正義、自由、夫婦愛を讃えるオペラが、新国立劇場に高らかに響く―
新国立劇場開場20周年記念を祝して新制作するオペラ『フィデリオ』。リヒャルト・ワーグナーの曽孫でバイロイト音楽祭総監督である気鋭の演出家カタリーナ・ワーグナーが演出することでも大きな注目を集める公演を、オペラ芸術監督・飯守泰次郎が指揮する。
なぜ今、『フィデリオ』なのか、その思いを語り、オペラ芸術監督としての4年間を振り返る。

<ジ・アトレ2018年1月号より>

飯守泰次郎

開場20周年記念シーズンの新制作の演目に『フィデリオ』を選ばれた理由をお教えください。

飯守 『フィデリオ』はベートーヴェン唯一のオペラで、『フィデリオ』という名を聞いただけで私は身が引き締まるほど、オペラの中でも特別な作品です。というのは『フィデリオ』には、ベートーヴェンの最も深い哲学が表現されており、人の心にこれほど深い感動をもたらすオペラは他にないからです。欧米では劇場の大きな節目、重要な記念の日を祝うために『フィデリオ』を上演するという伝統があります。やはり『フィデリオ』は、新国立劇場開場20周年記念だからこそ上演すべき作品なのです。
ベートーヴェンといえば忘れてはならないのが九つの交響曲であり、彼は音楽史の流れを革命的に変えた作曲家です。つまり、彼の音楽は革新的なのですが、現代の私たちは「偉大なベートーヴェン」「偉大な第九」と、型通りに受け取ることに慣れてしまい、作品の力強い本質を忘れてしまっているのではないでしょうか。
『フィデリオ』が作曲されたのは、ヨーロッパにおける時代の大きな転換期でした。実は私たちも同じように時代の転換期を迎えているのです。今こそ偉大な作品『フィデリオ』を深く掘り下げ、時代を超えて私たちに訴えかけてくるベートーヴェンのメッセージを熟考するべきだと、私は強く感じています。

この『フィデリオ』は、オペラ芸術監督の任期最後に指揮する演目ですね。実のところ、監督は最後にワーグナーを指揮なさるだろうと想像しておりました。

飯守 皆さんそうおっしゃいます(笑)。私にとってベートーヴェンは、ワーグナーと並んで最も深く掘り下げてきた作曲家なのです。私は新国立劇場でワーグナー作品を多く指揮してきましたが、ワーグナーはベートーヴェンに強く影響を受けていて、『フィデリオ』がなければワーグナーの楽劇は生まれなかったと私は思っています。そんな『フィデリオ』を芸術監督の任期の締めくくりとして指揮したいと思っていましたから、それが実現することをとても嬉しく思っております。

演出は、ワーグナーの曽孫であり、斬新な解釈をなさることで話題のカタリーナ・ワーグナーさんです。彼女を選んだ理由をお教えください。

飯守 ベートーヴェンの音楽は今でこそ古典と言われますが、作曲当時は大変センセーショナルなものでした。ですから『フィデリオ』の革新性を表現するような、問題提起する舞台をつくるべきだと思ったのです。カタリーナ・ワーグナーさんならそんな舞台をつくってくださるに違いないと思い、依頼しました。彼女はバイロイト音楽祭の総監督ですが、実はとても若い人で、次世代のオペラ界を担う人です。ドイツ各地の劇場でワーグナーをはじめとするさまざまなオペラを演出しており、最近では2015年バイロイト音楽祭『トリスタンとイゾルデ』が高く評価されました。今回、若い彼女ならではの示唆に富んだ解釈による、新国立劇場が世界に発信するにふさわしい『フィデリオ』が誕生することを期待しています。
 また、カタリーナさんは新国立劇場と縁があり、1997年、新国立劇場開場記念公演『ローエングリン』ではカタリーナさんの父ヴォルフガング・ワーグナーさんが演出されました。カタリーナさんは、新国立劇場のオペラでおそらく初めて親子二代にわたって登場される方です。開場20周年を象徴する特別な巡り合わせを大変嬉しく思います。

今回の上演を通して、お客様には『フィデリオ』のどのような点に注目していただきたいですか。

飯守 日本だと『フィデリオ』は、上演回数が少ないこともあって、少し難しいというイメージがあるかもしれません。しかし、これほど素晴らしいオペラは他にないということを、今回の上演を通して日本のお客様にもぜひ知っていただきたいです。
ベートーヴェンは、音楽の中に極めて強い自分の「意思」を込めた最初の作曲家です。そのため、彼の作品は、劇場での体験を通して聴き手の内面にドラマを引き起こし、聴き手に精神的な豊かさをもたらします。音楽の持つ力が、人の心を強く変えていくのです。この点でベートーヴェンはワーグナーの先駆者といえます。
 当時のオペラの題材は、身を焦がすような恋、浮気、嫉妬といった人間の生きざまをさらけだすもので、オペラは一種、娯楽に近いものでした。しかし他の作曲家と違い、ベートーヴェンは、音楽によって人をより崇高な世界へ導きたいという強い欲求を持っていました。そこで、オペラを作曲するにあたり、娯楽的な題材では納得できず、自分の理想に一致する台本を探し求めました。そして、より深く、より高貴な人間像を描くのにふさわしい「救出劇」という題材に出会ったのです。それが『フィデリオ』です。主人公レオノーレが、夫フロレスタンを救うため、男装してフィデリオと名乗り、命をかけて牢獄に乗り込んでいくという、彼女の勇気ある行動が劇的に描かれる物語です。オペラの題材が「気高い夫婦愛」とは本当に異色ですが、生涯独身だったベートーヴェンの女性に対する理想像がはっきり読み取れます。フィナーレでは、合唱が「素晴らしい妻を得たものは、この歓喜に参加せよ」と高らかに歌いますが、これは約20年後に作曲される「第九」の第4楽章の合唱の歌詞と同じなのです。つまり、彼は一生をかけて『フィデリオ』の理想を温め続けていたということです。

