高校生のためのオペラ鑑賞教室 甘美な愛と哀しい運命と・・・蝶々夫人 Madama Butterfly Giacomo Puccini

ABOUT “Madama Butterfly” 作品解説

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1900年、『トスカ』の英国初演のためにロンドンに招かれたプッチーニは、そこでデーヴィッド・ベラスコの舞台『蝶々夫人』を観劇します。大変感激した彼は、次のオペラ作品の題材に「蝶々夫人」を選びました。彼は当時の在イタリア日本大使夫人から日本のことを詳しく聞き、日本音楽の楽譜や風俗習慣などを調べあげ、ついに作品を完成させます。

しかし、1904年2月17日ミラノでの初演は大失敗に終わります。原因は上演時間が長すぎたことや、日本を題材にしたことにより観客が戸惑ってしまったためなどといわれています。しかし、プッチーニはすぐさま改訂を行い、同年5月28日、イタリアのブレーシアで再演され、今度は大成功を収めました。

1904年の2月10日、まさに『蝶々夫人』初演の1週間前に、日本はロシアに宣戦布告、日露戦争が始まりました。当時、日本は欧米列強に対抗するため、富国強兵に勤めていた時代でした。翌05年、日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を破り(日本海海戦)、アメリカの仲介でロシアとポーツマス条約を結びます。この戦争を期に、日本は列強の一つ数えられ、帝国主義の時代に突入して行きます。
世界に目を向けると、03年にはライト兄弟が人類初の動力飛行に成功。05年にはアインシュタインが「相対性理論」を発表します。20世紀を迎え、世界が変わりつつある時代といえます。

当時、西欧はジャポニズムといわれる“日本ブーム”の真っ只中にありました。しかしプッチーニは単なる“異国趣味”を超えて、東洋と西洋の出会いによる悲劇を描きました。蝶々さんの悲劇は、プッチーニの優れた心理描写や高度に洗練された作曲技法、なにより親しみやすい旋律により、時代を超えて人々を感動させ、21世紀の今日まで上演され続ける、イタリアオペラを代表する演目の一つとなったのです。

ジャコモ・プッチーニ Giacomo Puccini(1858〜1924年)
『蝶々夫人』の作曲家、ジャコモ・プッチーニは1858年にイタリアのルッカに生まれました。代々音楽家の家系であり、プッチーニも14歳にして教会のオルガニストとなりますが、18歳の時にヴェルディ作曲のオペラ『アイーダ』を観て大感激、オペラ作曲家を志します。ミラノ音楽院に進み、1882年、24歳の時にオペラ第一作『妖精ヴィッリ』でオペラコンクールに応募、注目されます。その後、『マノン・レスコー』(1893年)、『ラ・ボエーム』(1896年)、『トスカ』(1900年)と次々に傑作を作曲。1904年には『蝶々夫人』をミラノ・スカラ座で初演、1924年プッチーニは65歳の生涯を閉じました。「トゥーランドット」は彼の未完の遺作であり、弟子のアルファーノによって補筆されました。 プッチーニは19世紀後半から20世紀初頭におけるイタリアオペラ最高の作曲家とされており、その美しく感情表現の豊かな旋律、劇的な音楽は、オペラ初心者からファンまで魅了しています。