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2007年4月5日

オペラ「西部の娘」オペラトークの模様を掲載

4月15日(日)に初日を迎えるオペラ公演「西部の娘」オペラトークが、3月31日(土)に開催されました。指揮のウルフ・シルマー、演出のアンドレアス・ホモキをゲストに迎え、オペラ「西部の娘」の魅力、テーマについてピアノ実演を交えながら語っていただきました。トークの模様の一部をお届けいたします。

2007年3月31日(土) 11:00-12:00 新国立劇場中劇場ホワイエ
出演:ウルフ・シルマー(指揮)、アンドレアス・ホモキ(演出)
司会進行:トーマス・ノヴォラツスキー(オペラ芸術監督)
通訳:角田美知代

「西部の娘」公演情報はこちら

【移住、孤独感、そして共同体へ】
トーマス・ノヴォラツスキー オペラ芸術監督(以下、ノヴォラツスキー):4年前、私の新国立劇場での最初のシーズンはシルマー指揮、ホモキ演出の「フィガロの結婚」で幕を開けました。お二人は深い人間考察が巧みであり、ストーリーを語る上でお二人をおいて他にはいないと思い、「西部の娘」もお願いすることにいたしました。このオペラのさまざまな魅力を伝えて下さることと期待しています。ホモキ氏へ質問です。このオペラは「カウボーイ・オペラ」でしょうか?

アンドレアス・ホモキ氏(以下、ホモキ):「西部の娘」は「カウボーイ・オペラ」ではありません。実は私はこの「西部の娘」を舞台で観たことはありません。ピストルを持ったカウボーイが酒場を舞台にイタリア語のオペラを歌うというイメージに興味が持てなかったのです。ところが、ノヴォラツスキー芸術監督に「西部の娘」の演出を依頼され、作品を見直してみたところ、全く違うイメージが浮かんできました。最初に持った印象は、登場人物のほとんどが男性で、女性は一人だけ、登場人物すべてに共通するのが、その土地の人ではなく他の場所からやってきているという点です。プッチーニはアメリカでのオペラ上演のために相応しいテーマを探しており、そこで浮かび上がってきたのが、ヨーロッパからアメリカへの移民というテーマでした。この作品が作曲された1910年当時は映画、ハリウッド映画は存在していませんでした。現代の我々は映画により西部劇のイメージを持っていますが、このイメージで「西部の娘」を捉えるのは間違っています。100年前のヨーロッパでの大きなテーマは、「移住」、「孤独感」、「故郷からの離別」ということであり、それを私は取り上げようと思いました。このテーマは、現代では世界中に共通する問題であり、貧しい国から何百万、何千万人もの人々が、富を求めて故郷を離れ豊かな国へと移住しています。そこで、西部劇というイメージは一切使わないことにし、初演時から現代に通じるテーマに焦点を当てることにしました。

<左からノヴォラツスキー、通訳、ホモキ>

 

ノヴォラツスキー:リハーサルを見て強く感じたことは、他の国に移住するということは、その新しい国に属するのではなく、新たな社会、共同体を築き上げるということです。この共同体とはどのようなものでしょうか?

ホモキ:問題はこの共同体は何処へも行きつかないということです。彼らは否応なしにそこで一緒に生活せざるを得ず、どこへ逃げることもできないのです。そこから去る手段は、ある意味宗教的ですらあるのですが、愛する人を見つけるということです。このオペラでは最後にミニーとジョンソンが結ばれますが、これは決してハッピーエンドではなく、我々の焦点はむしろ残された人々に注がれます。ユートピアという概念は私たちの日々の生活の中にこそあるもので、我々すべての生活のメタファーなのです。

【プッチーニの20世紀音楽】
ノヴォラツスキー:シルマー氏に音楽について語っていただきます。どのような発見がありましたか? どのようにこの音楽を聴くべきでしょうか?