聴きどころはどこでしょう。

飯守 たとえば第1幕の四重唱。レオノーレ、マルツェリーネ、ジャキーノ、ロッコ、4人それぞれの希望、絶望、心情が、美しく静かなアダージョのカノンで歌われますが、これは「第九」第3楽章のアダージョにも通じる、瞑想と至福の音楽です。一方で、フロレスタンを抹殺しようと決意するドン・ピツァロの破壊的な悪のアリアは、不協和音とアクセントの連続です。このような両極端な表現にこそ、ベートーヴェンの二面性が表われていると思います。また、レオノーレが決意と希望を歌い上げるアリアには、ベートーヴェンの理想の女性像が凝縮されています。自由と解放を求める有名な囚人の合唱には、「闇から光へ」という彼の生涯のテーマが感動的な響きであらわれます。
 フロレスタンは長く地下牢に閉じ込められていますが、それでも変わらない高潔な人格が見事に表現された第2幕のアリアは聴きどころです。そして、フロレスタンの人物像をカタリーナさんがどのような方向から捉えて描くか、とても楽しみです。

2014年10月「パルジファル」より 撮影:寺司正彦  

2014年10月、『パルジファル』新制作からスタートした飯守オペラ芸術監督時代ですが、新国立劇場20年の歩みの中で、どのような4年間だったとお考えでしょうか。

飯守 時間が経つのは早いものです。2014年の『パルジファル』は、私の任期の最初の演目というだけでなく、これによって新国立劇場はワーグナーの主要10作品すべてを上演したという、劇場にとって大きな出来事でした。また、開場20周年の今シーズンに向け、「ニーベルングの指環」を世界最高峰のワーグナー歌手陣をそろえて2015年から3年かけて完結し、高水準の上演ができたことは素晴らしいことでした。これらの印象が強いのか、私のラインアップはワーグナーなどドイツもの中心だと言われますが、それは誤解です。新国立劇場でヤナーチェク作品の初上演となった『イェヌーファ』、フランス・オペラの『ウェルテル』、新国立劇場では15年ぶりの上演となったベルカント・オペラの『ルチア』を上演し、2月には細川俊夫『松風』を日本初演します。新国立劇場で上演機会の少なかった作品を含め、さまざまな国、民族、分野の演目をバランスよく上演するよう尽力してきました。

 また、歌手についても、旬を迎えている歌い手を丹念に探して、責任をもって選んできました。声のタイプ、キャラクターを考えてキャスティングすることが重要だといつも私は考えています。そして、役と声がぴたりと合う歌手がステージにそろい、彼らが情熱と使命感をもって歌ったときに聴衆は熱狂するのです。お客様から「新国立劇場は再演演目もキャスティングが大変充実している」とのお声をいただき、私も大変嬉しく思っています。また、唯一の国立のオペラハウスである新国立劇場は邦人作品を上演していくことも大変重要な使命です。宮田慶子演劇芸術監督が演出された松村禎三『沈黙』は、初演では中劇場で上演しましたが、オペラパレスに移して一段と大きなスケールで上演したことで大変好評でした。

オペラ芸術監督として、最も大切にしてきたことは何でしょう。

飯守 「劇場の温度を上げる」ことです。劇場は「生きもの」です。舞台と客席の熱狂なしには素晴らしいオペラは作れません。どうしたら舞台と客席を熱く出来るか、私は常に考え、全力を尽くしてきました。おかげさまで、芸術監督就任直後と現在を比べると、劇場の「温度」が確実に上がっているという実感があります。

新国立劇場の将来への期待についてお聞かせください。

飯守 「開場20周年」ということは劇場としてはまだ若いですから、これからもレパートリーをもっと増やしていってほしい。そうして一流歌劇場として、アジアにおけるオペラ鑑賞の一大拠点となることを期待しています。

監督の4年間の集大成としての『フィデリオ』。5月の初日が待ち遠しいです。

飯守 『フィデリオ』は、ベートーヴェンの理想主義、深い哲学が観る人の心に響く、「第九」に勝るとも劣らない深い感動をもたらす作品です。その感動は、カタリーナさんの演出以外には味わうことのできない特別なものになるに違いないと私は期待していますので、皆様もぜひご期待ください。