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『魔笛』演出・美術 ウィリアム・ケントリッジ スペシャルトークを開催しました


新国立劇場2018/2019シーズンオペラ開幕を飾るモーツァルト『魔笛』。2018年10月3日の初日に先立ち、9月30日に演出・美術のウィリアム・ケントリッジ氏を迎え、トークイベントを開催いたしました。

まずは、聞き手の森岡実穂氏(中央大学准教授)から、アート、演劇、オペラなど多岐にわたるケントリッジ氏の芸術活動の経歴の紹介があり、その後ケントリッジ氏からお話しを伺いました。(通訳:横田佳世子)


光と闇~ポジとネガのイメージ、カメラの中を舞台にした『魔笛』

森岡:今回の『魔笛』は、ブリュッセルのモネ劇場で2005年に大きなオペラ作品としては初めて取り組まれた作品だと伺っております。この作品、『魔笛』を扱うことになったのはケントリッジさんの提案ですか?それとも、どなたか他の方からの提案だったのでしょうか?

ケントリッジ:ご存知のようにオペラハウスというのは、今後上演していきたい演目のリストを作成しています。元々、モネ劇場から私が声をかけられたのは、『タンホイザー』をやらないかということでした。2年間私は『タンホイザー』と向き合い、音楽を聴き続けて真剣に考えたのですが、結局、私には『タンホイザー』は無理だということで降参しました。これでもう一生オペラとは無縁だなと悟ったのですが、モネ劇場側から「『タンホイザー』が合わないなら『魔笛』はどうでしょう」と言われたため、すぐに「イエス!」と返事をして、これから『魔笛』の勉強をしようと思いました。が、そこからが大問題でした。というのは、子供時代の思い出として、タミーノがフルートを吹いて獣たちが出てくる場面は覚えていたのですが、その場面はせいぜい32秒の長さで、このオペラ全体は3時間もある。3時間マイナス32秒の残り全部について考えなくてはいけないのだということが、大問題だったわけです。

 ということで、この『魔笛』を準備するための準備期間に2年ほどかけることができましたが、このプロダクションを作り込んでいくということは、同時に『魔笛』とはいったいどういうものなのかを知る旅にもなりました。そういった意味では、実はドローイングという絵を描く行為とも似ています。絵を描き始める前には、だいたいこういうものだという見当はついていますけれども、実際に体を動かして絵を描きこんでいくことによって、その絵がどういうものか本当に知ることができる。制作をするという過程自体がいろいろなものを明らかにしていくことになります。

 私にとって、例えば、絵を描いているとき、そしてまたオペラを創っていくとき、いずれにも共通していることがあります。例えば、インクや木炭で何かを描く。オペラの場合には、リブレットそのものと向きあって、何かを表現していくという行為があります。その中にある大きなテーマ、意味を汲み取っていくことになるわけですけど、『魔笛』の場合には、まず夜の女王は、闇、暗さということに関連付けられる存在とされています。そして、ザラストロといえば太陽の神官である、それに仕えているということで光と結び付けられがちです。

 これを実際に考えていくと、闇、暗さということで木炭を使って描くことにします。そうすると、大きな白い紙の上に黒の線を引いていくことによって、光の上に暗さ、闇が描かれます。今度は写真のネガでやるようにこれを反転させてみます。そうすると、白の紙というのが黒の背景になって、そして黒の線が白い線として残ることになります。つまり反転させることによって、光であったものが今度は暗さ、闇ということになり、闇であったものが光になります。ですので、白い大きなこの紙の上にいっぱい木炭を使って点を打ち、それを反転させると、まさに夜の女王、その背景にある星空が出現することになります。すぐに、写真的な世界におけるポジとネガというひとつのテーマが現れ、舞台装置は、カメラの内部自体となりました。こういった概要を見ることによって、このオペラの中でどのような様々な要素が現れていったのかということが、お分かりいただけるかと思います。
 


