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2006年3月13日

「運命の力」オペラトークが行われました

 2月25日(土)、オペラ劇場ホワイエにおいて、指揮の井上道義氏、演出のエミリオ・サージ氏を迎え、ノヴォラツスキー芸術監督の司会進行により、オペラ「運命の力」に関するオペラトークが開催されました。
 「この作品の指揮をするのは18年ぶり。是非ともまたやりたかった作品」と抱負を語る井上氏は、サージ氏の演出について、「とにかく早い。嫉妬に狂いそうなほどすべてが頭に入っている。いいプロダクションが期待できるので、皆さん楽しみにしていてください。」と紹介されました。
 スペイン・マドリードのレアル歌劇場の芸術監督を2005年夏まで務めた演出のサージ氏は、「今回は3度目の来日だが、日本で一から作品を作るのは初めて。すばらしい歌手、指揮者、スタッフに恵まれ、うれしく思っています。」と、充実したキャスト、スタッフとの共同作業への期待感を披露されました。

セットモデル

 


  
[作品の時代設定について]
エミリオ・サージ(以下サージ):
 作品の舞台は、スペインがオーストリアやフランスと戦争をしていた18世紀のはじめ頃。ヴェルディは政治的な感覚を持っていて、イタリア建国への強い希望を持っていました。イタリア統合という政治的なメッセージが、この作品には込められ歌われているのです。
 作品の持つメッセージを現代の私たちにも伝わるようにするために、時代設定を原作より現代に近い、20世紀スペイン市民戦争の頃にしました。1936年から39年頃です。主人公のドン・アルヴァーロはメスティーソ―――中南米のインディオと白人との混血で、スペインの古い伝統・価値観の中では受け入れられず、格式高い女性であるレオノーラと結婚するのは非常に困難である、という状況ですが、こうしたことは1940年ごろまでは続いていたのです。

井上道義(以下井上):
 演出家による時代設定の変更などの「読み替え」が今さかんに行われていますが、なかなか成功した舞台に出会わない、と僕は思います。素直に音楽中心にやろうよ、という気持ちは、僕だけでなく音楽家には強くある。かといって、やはり日本人の体格でそのまま「運命の力」をやると違和感があるわけです。タイツで丸いズボンをはいたりすると、どうしても違和感がある。それが1930年代にすることでかなり緩和されるのです。衣裳も、戦前の銀座を歩いていた人みたいで違和感が全然ない。だから、今回の「読み替え」はよい成功例だと思っています。

[名誉について]
サージ:  
 今回設定した時代には、名誉が非常に重んじられていました。だから、格式ある家柄であるレオノーラが、メスティーソであるドン・アルヴァーロと結婚するということは「恥」とされ、言語道断だった。
 法律に支配されている社会では、名誉が傷つけられれば法に訴えればよいわけですが、法律が及ばない場合、名誉のために自ら戦わなくてはならないのです。マフィアの世界では、ギャングが別のギャングにお金を盗まれても警察に訴えるわけにいかず、自ら戦うのと同じです。それが、この作品の世界です。

井上:  
 今回の時代設定である1930年代であれば、当時のスペインと同じように、日本でも「家」というものに対する感覚は同じものがあったと思います。日本の戦前――小津安二郎が描いた時代とサージさんが描こうとしている時代は似ているように感じます。

[スペインにおけるカトリックについて]
サージ:  
 この作品ではカトリック教会というものが大きく取り上げられています。カトリックは人々を慰め、人々を理解するものとされていますが、この作品では、ふたりの主人公がカトリックによって慰められることは決してありません。
 レオノーラが打ちひしがれた気持ちを落ち着かせようと修道院に行く場面がありますが、ここで教会は箱のように描かれています。これは当時スペインのバロック絵画で用いられた方法で、教会が大きな力をもった存在だということを表現しています。そして神父は光のような存在。その中で、レオノーラは救われるかと思いきや、そうではない。二つ目の教会のシーンでは、照明は暗く、ほとんど見えないようなセットです。三つ目の洞窟のシーンでは、さらに小さい。これは教会の重要性が次第に減り、主人公二人が世界から切り離されていくことを強調しているのです。教会は苦しむ二人を哀れむのではなく、罰する。本当の人間の愛というものが教会の思想とは相反するものだということに触れています。
 この作品においては最後、運命の矛盾点を描いている。神は良い存在と思われているにも関わらず、人間はこの主人公のように永遠に苦しむ、という矛盾点です。

