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2009年11月11日

オペラトーク「ヴォツェック」の模様を掲載@

新ウィーン楽派の代表アルバン・ベルクの傑作にして、故若杉弘芸術監督が
「7大重要オペラ作品」に挙げた20世紀オペラの金字塔「ヴォツェック」。
11月18日(水)の初日を前にオペラトークが開催されました。
故若杉監督に代わり指揮を担うハルトムート・ヘンヒェン氏、バイエルン州立歌劇場との
共同制作によるこの公演をすでに一足早くミュンヘンで大成功に導いた
演出家のアンドレアス・クリーゲンブルク氏、さらに東京大学教授で音楽評論家の
長木誠司氏を司会に迎えた刺激的なトークとなりました。
加えて、今回の公演のカヴァーとして活躍する豪華日本人歌手陣による名シーンの歌唱が披露されました。

非常に充実した内容のトークの模様を、2回に分けてお送りします。

「ヴォツェック」オペラトーク
11月7日(土)11:30開演 オペラパレス ホワイエ
<出演>
ハルトムート・ヘンヒェン(指揮)、アンドレアス・クリーゲンブルク(演出)
長木誠司(司会、東京大学教授)、蔵原順子(通訳)

左から) A.クリーゲンブルク 蔵原順子 H.ヘンヒェン 長木誠司

萩原潤 並河寿美

 

長木誠司氏(以下、長木):
「ヴォツェック」は新ウィーン楽派を代表する作曲家アルバン・ベルクの作品で、第一次大戦後1925年にベルリンで初演されたものです。破格の練習回数を重ね、エーリヒ・クライバーの指揮で大成功を収めました。音楽的には難しい部分を多く孕んだ作品ですので、まずは「ヴォツェック」の作品紹介として本日の1曲目、1幕3場より、ヴォツェックとマリーのシーンを演奏していただきます。



♪♪演奏:1幕3場より ヴォツェックとマリーのシーン♪♪



長木:
では今回の指揮者ヘンヒェンさんとクリーゲンブルクさんに、今回の上演の演出、音楽面についてお伺いしていきたいと思います。
まずはクリーゲンブルクさん、今お聴きいただいたのはヴォツェックとマリーが初めて一緒に登場するシーンですが、このシーンで注目すべき点はどのような点でしょうか。


アンドレアス・クリーゲンブルク氏(以下、クリーゲンブルク):
私にとってこの最初にヴォツェックとマリーが一緒に登場するシーンというのは、家族がどういう意味を持っているかということを表すシーンです。常に痛めつけられ貧困にあえぎ、そして仕事に追われるつらい立場にいるヴォツェックにとって、家族というのは唯一庇護を与えてくれる最後の逃げ場です。
この最初のシーンは作品全体を通して唯一、ヴォツェックの人物像に多少落ち着いた雰囲気とか、リラックスした表情が見られるシーンです。それは取りも直さず彼が自分の妻と子供に愛情を抱いているということの表れです。


長木:
台本の中で、ヴォツェックは子供の顔を見ないで立ち去ってしまったりもしますが、これはどういうことなのでしょう。


クリーゲンブルク:
私たち演出するものにとって、この作品の子供の存在というのは非常に重要な意味を持っています。子供は最初から最後までずっと、ほとんど常に舞台上に存在しているのですが、そこで表現しなければいけないのは貧困が親から子に受け継がれてしまうということ、そして子供が厳しい世間に放り出されてしまうということ、そういう状況を描くために子供の存在はとても重要です。

ヴォツェックは子供に対して十分なことをしてやれないという罪の意識を常に抱えています。そして子供の方もまた、そういうつらい立場に置かれた父の姿を見ているわけです。そうした複雑な関係の父と子であるがゆえに、罪の意識を持っているヴォツェックはまともに自分の子供の顔を見ることができないのです。それはお金を稼ぐために家族を置いて出かけなければならないヴォツェックの非常につらい心情を表しています。
そしてヴォツェックは、自分の子供に貧困のつらさを味わわせてしまっているということを自覚しています。親にとってそれほどつらいことはないと思います。


