英国サフォーク州の海沿いに位置し、人口2800人ほどのオールドバラ。作曲家ブリテンが大戦後すぐの1947年から居を構え、1976年に亡くなるまで住み続けた美しい町です。戦前に北米で過ごした数年のうちに、故国の文化状況を見詰めなおそうと思い立ったブリテンは、歌手ピアーズの助言を受けて、それまで目立った音楽活動が無かったイングランドの東部に光を当てるべく、この町と周辺地域を中心としたフェスティバルを1948年に設立しました。 自然環境に恵まれた土地を音楽で活性化し、若き音楽家をじっくり育てたいというブリテンの願いは多くの協力者を得て、バリトンのフィッシャー=ディースカウ、ピアニストのリヒテル、チェリストのロストロポーヴィチといった大芸術家もこの音楽祭に参加しました。また、ブリテン自身の作品も数多く初演されており、オペラでは『真夏の夜の夢』(1960)や『ヴェニスに死す』(1973)が特に有名です。ちなみに、オールドバラは『ピーター・グライムズ』の原作者、詩人ジョージ・クラブの生誕地であり、オペラの舞台もこの町をモデルにしています。
ブリテンが生涯のパートナーとしたテノール、ピーター・ピアーズ。1930年代前半に出会ってから、彼はこの作曲家の良き理解者となり公私ともに支え続けました。同性愛者であり良心的兵役忌避者にもなったため - 大戦中の二人は各地で演奏活動に勤しみました - 差別的な扱いを受けることもあったようですが、戦後はその繋がりも徐々に受け入れられるようになりました。ただし、英国で同性愛が法的に認められたのは1967年からであり、それまでは彼らの関係も不安定な状況におかれていたことになります。 ピアーズはブリテンのオペラを多く初演しましたが、中でも悲劇の『ピーター・グライムズ』(1945)で演じた「社会と上手く交われない」漁師グライムズ、喜劇『アルバート・ヘリング』(1947)で純朴すぎて周囲についてゆけない青年アルバート、怪奇譚『ねじの回転』(1954)で子供を悪に誘う幽霊クイント、『ヴェニスに死す』で見知らぬ青年の美貌に憧れる老小説家といった個性的な役柄でそれぞれ大成功を収めています。歌手の卓抜した表現力が作曲家の楽才を刺激した何よりの証なのでしょう。
20世紀最大の歌劇作曲家と称されるブリテン。その理由は何より、大戦後に発表した15作のオペラの殆どが今も世界中で上演され続ける点にあります。2012年の一年でもミラノ、ローマ、モスクワ、ニューヨーク、チューリヒ、プラハ、ワルシャワ、メキシコシティなど各地で盛んに取り上げられているのです。 聴き取りやすいメロディをふんだんに盛り込みながら、斬新なハーモニーと楽器特有の音色を駆使して自然の息吹から幻想世界まで体感させるブリテンの音楽。人の心を深く掘り下げる彼のオペラでは、主人公だけでなく周囲の人々も個性豊かであり、舞台に接するたびに目を凝らして眺めずにはいられません。『ピーター・グライムズ』でも、意地っ張りで深い孤独を抱えるグライムズ、彼を愛しながらも救えず絶望する女教師エレン、社会の掟を護るため漁師に引導を渡す老船長、社会正義を声高に訴えながら麻薬に溺れるセドリー夫人といった人々がドラマの真実味を厚くしています。
ブリテンは1955年からピアーズと共に極東地域を旅行しました。 翌56年には日本を訪れ、自作の『シンフォニア・ダ・レクイエム』(戦前に日本政府から委嘱されて書き上げた曲)を振るため指揮台に立っています。また、滞在中に接した能曲『隅田川』に深い感銘を受けた彼は、「情熱を保ちながらも遅い動き、豪華な衣裳、歌と語りとが微妙に交じり合う様」と具体的な印象を口にした上で、その世界を自分の手でオペラ化したいと思い立ち、設定を中世イングランドに置き換えた『カーリュー・リヴァー』を1964年に発表しました。ちなみに、本作では、能の美学に倣う形で、ヒロインの狂える女(Madwoman)にはテノールが指定されました。初演の際はもちろんピアーズが歌っています。
ブリテンのオペラには、社会に溶け込めないでいる者への共感が強く窺えます。それは、同性愛者として好奇の目にさらされた作曲家ならではの「疎外された人々への眼差し」です。『ピーター・グライムズ』でも、手伝いの少年を次々と事故で亡くすグライムズが村人たちに追い詰められますが、ブリテンは彼の行動を冷静に見守りながら、アリア「大熊座と昴は」でその胸中を雄弁に語らせます。 実は、本作の初演を準備中の作曲家自身も「疎外感」を人一倍噛み締めたひとりでした。リハーサルに参加した歌手や合唱団は音程の難しさを口々に訴え、劇場側は大編成のオーケストラに財政的な不安を募らせ、作曲者の人格やセクシュアリティに対する誹謗中傷も始まるなど、稽古場の雰囲気は最悪の状況にあったと伝えられています。 しかし、初演の大成功が軋轢を打ち消しました。芸術とは関係ない雑音に耐え抜いたブリテンは、精神的な逞しさも得た結果、キャラクターの人格を全否定せず、個々の内面を見据えたオペラを作り上げました。多様な人物像がいずれも鮮明に描かれる『ピーター・グライムズ』から、人間性を見つめ続けた作曲家ブリテンならではの「音の心模様」を聴きとってみて下さい。