 『魔笛』でもうひとつ素晴らしい点があります。登場人物が皆、捉えどころがなく、どちらとも受け取ることができる。キャラクターが決まっていない。また途中で論理の破綻すら生じているということは、演出する人間にとって本当に素晴らしくやり甲斐があり、いくらでもいじり甲斐があるわけです。

森岡
:普段『魔笛』をよくご覧になっている方は、登場人物の物語上の役割が割り切れないということが、難点と捉えられることがあることもご存知だと思いますけれど、多角的に物事を捉えて、舞台上で表すということで、それがクリエイティビティーに繋がっている。本当にケントリッジさんに『魔笛』をやっていただけて良かったなと思います。

 話は戻るのですが、2005年に『魔笛』をオファーしてきたのは、当時モネ劇場の総裁だったベルナール・フォクロール氏だったということですね。その後、メトロポリタン歌劇場、エクサンプロヴァンス音楽祭とリヨン歌劇場で『鼻』をやったときも、やはり彼の提案だったのでしょうか?

ケントリッジ:これにはちょっと別の経緯があるですが、先方と話をしていて、「ショスタコーヴィチはいかがでしょうか」と言われたのですが、違うオペラを提案されました。そのときに私が答えたのは、ショスタコーヴィチはぜひともやりたいけども、何よりもやりたいのは『鼻』だと。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』じゃないほうが私としてはやりたいと言いました。なぜかと言いますと、私は原作の短編小説が大好きだったからです。

 
先ほどの『魔笛』の話に戻りますと、『魔笛』の場合、私が非常に面白く、やりがいを感じていた要素はどこかというと、闇は闇と割り切れるというものではない。そして闇と光が結局非常に曖昧模糊としていて、関係性そのものも定まらない。最後の場面に出てくるような、完全に光と闇で切り分けられるようなものではないところが、『魔笛』の面白さだと思っていました。同じようにこの『鼻』についても、やはり不条理さ、なんとも言えず理屈に合わないような荒唐無稽さ、そのような要素に惹かれていたのです。ですから、どちらの場合も私は、あらすじから汲み取れる要素以外の大きなテーマに非常に惹きつけられて、やりがいを感じていたことになります。

メトロポリタン歌劇場での『ルル』

   
  ウィリアム・ケントリッジ

森岡:その後、メトロポリタン歌劇場とザルツブルク音楽祭でベルクの作品を2つ続けて手掛けられました。これはどのような経緯でベルクを2つやることになったのでしょうか?

ケントリッジ:自分自身の位置づけを話しますと、私が日々行っているのは美術のほうで視覚芸術になります。ですので、毎日スタジオにこもって絵を描いています。その間に3〜5年くらいの間隔で私はオペラをやっている。そういう意味でオペラを専業としている人たちと違って、年に何本もやるようなたぐいの仕事の仕方ではありません。今お話ししているオペラも、2005年、2010年、2015年と5年間隔でやってきました。ですから、本当に自分自身としても、これは是非ともと思うような作品とばかり関わっているわけです。

 
 先ほどと同じなので皆さんお察しがついているかと思いますけども、メトロポリタン歌劇場が『ルル』をオファーしてきて、すごく時間をかけて考えて「『ルル』、無理」と私は答えました。ですが、あるときドイツの表現主義の木版画作品を見て、『ルル』を伝えていくための言語として、どういった表現がふさわしいのかが見えてきました。あの時代のドイツの表現主義の木版というのは、黒いインクを多用しています。この黒のインクが『ルル』の中の特徴的な刺すという行為、そして、流される大量の血、それに繋がってくるのだと、そういうふうにすれば『ルル』を伝えることができるということができると見えてきました。そこで、先方のジェネラルマネージャーに電話をかけて、「『ルル』をぜひとも」と言ったのですが、「他の方にお願いしてしまいました」と言われました。もう叶わないという時になったら、すごくやりたくなるのですね、人間は。その段階になると、場面の1つ1つが本当に細かなところまで全部眼の前に浮かび上がってくるかのように分かってきました。数カ月後、お願いしていた別の演出家の方が降板されたのでいかがでしょうかとメトロポリタン歌劇場から連絡があったときには、どうすればいいのかということが全部プランニングできていたわけです。このようにしてプロダクションの一つひとつが少しずつ違う道を辿って、少しずつ違うような側面を抱えながら実現していることになります。

森岡:『ルル』はMETのライブ・ビューイングで観たのですが、今おっしゃったように木版画が、刺すような効果がありまして、そうすると、あそこの黒で出来上がっている部分は、その血みどろの箇所ということになるのでしょうか?

