世界初企画!ナチョ・ワールドを堪能する
「ナチョ・ドゥアトの世界」、新制作「ポル・ヴォス・ムエロ」をもっと知りたい!lectureA


●「ナチョ・ドゥアトの世界」
(ナチョ・ドゥアトが芸術監督を務めるスペイン国立ダンスカンパニーの詳しい情報はこちら)

◆「ポル・ヴォス・ムエロ」POR VOS MUERO <新制作>
・振付・舞台美術・衣裳:ナチョ・ドゥアト
・音楽:15〜16世紀スペインの古楽
・テクスト:ガルシラソ・デ・ラ・ベガ
・朗読:ミゲル・ボセ

<作品案内>
15,16世紀のスペインの古楽と美しい詩「Garcilaso de la Vega」にドゥアトは刺激され、この作品は生まれた。音楽と詩に媒介されながら、この明らかに現代的なダンスは、彼の生まれた地が背負う歴史的背景と結びつく。15、16世紀にはダンスは、社会的なヒエラルキーを含む文化的な表出の一部であったし、そしてそれゆえ、ダンスはその当時のありのままの文化的状況を反映している、とナチョは語る。「ポル・ヴォス・ムエロ」は、社会的事象のあらゆる局面でダンスが非常に重要な役割を果たしていたことへの賛歌である。

「ポル・ヴォス・ムエロ」

<海外公演評抜粋1>
――2002年4月ジュネーヴ, バティマン・デ・フォルス・モトリス 執筆・ブレンダン・マッカーシー
 ナチョ・ドゥアトのスペイン国立ダンス・カンパニー(CND)は、ステップス国際ダンスフェスティバルに出演し、そこでスイス公演を完了した。(中略)ドゥアトの作品には独特の音楽性がある。ダンサーには、そのスタイルを習得する時間が必要だ。(中略)「ポル・ヴォス・ムエロ」は、その振付やデザインが16〜17世紀の世俗的および神聖なスペイン音楽と相俟って現代的な光沢をもたらす、「タイム・トラベル」のようなバレエである。音楽には、詩人ガルシラソ・デ・ラ・ベガによるソネット「ポル・ヴォス・ムエロ」のうち、白眉といえる詩の一篇の朗読が挿入される。振付は現代的ではあるが、スペインの民俗舞踊や同時代の絵画や彫刻からとったジェスチャーをも引用している。このバレエでは照明はほの暗い。これには、たいへん熟慮されたドゥアトの美学が発揮されている。ドゥアトの形象は、未修復の油絵のように影がかかっており、修道院の影から抜け出てきたかのごとく、またたく間に息づき始める。
 これで筆者が「ポル・ヴォス・ムエロ」を観たのは3回目。(中略)CNDのダンサーはまさしくカソリックの聖体降福式にも似た印象を与えた。最後の場面は、深く感動的だった。時代的衣裳の女性が影に戻っていく前に現代の形象とちょっとの間踊り、彼女自身の時代から来たパートナーが抱擁するうちに、照明が暗くなって緞帳がおりていく。観客は拍手喝采して熱狂した。(中略)多くの人はドゥアトにキリアンの痕跡をみるが、しかし、ドゥアトには彼自身の独特の言語があり、彼はとくにステップに気を使っている。この気遣いは、ドゥアト自身のダンサーがドゥアトの作品を上演するとき、最も明白に述べられる。(中略)CNDのドゥアトの前任者はマヤ・プリセツカヤであり、彼女はそれがもともと備わっていないところから芸術的モデル、それはスペインには合わなかったのだが、を課すことを試み続けて批評家たちから非難されたのだ。ドゥアトはカンパニーのために、強い現代的なスペインのアイデンティティを創造すると決断し、事実そのようにした。(後略)

