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Die Walküre
ワーグナー:楽劇「ニーベルングの指環」第一日 全3幕<ドイツ語上演/字幕付> オペラ劇場 OPERA HOUSE
特別協賛:POLA
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<スタッフ> |
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台本・作曲 |
:リヒャルト・ワーグナー |
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芸術監督
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:五十嵐喜芳 |
指揮 |
:準・メルクル |
演出 |
:キース・ウォーナー |
装置・衣裳 |
:デヴィッド・フィールディング |
照明 |
:ヴォルフガング・ゲッベル |
アドヴァイザー |
:ヴォルフガング・ワーグナー |
演出補 |
:マティアス・フォン・シュテークマン |
衣裳スーパーバイザー |
:イヴォンヌ・ミルンズ |
プロダクション・マネージャー |
:ジョナサン・バートレット |
舞台監督 |
:大仁田雅彦 |
副指揮 |
:ライオネル・フレンド/三澤洋史/城谷正博 |
演出助手 |
:澤田康子/エマ・ウォーナー |
管弦楽 |
:東京フィルハーモニー交響楽団 |
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主催 |
:新国立劇場 |
共催 |
:オペラ団体協議会 |
協力 |
:日本ワーグナー協会 |
特別協賛 |
:株式会社ポーラ化粧品本舗 |
日本ワーグナー協会・新国立劇場共催「ワルキューレ」講演会 |
<キャスト> |
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2002年 |
3月26日 (火) |
29日 (金) |
31日 (日) |
4月1日 (月) |
4日 (木) |
6日 (土) |
7日 (日) |
ジークムント |
ロバート・ディーン・スミス |
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アラン・ウッドロー |
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フンディング |
ドナルド・マッキンタイア |
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長谷川顯 |
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ヴォータン |
ジェームス・ジョンソン |
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ドニー・レイ・アルバート |
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ジークリンデ |
スーザン・アンソニー |
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蔵野蘭子 |
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ブリュンヒルデ |
リンダ・ワトソン |
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スーザン・ブロック |
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フリッカ |
藤村実穂子 |
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小山由美 |
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ゲルヒルデ |
池畑都美 |
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オルトリンデ |
森野由み |
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ワルトラウテ |
大林智子 |
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シュヴェルトライテ |
黒木香保里 |
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ヘルムヴィーゲ |
平井香織 |
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ジークルーネ |
白土理香 |
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グリムゲルデ |
菅有実子 |
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ロスヴァイゼ |
岩森美里 |
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<公演日程> |
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2002年 |
3月26日(火) |
29日(金) |
31日(日) |
4月1日(月) |
4日(木) |
6日(土) |
7日(日) |
15:00開演 |
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17:00開演 |
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開場は開演の60分前です。
開演45分前から、客席にて当作品の簡単な解説をいたします。 |
