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2007年3月1日

『さまよえるオランダ人』オペラトークの模様を掲載

オペラ『さまよえるオランダ人』オペラトークが、日本ワーグナー協会のご協力を得て、2月12日に開催されました。「『さまよえるオランダ人』はとても人間的な作品。物語性が明確に出ているのが特徴ですから、それを舞台で効果的に表現したい」(マティアス・フォン・シュテークマン氏)、「メロディ、伴奏の区別なく、歌手もオーケストラの各楽器も一様な重要性を持って演奏し、大きな効果で聴衆に迫ってきます。当時このような手法を考えたワーグナーは革命的であったと思います」(ミヒャエル・ボーダー氏)、「作品の経緯、由来を頭に入れてから劇場に来ることを聴衆に課した初めての作曲家がワーグナー」(ノヴォラツスキー オペラ芸術監督)など、作品の特徴や、ワーグナーについて、充実したトークが繰り広げられました。当日おいでになれなかった方、これからご観劇になる方、ぜひご覧ください。

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2007年2月12日(月・休) 12:00〜14:00 新国立劇場中劇場
出演:ミヒャエル・ボーダー(指揮)、マティアス・フォン・シュテークマン(演出)
トーマス・ノヴォラツスキー(芸術監督)
司会進行・通訳:久保敦彦(日本ワーグナー協会理事、神奈川大学教授)




久保敦彦氏(以下、久保):まずはノヴォラツスキー監督にこの作品を選んだ理由、そしてボーダー氏、フォン・シュテークマン氏に基本的にどういう観点から音楽作り、舞台作りをなさっているかをお伺いします。

ノヴォラツスキー オペラ芸術監督(以下、ノヴォラツスキー):今回「さまよえるオランダ人」をラインアップしたのは、ここへきて新国立劇場も世界のベスト12に数えられるようになり、ワーグナーの重要な作品を順にご紹介する必要を感じたこと、また、この「オランダ人」の内容が今シーズンのテーマ『運命、希望ある別れ』にふさわしいこと、それが選択の動機になりました。タイトルロール(オランダ人)、ゼンタ、ダーラント、エーリックという難役に、すばらしい歌手陣を揃えることができたことは、非常に幸運なことでした。

ミヒャエル・ボーダー氏(以下、ボーダー):音楽面において、ワーグナーがひとつの転換点を記した作品だと思います。ワーグナーより前のオペラ史には、モーツァルトの作品群、ウェーバーの『オリアンテ』『魔弾の射手』などがすでに存在していました。そういう時代、ワーグナーは新しい音楽を創造しようという意欲を持ち、音楽に新しい形式を与えました。当時、『イドメネオ』『魔弾の射手』などの中に嵐やその他の自然現象を音楽で表現した例はわずかにありましたが、まだ一般的な方法ではなく、それをワーグナーが確立していきました。さらに、古典主義的な法則にとらわれずに音楽に形式を加え、その中に、自分の感性、発想を自由に展開しながら表現することを追及しました。ただし、古典主義的なものを否定し、離れていくということではなく、ダーラントの音楽などに表われるような古典的な手法も残しています。ワーグナーは、特定の状況、人物の行動様式に合わせて色々な音楽の要素を当てはめ、それを整理して、意識的に新しい道を模索しました。ワーグナー作品は今でこそ総合芸術という言葉で語られますが、『オランダ人』の時点では、本人はまだその概念は意識していなかったと思います。途切れがなくどこで拍手していいかわからないというような彼の後期の作品を予感させる部分もありますが、『オランダ人』の楽譜上には、流れを区切るようにアリア、デュエットなどのナンバーを指定があり、まだ途切れのない形式で書かれたわけではないのです。

