。

平安時代、今から1000年ぐらい前の話なんですけれども、世阿弥が言うように「珍しきが花」で、今まで歌舞伎で見飽きたような平安朝の装置でなくて、その平安朝をお客様の想像力でイメージしていただくような装置です。平安朝時代の空気を想像していただけるように、非常に単純化しています。

衣裳についても、時代考証に基づいた写実的なものではなく、非常に新しい感覚で、イマジネーションを起こしたい。自分を含めて、日本人がそういうことを考えますと、どうしても今までの習慣に陥ることがあるので、ライオンキングの装置を手掛けたイギリスのハドソン氏に頼みました。時代考証から言えば、「これは嘘だ!」って叱られそうですけども、新しいものを作るから、皆様にご勘弁いただいて、なるべく似て非なるものを提供したいと思います。



衣裳デザイン(うつろ姫)
衣裳デザイン(宗頼)





長木:本当に想像力をかき立てられるような衣裳ですね。


原作からオペラへ


長木:今、ちょうど、西村さんが作曲する前のメモという形で、ライトモティーフの一部を前に映し出しています。これについて、少しお話ししていただけますか。

西村: ライトモティーフ、これを一度やってみたかったので作曲家冥利に尽きます(笑)。最初のは、紫苑の主題で、これは1幕の冒頭から出ます。その前に前奏曲がございますけど。次は、宗頼という主人公の主題です。いろいろと意志的で上昇志向です。その次が、この段階でまだ形をなしてない半分メモみたいな、魔(第3)の矢のジグザグ型の主題です。半音上がって下がる。ギギギギという、非常に攻撃的な魔の矢のモティーフです。この形より、もうちょっと今は洗練された形になりました。ほかにも、"忘れ草"の主題や、平太の主題などいろいろあります。

実際に大事だなと考えているのは、この紫苑の主題と、宗頼の主題と、魔の矢の主題。これはオペラのほうでは、かなり強力な導きをするような主題ですね。


長木:この作品の原作は石川淳の『紫苑物語』なんですけど、やはりオペラにする時に、どうしてもオペラの論理に入れてかなきゃいけない。『紫苑物語』の原作には、合唱も重唱もないわけですよね。そうすると、小説のどこかを変えていかなきゃいけない。原作の精神を変えずにオペラに移したいという中で、歌にするためにいくつか変えたところがあるんですね。ちょっとその辺の話を、大野さん、お願いします。

大野:形式からちょっと申しますと、最初の場面は、これは原作とは違って、宗頼とうつろ姫の結婚式のところから始まります。なので、そこに60人の合唱団が入って、非常に華やかな場面から始まります。

そしてうつろ姫は、原作においては醜女と書かれているんですけど、それを逆に、女性的な魅力を持った人を、千草の対称として配役しました。狐の役の千草は、高い声が出る、しかも細めの声が出る役柄として配役しています。逆に、うつろ姫は、アルトの、女性として脂の乗りきった声、そしてしかもきらびやかなアルトのコロラトゥーラをお持ちの方で、最初の結婚式の場面に登場したり、藤内と一緒にはかりごとをめぐらします。女性の成熟したアルトというのがふさわしいだろうという形で、そういう風に少しずつ設定を変更をしています。

あるいは、1幕の終わりには、佐々木さんの詞で、陰陽道という宗教に影響されている藤内と、それから子狐の千草の化身であるところの、憑かれた状態の生き物として魔力を持った2人のシーンがあります。そこは、歌だけ聴かせるよりも、ダンスがいちばんいいんじゃないかなというふうな話が出てきて、千草のダンスのシーンでバッカナールで終わることになっています。それはもう、オペラならではということをずっと考え続けてきたことでの、1つの必然としてそういうふうになりました。



3本の弓矢が意味すること



大野:それから、このオペラの、やはり一番のポイントになるところは、宗頼が3本の矢を射る機会というのがこの原作の中にあり、そしてオペラの中でも重要な部分を占めます。

私が質問をさせていただきたいのは、矢の役割ですね。石川淳さんは戦前に、治安維持法で作品を没収されて、そしてそれ以降、戦後までほとんど作品を発表せずにいた。何かしら、戦前に彼が、治安維持法だけではなくて、同胞がどんどん亡くなっていった、彼自身も焼け出されて千葉のほうへ逃げていかなければいけなかった。そうしたなかでの、人間の死というものと対峙せざるを得なかったっていうのが、こういう作品に投影されているのでしょうか。佐々木さん、いかがでしょうか。

佐々木:そうですね。原作の冒頭は狩りの場です。戦闘状態にある時、動物を撃つ時は、人間は動物と同じになっている。ところがその動物の死を見た時に、それまで動物であった人間が人間に戻る、それが人類の歴史だと思います。「もっと殺せ」といくこともあるし、死ということを発見して距離を置くこともある。この『紫苑物語』のなかでは、最初はずっと、空(くう)を打つような矢を打っていた宗頼が、突然、足元を通り過ぎた子狐に向かって矢を射ち、それが当たってしまった。子狐がそこで倒れる。で、そこで初めて、死というものは何であるのかということに、初めて宗頼が気づきます。ここから、生きるとは何か、死ぬとは何か、というような形で宗頼のドラマが始まっていく。