ケントリッジ:とは限りません。『ルル』において使われたドローイングの組立て方なのですが、黒々としたまさに墨の黒、日本や中国の墨を使っています。そして、このポートレートは、4枚〜6枚ほどの紙を組み合わせることによって構成しました。敢えてバラバラの4枚か6枚の紙を組み合わせてやっていますので、実際に撮影することによって、この舞台の上に使っている画像を少しずつずらすことができる。その揺れ、揺らぎが、ずっと揺れ動く存在としてこの画像自体に特性を与えているわけです。自分自身の思う通りに落ち着かず揺れ動く存在が、私たちが持っている欲望の対象、求め続けていくものの対象が常に揺れ動いている、常に変化しているということと重なってきます。つまり、ルル自身が欲望の対象となることもある。彼女の恋人たち、出会う恋の対象、思いの対象というものも常に変わっていく。そういった要素とも被ってきます。



歌手と映像が連動するプロダクション


ケントリッジ:私が関わっているプロダクションというのは、常に舞台の上に登場している歌手たちと、私が作り上げていった映像がスクリーンや舞台の上の様々な要素の上に映写されるということによって構成されています。この時に映し出される映像は、本当に様々な使い方がされています。時には、もう舞台装置に相当するような舞台の上の全体の背景として、セッティングとして出てくることもあります。場合によっては、登場人物が目の当たりにしている情景そのものを観客の前に出現させることもあります。また、場合によっては、歌っている内容そのものについてコメントを付け加えている、さらに補っている要素になっている場合もあります。

森岡:この映像と生身の歌手の連動というのが、ケントリッジさんのオペラでは非常に重要な要素になっていることは、ご覧になった方は皆さん分かると思うのですが、実際にこれを劇場で見ると本当にマジックのようですね。これを支えているのは、ケントリッジさんの長年のチームの有能なスタッフの方々だと思いますけど、どのようなお仕事を皆さんがやられているかご紹介ください。

ケントリッジ:私が行っている作品作りは、チームとして協力をしていくコラボラティブなものになっています。具体的に名前を挙げますと、例えば、演出補として関わってくれているリュック・ド・ヴィット、衣裳のグレタ・ゴアリス、そしてあとはキャサリン・メイバーグをはじめとするような人たち。中にはもう25年間ずっと一緒に組んでいる人もいますし、非常に長い間に渡って協力をし続けています。作業の進め方は、まず、最初に全員がヨハネスブルクの私のスタジオに集合します。10日間ほどかけて、例えば、舞台の小さな模型を見ていったり、映像について組立ててそれを考えてみたり、色々なスケッチを見たり、役者をそこに置いた場合どういうふうに見えてくるのか集中的に議論をし、そして話し込んでいきます。そういうことによって、実際に取り組んでいく作品自体がどういった文法と理論によって内部が構築されているのか、それを読み解いていくことになります。

森岡:世界で、どこでこの作品が上演されるときも全員チームで動いて上演をするということになるのですね。

ケントリッジ:だいたいそうなりますが、『魔笛』に関しては、前回の公演から間が空いているということと、東京だったら全員這ってでも行きたいという思いがあって、久々にフルチームメンバーで今回関わることができました。2005年の初演当時に比べると、2018年の現在、映像の技術自体が劇的に変わってきています。ですので、今回の東京におけるプロダクションに関しては、そもそもの初演当時のものに比べて大々的に映像に手を入れて、すべて撮り直し、そして最先端の技術に合うように組み立て直しています。



4つの時代が絡み合う『魔笛』





森岡
:ケントリッジさんのザルツブルク音楽祭での『ヴォツェック』プログラムのエッセイで読んだのですが、この作品の中で、作品自体の19世紀前半というシチュエーションと、それから第一次世界大戦、それからケントリッジさんの故郷である南アフリカの状況。この3つが相互に関わり合うことで1つの作品になっているというようなお話があったかと思います。ケントリッジさんの作品の同時代性というものを語る上でも、これは良いサンプルになる作品ではないかと思うのですが、少しその辺について、お話いただけますでしょうか?