長木:
この作品は「椿姫」や「アイーダ」といったそれまでのオペラのような上流の人々を描いた作品ではなく、社会の底辺にいる人たちを描いているわけです。オペラの主題としてこういったことが取り上げられるのは、19世紀後半、イタリアのヴェリズモオペラあたりからですが、その時代から30年ほど経て登場したのがこの作品でした。

では、ヘンヒェンさんに、この「ヴォツェック」はほぼ全体が無調で書かれていますが、今歌っていただいた場面(1幕3場)の最初の方には調性的な子守唄が入っています。こういった調性的な部分は全曲の中でたびたび出てきますが、作品にとってどのような意味を持っているのでしょうか。


ハルトムート・ヘンヒェン氏(以下、ヘンヒェン):
まず、ベルクが当時どのような状況でこの作品に取りかかったかということをお話しておきます。
もともとはこの作品はゲオルグ・ビューヒナーの戯曲「ヴォイツェク」という作品がもとになっています。この戯曲「ヴォイツェク」のウィーンでの上演を当時29歳のベルクが観に行き、そこで大変な衝撃を受けて、その夜、芝居から帰ってすぐに第2幕のスケッチに入ります。シェーンベルクはベルクと非常に親しい間柄にあった作曲家ですが、実はシェーンベルクはこんな作品のオペラ化はやめてもっと妖精とかそういうものが登場するオペラを書きなさいとアドバイスしていたそうです。
ベルクが置かれていた状況は非常に厳しいもので、元々のビューヒナーの戯曲を使うと非常に作曲しづらい、困難であるという難題に直面していました。ですから最終的にはベルクは別の歌詞を使ってこの作品のオペラ化に取りかかりました。また、当時ベルクは兵役についていて、一兵卒の立場というのを自分の肌身で体験していました。ですからこの作品の中に登場する兵士がどのような扱いを受けているか、どのような仕事をしているのかという部分は全て自らが体験したことが表現されているのです。

そしてベルクはなにも全く新しい音楽を書いたわけではありません。そうではなく、ベルク流のやり方で、音楽の伝統に則った作品を書いたのです。とりわけ形式の面に注目すると、バロック時代のパッサカリアやフーガ等の形式がそこかしこに現れますし、さまざまな引用も使っています。ベートーベンの「田園」、シューマンの作品30、マーラーの「高い知性への賛美」、あるいはコントラバスが奏でるメロディーには「サロメ」からの引用も見られます。このようにベルクは自分が生きていた時代に使うことができた様々な要素を、自分流のやり方で、作品の中に取り込んでいるのです。

非常にエキサイティングな瞬間として、先ほどの場面(1幕3場)の中にハ長調の和音が登場する箇所があります。それがまさにヴォツェックがマリーのところに戻ってきて、お金を持ってきたと伝える箇所です。その瞬間だけ「これで世の中がうまくいくんだ」という思いを抱かせるようなシーンです。ヴォツェックにとって唯一大切なことは、なんとか家族を養いたいということだけです。先ほどクリーゲンブルクさんがおっしゃったように、常にそれがうまくいかないからヴォツェックは良心の呵責を感じている。自分はいい夫ではない、子供にとっても良い父親ではない、そういう罪の意識に苛まれている。でも彼が求めているのは自分の小さな家族のなかでの、本当にささやかな幸せです。それが、彼がお金を持って帰ってきたときに一瞬だけうまくいっているように見えるのです。ただこのハ長調の和音というのも、周りにあまりにも色々な音が入っているのでハ長調とはほとんど気づきません。

ベルクはもちろんシェーンベルクの十二音技法を学んでいました。ただ、ベルクの十二音技法は、徹底して一人の人物にあてはめるというやり方でこの作品の中で用いられています。その人物とは医者です。
この医者は純粋に学術、科学にしか興味がないという人物で、その人物にあてはめて十二音技法を使っています。和声に根差さない、垂直的な音楽要素としての使用方法です。この医者は人をものとしてしか見ていません。この医者にとってヴォツェックは実験材料にしか過ぎないのです。
そして他の部分でも十二音技法は登場するのですが、そこでは垂直的な形も水平的な形もどちらも用いられています。モチーフとして水平的な形で十二音技法を和音にして使っている部分もあります。非常に興味深いのは、十二音技法が一度に複数の層が重なるような形で突然響きとして現れる、これはシェーンベルクの十二音技法とは非常にかけ離れたものです。
ベルクにとって音楽的な技法というのはそれ自体が目的になってはいけないものでした。つまり技法それ自体のために十二音技法を使うのではなく、あくまでも何かを表現するためにその技法を使うというのがベルクの考えでした。