結局その子狐には、初期の段階の知の矢が当たっている。知の矢というのは、認識する矢とこの台本では設定しています。ですから、殺すに至らなかったから、子狐が後にまた狩りに出た宗頼の前に、人間の美少女の形で現れて、妖かしをして、宗頼を自分のほうへ惹きつけていく。宗頼はそれにだまされて、自分の館へ彼女を連れていきます。暴力を生き物に対して使うということと、それを発見する、でもそこから先にまだ行くかどうか。そこのところの葛藤がこの弓矢の動きのなかに、僕は表れてるように思います。

大野:弓のシーンっていうのは、原作でもそうですし、このオペラでもそうですけど、かなり殺伐としているんですね。その殺伐としている風景というのは、おそらく彼自身が戦前戦後を通じて見た風景だったと思います。死の何たるかを知っているがゆえに、人間の生の尊さ、人間の永遠に対しての思い、死と再生の問題、あるいは永遠回帰の問題とか、そういういろんなことがおそらくこの『紫苑物語』のなかには、彼の実体験として書き込まれていたような気がします。

佐々木:『紫苑物語』では、宗頼は自分の弓の師匠、叔父の弓麻呂に弓を教えてもらうんですけども、最後は弓麻呂を殺します。そして実はこれは狼の化身であったと原作ではなっていまして。オペラでもそのシーンは登場させます。この、獣が憑いてるという、この時代の日本人の世界の見方っていうのは、実は今よりももっと豊かだったんじゃないかと思います。逆に、人間の獣性というものを考えることもできます。

僕が台本書いていた頃、100回ぐらいこの短い短編を読みました。1行の動きのなかで、その裏側にある人間というものが、一面的ではなく、いくつものひだを持った心の動きのなかで動いていた。その動きのなかに、非常に、作者の獣性みたいなものはものすごく感じましたね。ですから、時代は中世に戻らなくても、今現代に当てはめたらどうなるだろうかというふうに考えてもいいと思いますね。



宗頼が死を賭して残した「鬼の歌」


大野:最終的には、なぜ石川淳か、というところに自然と戻っていくのかもしれません。

私は、この『紫苑物語』は、宗頼が歌人の家に生まれ、それに自分の人生を捧げようとは思わなかったところから旅が始まり、自分にとって永遠であるものは何かということを探していく、1つの旅の歴史でもあり得るというふうに捉えています。そしてそのなかに、矢が出てくる時には、殺伐とした、死と隣り合わせになっている時の人間の喩えようもない恐れが、この作品を通して私たちのなかにも伝わってくるのだと思います。大量虐殺の世の中に私たちは今生きています。正視できないような事実が、今の世の中でもまかり通っています。死に対しての1つの洞察が、この小説のなかにありますね。

そして今度は、子狐との性愛についてです。これは、西村さんが、西村トリスタンを書いてくれているんですね(笑)。愛の中に恍惚とするというのは、陶然とするという言葉があるように、何も考えない、時が止まっているかの如く瞬間というものを、一瞬かもしれないけども与えてくれるような行為ですね。その生殖的な行為というものは、人間にとっては次の世代を生み出すという行為でもありますので、それはもしかしたら、人間の生命体を存続させるという意味においての、継続性というもの、永続性というものと結び付いてるかもしれません。そこに何かしら永遠なるものを見つけるというのは、意味があるのかなと思います。

ただ、宗頼は、殺すことにも、それから子狐と交わることにも、彼自身が安住の場所を見出せなかったんですね。これは、『紫苑物語』でのポイントです。そして、平太を自分とは違うと思ったことによって、だんだん威嚇しながらも、平太のほうに近づいていくわけです。近づいていかざるを得ない場面で仏というものがあって、宗教の世界というものが浮かび上がってきます。まず、仏自身っていうのは死ぬことがないので、仏を射ることがもともと宗頼に勝利をもたらすことはあり得なかったわけです。それを置いてまでも宗頼は射ようとするわけですね。彼が怖れたのは、その宗教的な法悦と言いますか、宗教的な行為に没頭するということへの、彼自身の嫌悪感というか、これでもないと彼が思ったことだったと思われます。

彼自身はどこに自分がいるべきか、どこに安住の地があるのか、どこに自分が生きる場所があるのか、探してきた。「永遠に自分を残す」と彼は考えてましたから、それが紫苑の花として咲いたということですね。ところが、芸術家として何かを残すというのは、そこに自我があってはいけないんですね。自我の妄執というものから離れたところで、初めて芸術というものの永遠性が、今生きている人たちの手元に引き渡される。そしてそれは、宗頼が死を賭して残した鬼の歌であり、石川淳の最後の1ページに記されている。

最後の場面で西村さんがお書きになった音楽が、何とはなしにどこかで聞いたことのあるような懐かしい旋律ですけども、1本の音が残るんですね。そこに今まで出てきた登場人物が、なんとなく......どこかで狐が鳴いて、どこかでうつろ姫が歌ったり、藤内がうめいたりして、鬼の歌は、しんしん・・・・・・と永久に続くようにして終わっていくのではないかと(笑)。どういう風になるかご期待ください。


長木:まだいろいろ話は尽きないんですけども、時間ですので、これでお開きにしたいと思います。ぜひ2月の本番を、お楽しみにしてお待ちください。




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