ケントリッジ:どんな作品についても言えますが、例えば、過去を舞台にしているような作品であっても、必ずそれは現代の私たちの今の瞬間と呼応するものがあって、そこの間に対話が起きるものと考えています。ですから、どのような背景のどういった設定の作品に関わるにしても、実は時系列的に3つから4つのものが同時進行で絡み合っていくというのが作品の性質ではないかと思います。『魔笛』を例にすると、そもそも1791年というこの作品が生まれた年があります。それと同時に、作品自体の時代背景として、エジプトの神秘的ないつかの時代。そして、今の私たちの時代、現代があります。そして、4つ目の時代要素は何かというと、舞台の時代設定になります。この『魔笛』の場合には、この背景として選ばれたのは19世紀です。先ほど申し上げた、闇と光が実は反転し得る関係だという要素が決定的になって、写真そのものが発明された黎明期という時代を私は選んでいます。
 
『ヴォツェック』では、原作は1830年代のもの、そして音楽は1920年代のもの。そして、プロダクションとして選ばれている時代というのは第一次世界大戦の前夜、その予兆を感じさせる時代を切り取っています。そして、ちょうど第一次世界大戦が終結して100年経っている私たちの今の時代が絡んできます。もう1つ言えることは、舞台の上にある幕自体がひとつの別の浸透膜、メンブレンという言葉を使いますが、物事を通過させたり、反射させるといくような薄膜として見立てることができるのではないかと思っています。つまり、作品自体の中で作曲があり台本があり、プロダクション自体の様々な思い入れ、思惑などというのが舞台の上に出現されるわけですけど、観客が持つ様々な記憶、思い、連想、そして今までの体験の中からどういうものを予想しているのか、そういったことなどが様々な形で絡み合って舞台の空間のなかに出現していくのではないかと思っています。


森岡
:そうですね、最終的にその作品を受け取って観客が自分の中でさらに作り上げていくイメージというのも、非常に豊かなものであることが望まれるかと思います。今回は皆さんが『魔笛』をご覧になって、日本の今の時代に生きる人がこれを見てどういうふうに感じるのか、どういうことを問題意識として捉えて持って帰るのか、また、ケントリッジさんにも何かお伝えできることがあれば素晴らしいと思います。

啓蒙主義とザラストロというキャラクター


森岡:今回の『魔笛』は光ということと関連して、キャラクターを描いていくうえで啓蒙主義というような考え方、これが非常に舞台の中で大事になってくるかと思います。その点について、観客の方に予め作品中のキャラクターと描き方と作品に書かれた当時に力を持っていた啓蒙主義という考え方、それから、フリーメイソンなどのことについても少しお話しください。

ケントリッジ:それだけで2時間ぐらいお話しできるほどの大きなテーマなのですが、短くお話ししましょう。1791年『魔笛』の時代背景は、啓蒙主義の時代の中で最も未来が明るく見えた時だったのです。ザラストロは、絶対的な地位、要するに完全無欠な知を持つという存在でもあり、同時に絶対的な権力をも彼は備えています。モーツァルトの視点からいいますと、素晴らしい人物、素晴らしい存在ということになります。ですが、その後の時代の中で歴史を振り返りますと、このようにザラストロについてすべてを良い方向に捉えるということは不可能だ、ということを私たちは思い知らされます。初演から2、3年後、まさにザラストロに例えられるような存在が、フランス革命の時のロベスピエールとして現れます。彼はすべてのことを自分は分かっていると思っていました。すべての人間のことを誰よりも自分は心にかけていると思っていた。絶対的な権力を持っている。だったら不穏な分子はギロチンに送ればいいという、そういう立場にあったのです。そのように見ていくことによって、世の中の独裁者、そして専制君主と言われたような人々というのは、すべてザラストロの変化型だということに私たちは気づきます。すべてのことを分かっている。すべての問題の解決方法も見えている。そしてやるべきことを実現させるだけの権力を手に入れているという人たちだったわけです。しかし、そこに現れて来る力というのは必ず暴力そのものとなるのです。私たちが目の当たりにしているのは、モーツァルトと登場人物が抱く、これから良い方向に向かうに違いないという思いと、それと表裏一体として現れてくる絶対的な力が持っている暴力性とその危うさなのです。