井上:
スペインは、ペルーでの殺戮の歴史がある。黄金を全部盗ってきた。ドン・アルヴァーロはインカの王族の後続だから、スペインに対する怨恨がある。逆に言えば、スペインは宗教の名において殺戮をした。だからレオノーラは、ドン・アルヴァーロのためとはいえ、宗教に本当にすがりつくことができないのです。神にはすがりつきたいんだけど、カトリックというものにはすがりつけない。だから修道院ではなく「穴」に入るのです。つまり、スペイン人にとって、カトリックは宗教なんだけれども罪の感覚というのもある。だけどそれは体面の部分で認めたくない。それは今でも起こりえる話だと思います。

(左より)井上道義(指揮)、トーマス・ノヴォラツスキー(オペラ芸術監督)、エミリオ・サージ(演出)

 

[見どころについて―――体面第一の人生とは対照的に、生き生きとした人生を謳歌する人間たち]
井上:  
 この作品には、レオノーラやドン・アルヴァーロの悲劇、復讐、愛、死というセリア的な部分とは逆に、プレツィオジッラやメリトーネのブッファの部分がすごく面白く入っている。
 プレツィオジッラとメリトーネは、体面を第一にしている人たちに対して、「お前の真実は何だ」と突き付ける人々です。プレツィオジッラは手相を見る人で、たとえば「ノヴォラツスキーさん、あなたは今背広着てこんなことやってますけど、ほんとはあなたこういう人なのね」というようなことをするわけです。メリトーネは、低音のバスでどしっと歌う神父にこう言う。「あなた、宗教のこと話してますけど、現実はそんなものじゃないでしょ。貧乏人もたくさんいて、宗教なんてどうでもいい人だってたくさんいますよ。」というようなことをやるわけです。非常に真実。現実の、その場での人間関係を大切にしようという新しい人たちと、体面を重んじる古い人たちがいる。サージさんはそのあたりを演出しようとしている、と思う。

サージ:
 まさしく井上さんが仰るとおりです。理解し合えていることをありがたく思います。ヴェルディは、教会や政治といったより大きな価値観というものを信じておらず、それよりも生身の人間の方に興味を持っていたようです。特に2幕、4幕の兵士が登場する二つのシーンについては、生身の人々を描いて欲しいというメッセージがヴェルディの書簡に残されています。このシーンでは、登場人物は皆、実に生き生きとし、人生を謳歌し、運命の苦痛や人生の問題を乗り越えようとしています。私はそこを強く意識して演出しています。ただ、この作品ではそういった人間性が最終的に否定され、エンディングもとても悲観的。そこで、最後はとても冷ややかな感情で孤独感を感じながら終わる、そのような結末を今考えています。

[聴きどころについて]
井上:  
とにかく音楽はすばらしい。序曲もいいし。キャストもすばらしく、とても楽しみです。

サージ:  
 キャストがすばらしい。全員歌唱力のみならず演技力にも優れ、人格的にもすばらしい。こういった人材が舞台には必要です。コーラスも非常にすばらしく、歌唱力に優れプロ意識も高い。このようなメンバーと共に、私も大いなる情熱を持って演出をしていますが、私たちの情熱は確実に観客に伝わると思います。
 普段は感情的に高ぶることがあまりない生活を送られている人が多いかと思いますが、この作品を通して、激しい情熱をお届けしたいと思います。