マティアス・フォン・シュテークマン氏(以下、シュテークマン):この作品のどこに魅力を感じたか、具体的にどのような演出をしようとしているかの基本は、とても人間的な作品であるということです。オランダ人は怪物的、ゼンタは正気を失った娘、ダーラントはキャピタリストで自分の娘を高く売りつけようとしているというイメージを往々にして持たれがちですが、実はそうではなく、それぞれが人間的で、物語の進行の中で変化していく様も興味を誘います。ボーダー氏が指摘した総合芸術という観点は大事なポイントで、『さまよえるオランダ人』は物語性が明確に出ているのが特徴ですから、それを効果的に生かして舞台で表現しようと思います。そして物語の中心にあるべき人間そのものが蔭となってしまわないように、舞台装置や装飾もある程度様式化したいと思っています。とはいえ、船はどうするのかと聞かれれば船は出しますし、あくまでも人物とそれに基づいて展開される物語を助ける位置づけで考えています。『オランダ人』はワーグナーの若い時の作品です。後期の『指環』などに代表される作品はライトモチーフ(示導動機)によってストーリーが展開しますが、初期の『オランダ人』にもその要素がところどころに顔を出しています。U幕のダーラントの登場場面、音楽は明るく軽快な雰囲気ですが、その裏にオランダ人のモチーフが流れます。“ゼンタが自分の天使になるかもしれない”というオランダ人の期待が、そのモチーフで表現されているんですね。

久保:『オランダ人』は、そもそも全3幕という風に書かれているオペラですが、近年では全幕通し上演というスタイルも増えています。今回はどのような上演になるのでしょう。

ノヴォラツスキー:通し上演については、理論を重ねれば、とてもインテリ的だという結論になるかもしれませんが、一方で、劇場には守るべき一定のルールがあります。劇場においでになるお客様にとって何が大事か、ということを考えると、長い時間通しての上演で、“ゆとり”を奪ってしまいたくないのです。劇場における“ゆとり”とは、それまでの出来事を消化する時間を指すと思います。人と人との交流の場として、お互いの感想や意見を交換し、次なる展開を期待し想像しあうのも劇場空間ならではの楽しみです。さらに、交流とは、お客様同士だけのものではなく、客席からのパワーが、上演する側にとっても大きな励みになります。劇場が生み出す相互交流の効果を十分に発揮するためにも、休憩を挟む上演にすることにしました。休憩はT幕の後に1回だけ入ります。U幕のゼンタの登場を、休憩中に心待ちにしていただきたいですね。

<左より>久保敦彦、マティアス・フォン・シュテークマン(演出)、
ミヒャエル・ボーダー(指揮)、トーマス・ノヴォラツスキー(オペラ芸術監督)

 

久保:さて、これからは、音楽の特徴についていくつかの部分をピックアップしてお伺いしましょう。まずは、「オランダ人のモノローグ」についてです。これは、タイトルは「モノローグ」として有名ですが、楽譜上では「アリア」と記されています。さて、どこに注意を払って聴いたらよろしいでしょうか。

ボーダー:このモノローグは、オランダ人登場の場面です。当時の聴衆からすれば、主役の登場の音楽なのに、初めてメロディがないアリアを聴かされた、と感じたに違いありません。嵐や大海原を連想させる音で状況を説明する音楽やオランダ人を示す序曲冒頭のテーマの部分で構成されており、全体的にはわかりやすいメロディは影を潜め、当時としてはかなり斬新なものであったと思います。メロディがない、ということは、メロディに対する伴奏という区分けもない、ということになります。歌手もオーケストラのそれぞれの楽器も、一様な重要性で演奏し、大きな効果で聴衆に迫ってきます。当時、このようなことを考えるというのは革命的であったと思います。

シュテークマン:このモノローグの音楽の中に、絶望や呪いに対する怒り、自らの苦しみを語るオランダ人の内面全てが込められており、その中にもオランダ人が非常に強い性格の持ち主であることが表わされていて、ゼンタがなぜオランダ人にそれほどまでに惹かれるのかという伏線を見てとることができます。

ノヴォラツスキー:一般的には、舞台に登場人物が出てくる時に、この人物はどんな人でどのような状況に置かれているのだろうと知ることになるのですが、オランダ人の登場の音楽の中に、ワーグナーがあまりに多くのことを語りこんでいるため、それ以前の物語を知らないと、なぜこのような語りが出てくるのかをフォローできません。聴く前にそれまでの経緯、由来を頭に入れて劇場に来ることを聴衆に課した初めての作曲家がワーグナーだったのです。

久保:さて、その「オランダ人のモノローグ」と対照的な例としては、ダーラントがゼンタに呼びかけるシーンのアリアですね。ここは、調性もはっきりしていてきれいなメロディですね。

ボーダー:わかりやすく観客をほっとさせるようなメロディですね。意図してこの場面にこの音楽を与えたのですから、ワーグナーにとってそれが必然だったのでしょう。

シュテークマン:この音楽が示すことは、ここでのダーラントが自分の土台を確認し、その上に立っていることで安心感を覚えるような保守的な人物だということです。一方、その娘のゼンタは、新しいビジョンを持って突き進むタイプであることが表われているので、当然親子の間でも温度差があります。そういう意図を持った音楽作りになっているので、ドラマを語る立場の私にとっては、その辺りが非常に面白いと思います。