森岡:ありがとうございました。ザラストロというキャラクターが、非常に現代性を持ったキャラクターであることが、この舞台を通して掴めるのではないかと思います。ザラストロの2幕のアリア「この聖なる神殿では」は、パミーナに向けて歌っているアリアだと思いますが、この場面での2人の演技が注目するところかと思います。このアリアの演出について、後ろで流れているフィルムを含めてお話しいただけますか?

ケントリッジ:ザラストロが歌う中で、「この壮麗な広間において敵対心はなにもない。ここにあるのは愛とそして博愛だけだ」といった意味の言葉を口にします。そして、台本を読んでいきますと、ザラストロは、これこそが君のためだ、これこそがすべての人の最大の幸福に結びつくという、その答えのすべてを握っているということになっています。そのように、すべての人にとっていちばん良い結果を導くのが何なのかを知っているからこそ、ザラストロはパミーナを怯えさせても大丈夫、それも許される。パミーナをさらって行っても許される。パミーナに強制的に結婚相手を押し付けても大丈夫。夜の女王を爆死させ、完全に破滅させたとしてもザラストロがやることだから間違いはない、そのようにオペラ的には当たり前とされ、許されている存在として台本の中では描かれていますけれども、このすべてが極めて暴力的なわけです。

 
そして、今ご質問いただいた映像は、サイが狩られていく様子を見せています。タミーノが笛を吹くところでは、サイという野生の生き物が完全に手なづけられ、なつくまでの様子と、今お話ししたような様々な暴力的なことをザラストロが考えているときには、そのサイが追い詰められて撃ち殺される狩りの様子が出てきます。ですので、そのようなシーンでは歌っている内容と真逆のことが映像として表れ、描かれているということになります。言葉の優しさ、声の柔らかさ、そういうものにだまされては危ないですよという警告を発していると捉えることもできます。

森岡:あの映像は、ちょうどビクトリア朝の時代に帝国主義のヨーロッパ人たちが植民者として出て行って、アフリカでやっていたようなサイ狩りの記録映像だと思うのですけども、そういう歴史的な意味もあるでしょうし、またそこで男2人のホモ・ソーシャルな関係、ザラストロの集団というのが非常に男性中心的な社会、女性を排除するような社会というメッセージもそこに読み取れると思います。パミーナに「見ろ」というふうにザラストロが頭を上げさせる場面があります。あれは非常に最も暴力的な場面のひとつなのではないかと思います。

ケントリッジ:ひとつ言えるのは、パミーナというのがやはりこのオペラの中で最もやることが多く、一番重要な行為に踏み切る存在だということです。例えば、死の谷を分け入って行くところにおいてもタミーノを救い、導いていく存在ですし、オペラすべての中で最も重要なセリフというのはパミーナに与えられています。パパゲーノがこれからどうすればいいのだろうと言ったときに、「真実を言うのよ。」というその一言があるわけです。

森岡:今回パミーナの重要性ということもプログラムのケントリッジさんの文章にも書いてありますね。ぜひいろいろな側面に注目しながら、この複雑で読み取りがいのあるプロダクションを楽しんでいただければと思います。今日は、非常に意義あるお話をいろいろ聞かせていただきまして、ケントリッジさん、どうもありがとうございました。


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