このオペラのもう一つの特徴は、歌手に対して4つの表現方法を要求しているということです。まずは「語り」、歌うのではなく普通に喋るということです、その中でも2種類に分かれていて、「リズムがあらかじめ決まっている語り」と、「決まっていない語り」があります。その他に「半分だけ歌うところ」と「完全に歌うところ」、この4種類の表現方法が要求されるため、歌手にとって非常に要求度の高いオペラになっているのです。通常オペラ歌手は「歌う」ということを学んでいます、場合によってはセリフのしゃべり方も学んでいますが、その間にあるたくさんの形は普通学んでいません。だからこそ歌手にとっては要求度が高く非常にやりがいのある作品です。
この「語り」の手法が出てくる場面としては、3幕のマリーが聖書を読むシーンなどがあります。この「語り」の用いられ方の特徴として、すべて社会の最下層にいる人々、ヴォツェックやマリーにしか用いられないとうことがあります。一方、大尉や医者など社会の上層にいる人物には「語り」のシーンが出てきません。社会的な身分の違いをベルクは音楽を使って表現しているのです。

長木:
ではここで、1幕5場より、マリーと鼓手長のシーンを演奏していただきます。


♪♪演奏:1幕5場より マリーと鼓手長のシーン♪♪

成田勝美 並河寿美

 

長木:
今歌っていただいた1幕5場では、マリーとヴォツェックの間に第3者として鼓手長が登場し、マリーと不倫の関係を持ちます。この人物は物語の中でどのような役割を担っているのでしょう。


クリーゲンブルク:
マリーは家の前を楽隊が通る時に初めて鼓手長に出会うのですが、マリーは今の生活に疲れ、縛られている状況です。マリーはヴォツェックとは正式に結婚していませんので、二人の子供は私生児です。そのためいろいろな非難も受けています。彼女の人生はこのように非常に厳しい状況にあるので、彼女は常にいろんな憧れや夢をたくさん抱いているのです。彼女は真実の人生から一人だけ隔離されてしまったような状況にあります。働いているわけでもないし、夫と子供の世話をしないといけないので自分の家庭の中に閉じこもっています。だから憧れだけがどんどん強くなっていっているのです。

鼓手長は楽隊の中で先頭を切って歩くので見かけは華やかな存在です、でも軍のヒエラルキーの中では実はそんなに上位の人間ではありません。けれども、見た目はとても華やか。マリーはそういったものに憧れていて、何とか今の人生から解放されたいと思っているので鼓手長に心を惹かれてしまうのです。


長木:
ベルクはこの作品の中でワーグナーのようにたくさんのライトモチーフも使っていますが、ドラマの展開に大きな要素を担うこの点についてどのようにお考えでしょうか。


ヘンヒェン:
先ほどベルクがいろんな曲から引用をしたりモチーフを使っているという話をしましたが、あえてワーグナーの名前を出さなかったのは、「ヴォツェック」においてライトモチーフが使われていることが非常に重要な意味を持ち、かつよく知られたことだからです。ただ、ベルクのライトモチーフの使い方はやはりベルク独自のものです。
2つ例を挙げますと、まずマリーとヴォツェック、それぞれのモチーフは非常に親密な、似かよった関係にあります。どちらも五度を使っています。
もう一つの例は医者です。この医者は、学術、科学の面で成果を上げ賞賛を得るという一点にしか興味がありません。ですから他人に対する関心のない人物なのです。そこでとても面白いのが、この医者が、ヴォツェックの名前を呼ぶとき一度も正しい発音で呼ばないのです。それぐらいこの医者にとってヴォツェックがどうでもいい存在だからです。これはベルクが意図的に最初から最後まで医者に言わせていることです。そういうところに人物を描くベルクの音楽的技法が用いられているのです。


オペラトーク「ヴォツェック」の模様を掲載Aへつづく