スペシャル・トーク
レポート


「東京裁判三部作」新国立スペシャル・トーク
─ 井上ひさしの現場 ─


第二回
2010年5月12日(水)小劇場
出席者:熊倉一雄
聞き手:大笹吉雄

最初から遅筆だった

大笹●そうですか。『ひょっこりひょうたん島』では、熊倉さんは確か「とらひげ」でしたね。
熊倉●ええ、「海賊とらひげ」です。
大笹●これはたいへん評判になった作品で、もうひとり、山元(護久)さんとの共作ですね。
熊倉●そうです、この方もなかなかいいセンスの方で、どこが山元さんで、どこが井上くんが書いたのか、わからなかった。2人でお打ち合わせをして、やっと書くとひとりの人が書いてるように見えるんですね。NHK に考査室というのがありまして、ここのところ具合が悪いんじゃないのといろいろチェックしてくるんですが、どっちに聞いたらいいのかわからない。そのぐらい、上手にお2人はタッグチームを組んでましたね。
大笹●これは脚本早かったですか?(笑)
熊倉●いいえ(笑)ディレクターのこととか、スタジオのこととか、井上くんはいろいろチェックして調べるんです。その間に書いてくれればいいのに、ギリギリのところまで待たせる。台本が来ないこともあって一週抜けたこともありました。それから、そのころは今みたいな簡単な機械がありませんで、こんにゃく版って言いましたかね、こっちに来る台本が乾いてないんです。ビチョビチョで、来たばかりのビチョビチョの台本でマイクの前で何とかやったことがありました。そのころからどうしようもない。(笑)私のところのお話をしますと、『ひょっこりひょうたん島』があんまりおもしろいお話なので、芝居を書いてもらったらいいんじゃないかなと思いまして、あれは昭和42年の9月に、何とか書いてくれるということなので、井上くんと打ち合わせをしました。彼は、すごく細かく箱書きといいますが、こういうシーンがあって登場人物はこうと、始めから終わりまでずーっと、一晩で書いてくれたんですよ。で、9月の打ち合わせで、10月の末までにはこれはできますということで、お願いしますと言ったんですが、10月の末は全然できてなくて、(笑)あのころ、コーヒー屋で書いてまして、あのころのコーヒー屋はおおらかでね、座ってモノを書いていてもあんまり文句も言われないんですよね。
大笹●喫茶店ですね。
熊倉●そうそう、喫茶店です。(笑)ごめんなさいね。その喫茶店で書いてるところにも何回か行ったりしましたが、へたに行くと、困ったことに私のほかに『ひょうたん島』のディレクターもいるんですよ。そのディレクターがいない時を見計らってパッと行き、どこまでできましたかと聞くんですが、なかなかできません。で、12月の末までに何とか書きましょうということになりました。それでもできませんでしたので、年を超えて43年の頭ぐらいに、彼がホテルにこもってたりしてたんで、そこへ行って横で座ってる、座っててもだめなんですけどね。結局30枚できたりするわけです。それを持って帰ってプリントなんかしてると、その30枚はやめましょう、(笑)おもしろくありませんでした。当人がおもしろくないと言うならしょうがありません。こういうことが3度ぐらいありましたか、そのうちにいろんな人が、井上さんところの一家が病気になりましてね、下の娘さんが腸重積という大変な病気になりました、これは大変なんですと、(客席に)そんな病気知ってますか? 私は知らなかったんですが。そういうことがあったり、おじさんが亡くなったか、そんなことがあって、もういいからしばらく待ちましょうと、そのあとは、彼はそのころ市川におりましたから、お宅にずっと劇団員を差し向け、ずっといていただくという最終的な状況になりましたが、3日かかってとってもきれいに書いた表紙だけをもらってきました。(爆笑)でも、とにかく1年たって、43年の9月の末に一幕ができました。つまりヘレン天津というストリッパーが、日本の社会構造をずっと上がっていって政治家の二号になって、またそこからずーっと落っこちていくんです。最終的に自分が元いた、東北のチベットといわれるところへ戻ってしまうという、ストリッパーの一代記みたいなもので、これをどもりの学校の生徒が発表会でやるという、どもりは歌上手だと言われてるぐらいで、しゃべるとどもるけど、歌ではどもらないということで、これはミュージカルになっています。一幕ができてホッとしたんですけど、作曲の時間をとらなければいけないので、二幕ができるまで待ちましょうと思っていたら九月の末から十二月になってもできませんで、十二月の末にしびれを切らして稽古し始めました。立ちに入り、だいたいできたなと思ったころに二幕ができあがりました。それで翌年42年の2月にやっと上演にこぎつけたというわけです。