ウルフ・シルマー氏(以下、シルマー):「西部の娘」の音楽はプッチーニのそれまでの作品とは異なっています。プッチーニは当時、作曲のスタイルを変えなければならないと感じており、R・シュトラウスの「サロメ」やドビュッシー、シェーンベルクらの作品を研究していました。「西部の娘」のスコアには、2幕終わりのハイCで終わる滑らかなイタリア的メロディーもあれば、ラブストーリーを表現する音楽には典型的なフランス的音楽である「ペレアスとメリザンド」の影響を見ることができます。一方で、鉱夫たちの生き様、攻撃的な様子や感情の昂りを描く音楽は、非常に乱暴で「春の祭典」に似ているかと思います。この作品にはボードビル的要素もあるのではないかとよく議論されるのですが、当時のアメリカのポップソングも取り込まれています。また、この作品では斬新な奏法が求められているのも20世紀的で非常に興味深いです。例えば、1幕冒頭のハープは紙をそれぞれの弦に巻き付け演奏し、特殊な音を出す効果を持ちます。これは1909年にシェーンベルクが「期待」という作品で初めて用いた奏法で、プッチーニはそのアイデアを取り入れたのかもしれません。また、プッチーニはこの作品のために「フォニカ」という新しい楽器を考案しました。もちろん、この楽器は現存しないため、私はバンジョーの音を電子的に加工することでこの音を再現することにしました。

<左からシルマー、ノヴォラツスキー>

 

【お客様からの質問】
質問1:はじめてこのオペラを観ますが、音楽的な聴きどころは?

シルマー:郷愁の念を表すメロディーは非常に感動的で、このオペラのメインテーマでもあります。また、2幕の二重唱は非常に長く、通常のオペラの二重唱とは全く異なり、これだけ独立しても音楽のドラマとして聴きごたえがあります。

質問2:日本は島国で移民はこの50年間で増えてきたと思いますが、2007年に東京でこのオペラを上演するにあたり、特に意識していることはありますか?

ホモキ:日本の状況については意見を述べることはできませんが、日本とアジアの国々との関係は、ヨーロッパとアフリカ、北米と南米の関係に似ているのではないかと思います。日本は発展した豊かな国であり、アジアの中には多くの貧しい国々があります。豊かさを求め、故郷を離れて豊かな国へと移住する人がいるわけですが、そのためには故郷を、そしてルーツや文化まで犠牲にするという悲しい一面もあります。これは人類が始まって以来続いている現象です。私自身はヨーロッパの演出家であり、カウボーイをテーマにしたイタリア語のオペラをどのように日本で上演するか、それが私の最初の課題でしたが、答えは非常にシンプルで、移住、移民という問題はグローバルな問題であるということです。移住問題は今後100年は続くと思いますが、地球の資源を公平に分配し、移住しなくてもよい社会を作る、そのことを人間として考えなくてはならないと思います。さもなければ世界は爆発、崩壊してしまうでしょう。

質問3:「蝶々夫人」は日本を舞台にしていることもあり日本人に人気がありますが、「西部の娘」は今のアメリカ人にはどのように聴かれているのでしょうか? どのくらい人気があるのでしょうか?

シルマー:「トスカ」「ラ・ボエーム」「蝶々夫人」のような位置づけではありません。アメリカでは非常に保守的な捉え方をされています。

ノヴォラツスキー:「カウボーイ・オペラ」という強いイメージがひとつの問題です。実はもっと深い作品だということが、今日のお話でもお分かりいただけたと思います。非常にドラマチックで、感情の昂り、孤独感、絶望感やロマンチックな情景が描かれています。ジョン・ウェイン的なイメージは払拭しなければなりません。お客様の中にも外国でお仕事をされた方がいらっしゃるかと思います。異邦人としての孤独感、社会に入り込めず、言葉も分からない、といった経験を思い出しながら観ていただければ、より共感していただけると思います。

質問4:台本のト書きを無視した演出について、ホモキ氏はどう思われますか?

ホモキ:ある演出が作品のひとつの解釈なのか、それとも作品自体を変えているのか、というのは非常に主観的な問題です。演出家だけでなく、芸術家に共通するテーマだと思いますが、私の問いかけは作品を変えることによってどのような利点があるのか、ということです。100年、200年前の作品はどのように演出しようと間違っているわけです。なぜなら、作品は当時の時代背景で上演されるよう書かれており、例えば「フィガロの結婚」はフランス革命の直前が舞台になっていますが、今、現代において当時上演されたやり方を再現して上演するのは馬鹿げており、違和感を感じてしまうと思います。現代版に置き換えたらどうなるかというと、ある程度ディテールは失われてしまうかもしれませんが、作品が当時持っていた意味を現代に伝えられると思うのです。作品のストーリーと現代社会の問題をいかに近づけるかが、ひとつの手がかりとなります。素敵なオペラ、綺麗なアリアという距離感のあるものではなく、いかに作品を身近なものにするかということを私は意識しています。そうすることによって、感動が生まれるのだと思います。