久保:では、このあたりでゼンタについてもお話を聞いてみましょう。オランダ人とゼンタのデュエットがありますが、これは純粋にデュエットと言ってよいのでしょうか。

シュテークマン:一般的なデュエットの定義が二人同じ気持ちで歌っていることであれば、デュエットという表現が適切であるかどうかは別の議論になると思います。ここでは、二人が一緒に歌っていることは事実ながら、心に思っていることは別々なのです。これは最初の「オランダ人のモノローグ」にも関係してきますが、オランダ人は自分の過酷な運命を意識しており、その運命を共にする、とゼンタが言ってくれていることについて、それでよいのだろうかと彼女に対する心配の念も表わしています。オランダ人は、ゼンタを自分の救いのための手段、と割り切っているのではなく、彼女に真摯な気持ちで愛を抱いているのがわかります。

久保:ゼンタの歌詞に「強い魔力に打ち負かされて」という部分がありますが、本心でオランダ人の救いを考えているのか、あるいは、その魔力のためにそのようなことを言っているのかどちらなのでしょう。

シュテークマン:「魔力に負けて」というよりは、巻き込まれて、というようなニュアンスではないかと思います。この二人のセリフに関しては、オランダ人は「自分は救いを見出した」ということを言っており、ゼンタは一体何が幸せかというと、ずっと前から感じていた自分の使命にめぐり合い、その役目を果たせることへの喜びと興奮を語っています。多くは、オランダ人が自分の救いのためにゼンタを使った、という見方をされますが、むしろゼンタのほうが、長いこと抱いていた自分のビジョンを実現するためにオランダ人を必要としたという側面があるのではないかとも思えるのです。

久保:この作品のオーケストラの部分の特徴はどのようなものがあるでしょうか。例えば第V幕の“水夫の合唱”の中では、幽霊船に呼びかけるところで、楽譜上にドイツ語で“グローセ・シュティレGrosse Stille”(静寂、応答なし)という指示があります。ここでは、まったく音楽が空白になるのではなく、しばらくしてホルン、ファゴットが弱音で鳴らし、一層その静寂を引き立てるように書かれています。他の箇所にも、静寂が使われている部分があり、作品のなかで静寂が大きな意味を持っているのではないかと思いますが、いかがでしょう。

ボーダー:そもそもワーグナーは聴衆からメロディそのものを楽しむこと、そして、リズムによる楽しみも取り上げてしました。その代わり、ところどころで低音のトレモロを用いて不安な雰囲気を醸し出すことや、和音においてもそのような効果を前提に作曲する技法を持ち込みました。つまり、出来上がったメロディを与えて、直接的に聴衆の感情に訴えて誰にも一定のものを想起させようとするのではなく、聴衆ひとりひとりにその音楽から先の展開への予感を抱かせ、各々が自らの感覚を介して作品を鑑賞するという効果を狙った、そのための静寂と考えられると思います。

久保:V幕では、合唱が大きな役割を果たします。V幕1場の後半では、水夫の合唱〜幽霊船まで大スペクタクルです。

ボーダー:ワーグナー作品における合唱の役割は際立っており、その他大勢の民衆という扱いではなく、独立した重要な要素となっています。とくに、この作品のV幕では、ノルウェー船の水夫、幽霊船の乗組員と2つの異質な合唱を重ね合わせ、劇的な効果を生んでいる点が注目されます。ここでは、メインの合唱(ノルウェー船)は秩序、安定を持って歌い続けようとします。調性もハ長調で、耳に心地の良い響きです。それに対して、四方八方からオランダ人の乗組員の声が上がってきて、だんだんと強さを増していき、複雑で激しいやり取りとなっていくのです。

シュテークマン:ワーグナーは後の作品でも合唱を使っています。ただ、「ローエングリン」の合唱は人数も多く長時間舞台上にいながら、役割からいうと、ギリシャ悲劇のコロスのように作品のメインという位置づけにはなっていません。それに対して、この「オランダ人」では、合唱自身が重要な性格づけをされて登場します。この作品で合唱に求められるのは、上手に歌うことだけでなく、優れた演技力でもあるのです。