大笹●いまのお話は『日本人のへそ』という作品なんですが、この作品は井上さんが劇作家として本格的にデビューされたもので、その前にちょっと作品はあることはあるんですけど、本格的デビューはこれだということで、そのきっかけをつくったのが熊倉さんだというお話なんですね、いま。
熊倉●つまり、私が芝居の世界に引きずりこんじゃったんです。それまでは彼はなかなか腕のある放送作家だったんです。
大笹●でも、『日本人のへそ』というタイトルは一説によれば熊倉さんがおつけになったとか。
熊倉●話してるうちに、私が「日本人のへそ」と言い出したんです。あんまりお気に召さなかったようですけど。
大笹●やっぱりそうなんですか。
熊倉●タイトルは私が。しゃべってるうちになんとなく出てきちゃったんですよ。
大笹●でも珍しいですよね、そういう作家がつけないタイトルというのはこれ以外ないですよね。これが、今のテアトル・エコーは小劇場をもってるんですけど、前の「屋根裏劇場」というところでおやりになった。
熊倉●最初は原宿のほうで稽古場を借りていたんですが、東京オリンピックが始まるというので、稽古場の前の道を広げるということになり、稽古場がなくなっちゃったんでしょうがなくて恵比寿のほうに移ったんです。瓶問屋さんの倉庫がありまして、そこを手にいれたんですが、借金がいっぱいありますから、1階をゴム問屋さんに貸しまして、われわれは2階だけを使っていたんですが、その2階は天井がなく、直接屋根だったんで閉口してたんですが、ここで芝居できるんじゃないのということで、結局稽古場を半分に切って、半分を客席に、半分をステージにして、屋根裏が劇場ですから「屋根裏劇場」と、劇場というほどでもないんですが、屋根裏劇場と称して、お客さんを呼んでいろいろ芝居をやって、しばらくして井上くんの『日本人のへそ』にぶつかったんです。まだ下は貸したままでしたから、客席は折りたたみの椅子をだいたい70ぐらい、無理をすれば置けたものですから、ところが『日本人のへそ』になったら口コミでいろいろあったらしくて、ひどいときには130人ぐらい入った。どうやって入ったかわかりませんが、とにかく柱につかまったままの人がいたとか、これをとても井上くんは喜びましてね、下足係をやってくれました。結局2階に上がっていくのに普通の下足じゃだめなものですから、スリッパに履き替えていただきゃならない、われわれがふだん使っていた下駄箱をお客さま用に整理していれる、結構こまごました仕事をやってくれて、結局気分が良かったのか、しばらくの間、うちの劇団員になってくれました。
大笹●そうですよね。『日本人のへそ』の翌年が『表裏源内蛙合戦』で、そしてさらに翌年が『道元の冒険』、そこまでが屋根裏劇場でしたよね。
熊倉●お客様が笑うたびにずるずる動くんですよ。それで無理に無理を重ねて1階も手にいれてしまいまして。それで1階にステージをつくりまして、これがちゃんとした「エコー劇場」になりました。
大笹●そうでした。
熊倉●その柿落としが『表裏源内蛙合戦』でした。
大笹●3本とも熊倉さんの演出ですよね。いかがでしたか、演出する戯曲としてはどんなものでしたか。
熊倉●とにかく『日本人のへそ』をやるときは、ほとんどの劇団員がおノリになる方がいなくて、これどうやってやるの? こんなものと言われて、で、私が演出するしかなくなった。そこから演出家にならされたみたいなもので。そのうちに『源内』も『道元』もさせていただきました。
大笹●今年の9月に、『日本人のへそ』をテアトル・エコーとして初演以来初めて上演するんですね。
熊倉●初演のときにあんまり入ったんで、追っかけて3日ぐらいやったことがありますが。でも、初演のメンバーは、山田康雄は亡くなりましたし、平井道子も亡くなり、二見忠男もいなくなりましたし、ずいぶん昔の連中はいなくなっちゃったんですね。
大笹●熊倉さんはお出になるんですか。
熊倉●やっぱり出ようと思っています。(拍手)しつこく、教授という役で全部の進行役みたいなので、どうしようもなく。どもりの学校の偉い先生ですね。
大笹●ぜひテアトル・エコーのほうにもお越しいただきたいと思いますけれども。どんでん返し、どんでん返しの連続で、大変な作品なんですよね、これ。
熊倉●そうなんです。だいたいあのころ、井上くんは「どんでん」が好きになつちゃって、こういう話かと思うとばんと変わる。またこういう話かなと思うとまた変わる。
大笹●そうですね。
熊倉●それで、また最後に変わるという。初めから奇想天外の人でした。