<前売り開始日> |
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2001年12月 9日(日)10:00〜 |
<チケット料金> |
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席種 |
S席 |
A席 |
B席 |
C席 |
D席 |
E席 |
料金 |
23,100円 |
18,900円 |
14,700円 |
11,550円 |
7,350円 |
4,200円 |
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壮大な物語の新たなる幕開け。
ワルキューレ2002の見どころ 音楽評論家 長木誠司
1. ラインゴールド2001からの予感
2001年の『ラインの黄金』は、「トーキョー・リング」という、いささか軽佻浮薄の感ありの呼称にはちょっと違和感を覚えるような、ずっしりとした手応えを持つ上演であった。なによりもそれは、これまでプログラムと演出両面の保守性を指摘され続けている新国立劇場が、「国立」の名を冠している意地を見せんばかりに放ったクリングゾルの聖槍とでも言うべきもので、
それが投げ手の意にそぐわずに宙に留まって、やがてはいかがわしい花園の消滅とともに予定調和的な世界に戻ってゆくのか、はたまたさらにいかがわしい世界を助長し続けて、観るものの目をさんざんに壊乱し、翻弄しつつ、目一杯楽しませてくれるのか、そうした今後の展開が見ものである。もちろん、貧欲な聴き手・好奇心の塊のような見者は、物語の退屈な予定調和などけっして期待していない。
多くのひとびとは、不謹慎かも知れないが、アンフォルタスの血が流れ続けることを望み、もっともっと不思議な、訳の分からぬ世界に誘って、≪リング≫の広大な宇宙を堪能させて欲しいと思っているに違いない。それが可能であることを予感させてくれたのが『ラインの黄金』であった。まだ四部作の序夜が終わったばかりだが、第1日である『ワルキューレ』こそ、「トーキョー・リング」の行く末を占う試金石のようなものになるだろう。
2. 演出家キース・ウォーナー
もちろん、≪リング≫はワーグナー通だけのものではない。しかしながら、演出家ウォーナーは、西洋音楽の「棲息」する「東限」とも言うべき東京の上演に際し、これまでの欧米における≪リング≫演出の脈絡とその現状をまったく無視した、<日本限定版>のようなものの制作をいっさい念頭に置いていない。それこそ、「世界に誇れる我々のリング」の誕生を待ち望んでいた日本のワグネリアンたちが、一気に溜飲を下げた要因だろう。
作品の解釈とその新たな読み込み、現代との接点とそれを前提にした読み替え等々、ウォーナーの演出は、八〇年代以降、先端に居つづけようとするどんな演出家も試みているような当然の姿勢を、作品に対して採っている。それは、今回の≪リング≫の場合、かなりスペクタキュラーな方向で行われているが、同時にこのオペラの物語に通じていればいるほど、登場人物たちの動きやちょっとした振る舞いに謎を感じさせるようなものになっている。
ヴォータンが映写室で見る物語として始まる≪リング≫は、どのような決着がつけられるのか?アルベリヒとともに現れる女性は、すでにハーゲンを身ごもっているのか?そのアルベリヒ退場後に、満足げに彼の椅子に座るミーメの心中は?そして、自ら急所を刺して天上を去るアルベリヒの脱生殖力の意図するところは?
3. 準・メルクル下のオーケストラ
≪リング≫の物語にさほど通じていない聴き手にとっても、コントラストの美しい舞台の色彩感や、場面転換に伴う装置のめくるめく移動、そして大蛇登場の場面に代表されるような、装置の効果的で分かりやすい、同時に意外な驚きを秘めた使用法など、理屈抜きに楽しめる視覚的要素は盛りだくさんなので、作品に慣れ親しんでいる程度に従って、いろいろな感じ方・楽しみ方ができるだろう。
こうした多層的な演出こそ、まさに新国立劇場に待ち望まれていたものだったはずだ。そして、ワーグナーのドラマに肝心のオーケストラ。『ラインの黄金』を担当した東京フィルは、重量感こそ物足りなかったものの、むしろその裏返しとも言うべきフットワークのよさで、新感覚のワーグナーを紡いでゆく。いわゆる「ドイツ風」のワーグナーを期待していると、いくぶん気持ちをそがれるだろうが、
的確なバランスでライトモティーフを配置しながら、むやみに力こぶを作らない準・メルクルの指揮とともに、好印象を与える。『ワルキューレ』までは東京フィル、その後はNHK交響楽団に引き継がれると聞いているが、両オーケストラの音楽作りの違い、オーケストラによるメルクルの振り分けなども、今後の興味深いポイントになるだろうと思う。
あらすじ 音楽評論家 三宅幸夫
「ワルキューレ(いくさ乙女)」という題名(原語は定冠詞つきの単数)からも察せられるように、この作品は主神ヴォータンと地母神エルダのあいだに生まれた「ブリュンヒルデ」の成長物語です。主神は人間女性とのあいだに生まれた息子ジークムントに世界支配の指環を奪回させようと目論んでいましたが、正妻で婚姻の神フリッカは、彼がフンディングと結婚していた妹ジークリンデと近親相姦を犯したことに激怒し、この計画をぶちこわします。
ヴォータンの愛娘ブリュンヒルデは主神の命令にしたがってジークムントに死を告知しますが、なによりも愛を尊ぶ彼の生きざまに深く共感し、フンディングとの決闘で味方すると約束します。しかし、決闘は主神の介入によってジークムントの死に終り、一粒種を宿したジークリンデは森へと逃げのびてゆきます。ブリュンヒルデは命令に背いた罰を受けることになりますが、彼女の愛の貴さと、それがヴォータンの本来の意志だったことを懸命に説得します。
罰は神性を剥奪されて、岩山で長い眠りにつき、眠りを覚ました男の妻になるというものでしたが、ブリュンヒルデは臆病者が近づけぬよう岩山を炎で囲むよう懇願し、ヴォータンも愛娘の願いを聞き入れて「娘に求婚するのは、父たる神よりも自由な男(ジークフリート)」と告げて、愛娘に永遠の別れを告げるのです。
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