久保:「オランダ人」の上演の際には、最後に救済はあるのか、ないのか、少なくとも音楽上、救済のモチーフのある版かそうでないかがとても気になるところです。救済のモチーフなしのバージョンでは、オーケストラが連続した短い和音を一斉に弾いて終わります。一方、救済ありのバージョンは、穏やかなハープの上昇音とヴァイオリンが長く弧を描き、救済のイメージがはっきりとしています。今回、どちらを採用するかということは、実はもう秘密ではなく、シュテークマンさんご自身が新国立劇場情報誌ジ・アトレ10月号のインタビューの中で、救済のメロディを使うということをおっしゃっています。さて、どういう観点から、こちらのバージョンを選択なさったかをお話しいただけますか?これは、ノヴォラツスキー監督、ボーダー氏、シュテークマン氏と、共通の判断だったのですね?

ボーダー:もちろん、二つの可能性があることなので、それなりの理由があるのではないかとお聞きになるのももっともだと思いますが、今回の決断に関しては非常にシンプルな理由で、そのほうが正しく、そして美しいということで3人が一致しました。ここにドラマトゥルギーを持ち込んで検証すれば、逆の結論が出るということもありうるのかもしれませんが・・・。

シュテークマン:確かに、そのほうが美しい、というのが決定的な理由でした。さらに、ワーグナー作品の中で、最後に全く救いも望みもなく終わるのは『ローエングリン』だけです。その他の作品では何らかの形で、救済、救いというものがあるか、または暗示されています。ワーグナー自身どちらをより好んでいたのかということについては、音楽学者の中にも色々な議論があると思いますが、やはりワーグナー自身は救済の意識を強く持っていたと思われますので、それも今回の決定をした理由のひとつとして加えることができるでしょう。私自身は、ほとんど本能的ともいうべき感覚で、救済のメロディ付きのほうが正しいと思います。蛇足ながら、この救済のメロディでは、最後にハープが20秒ほど演奏されますが、ハープ奏者はこのためだけに劇場にやってくるんですよ(笑)。

ノヴォラツスキー:どのような別れ、終幕にも救いがあると言われますので、哲学的な観点を取り入れても、この選択で正しいのではないかと思います。

ミヒャエル・ボーダー(指揮)、トーマス・ノボラツスキー(オペラ芸術監督)

 

久保:客席のお客様からのご質問にもお答えいただきましょう。

質問1:最近は、特にヨーロッパでは救済なしの演出が増えていますが、なぜそのような傾向なのでしょうか。

シュテークマン:これというはっきりとした答えはわかりませんが、今のヨーロッパ、特にドイツにおいては悲観主義が流行している印象があります。私自身は楽観的な立場を好みますが、あえて楽観的な部分を否定するという社会的な風潮から芸術の分野も影響を受けているのかもしれません。今から20年先のことは予測できませんが、自分が演出を続けているとして、もう一度『オランダ人』の演出をする機会を得たとしたら、その時の状況によっては救済なしのバージョンを選択する可能性も否定できませんね。

質問2:ひびのこづえさんを衣裳デザイナーに選ばれたわけは?またその印象は?

シュテークマン:ひびのさんとは3年前に新国立劇場のこどものためのオペラ劇場『ジークフリートの冒険』でご一緒しました。作品に対する考えやどういう衣裳の方向性にしたいかを話すと、自分のイメージにぴったりなアイデアを持ち込んでくださり、いつも驚かされます。彼女の才能に感謝し、高く評価していましたので、今回もお願いしました。

質問3:この作品のオーケストラは、場面に沿ってとても緻密に書かれていると思います。もし、その中に、なぜワーグナーはこのように書いたのだろう、と疑問に思われるところがありましたら、教えてください。

ボーダー:オーケストレーションの面で、特に楽器の使い方については、新しい編成を随所に用いているのは確かだと思います。金管楽器の使い方については、あまり強調すると、バイロイト祝祭歌劇場以外では、歌手の声がかき消されてしまうという危険もあると思います。またウェーバーからワーグナーという移り変わりを見ても、ワーグナーが新しい楽器の使い方を導入した部分は見出せると思います。ただ、ご質問のように疑問を感じるというまでの感覚はありません。

久保:今日はありがとうございました。納得のいく稽古を重ねられ、すばらしいプロダクションとなることをお祈りし、公演を楽しみにしております。

マティアス・フォン・シュテークマン(演出)