「ポル・ヴォス・ムエロ」

「ポル・ヴォス・ムエロ」

<海外公演評抜粋2>
――2002年4月ジュネーヴ、バティマン・デ・フォルス・モトリス レイチェル・ジェファーソン=ブキャナン執筆
当夜最後の作品「ポル・ヴォス・ムエロ」は、15〜16世紀のスペイン音楽および、スペイン人ガルシラソ・デ・ラ・ベガによる詩の抜粋にインスピレーションを得たもの。これらの詩の抜粋は音楽の合間に暗唱され、それがこの作品に断片的な、ややポストモダン的なクオリティを与えていた。作品の冒頭は、形式ばった空気が浸透している。時代がかった衣裳をまとったダンサーたちが、伝統的な宮廷舞踊とコンテンポラリー・バレエとが合わさったボキャブラリーを使ってパフォーマンスをおこなう。舞台後方のルビー色の赤い幕が全体のデザインに暖かみと深みを加え、薄暗い照明が往時の雰囲気を呼び起こす。
 12人のダンサーによる宮廷舞踊は、太鼓の音がリズミカルに脈動するうちに、コンテンポラリー・バレエに発展していく。両脚のジャンプと打楽器のようなユニゾンの手拍子は、作品のペースを変化させる。そして、喜びに満ちた動きの祝祭に発展していき、男たちと女たちがそれぞれ、跳躍したり、ツイストしたり、蹴りをしたりなど、アクロバティックなパフォーマンスをおこなうのを互いに見つめあう。ダンサーたちの形づくるラインは宮廷における空間的デザインを想起させるが、本質的にはモダンな動きの要素を枠組みとしている。
 3人の女性を舞台に残して、群舞は退場する。彼女たちが手首や首をデリケートにくるくる回すことによって、儀礼的な軽快さという感覚が引き起こされる。くるくる回すモチーフは下半身に広がっていき、筆者は突然だが、ブルースの作品のほかのもの(とくに、「雄鶏」の「レディ・ジェーン」のある宮廷的なジェスチャー)を思い出してしまった。男性たちがふたたび登場すると、男性の脚の動きはタイツ姿でよく見えるため、女性の長いひゅるひゅる音をたてるスカートと対照的であった。それは、活き活きした動く彫像であった。
 男性のデュエットが遊びにみちたものになると、コメディの要素が入ってきて、観客はくすくす笑いを始める。ブルー・グリーンのウォッシュが舞台を浸すと、6人口の女性ダンサーが柄のついた仮面をもって登場する。こういった小道具が各場面におもしろみを加え、ダンサーが腕をのばして小道具を掲げてポーズをとると、ダンサーの伸びやかなラインが美しい。男性がダーク・パープルの衣裳をまとい、本物の香炉をもって登場する場面では、カトリックの聖体降臨祭のシンボルが効果的に描かれている。この香炉の小道具をぐるぐる振り回しながら、腕や脚を回したり、あるいはさっと払ったりするジェスチャーをしたりしつつ、舞台をひと周りしていく。
 やがて群舞のラインが舞台に戻ってくる。観客はヨーロッパ宮廷舞踊の歴史を通して旅に連れて行かれていたかのようだった。このときは、舞台中央でリフトやターンをしながら密接に関わりあったデュオが披露される。バレエは明らかに終わりに向かっている。というのは、ロンドのかたちが明らかになってきているからだ。作品冒頭のパ・ド・ドゥが中央に戻ってくる。よりクラシカルなボキャブラリー(とくに、サポートの部分で使われている)によって、ペースが遅くなり、「時代的な」作品に論理的な結論を与え始める。デュエットがフェード・アウトしていくと、少人数のグループが舞台上に不均整に配置され、女性のソリストがモダン・ダンサーのそばで踊り、結局は彼女自身の歴史の文脈からきたダンサーになって作品は終わる。すべてはその本来のあるべき場所に帰ったのだ。
<結論>
 パフォーマンス終了後は騒々しいまでの喝采とスタンディング・オベーションだったのだが、確かにそれに値するものだった。ドゥアトのスタイルは陽気なまでにフィジカルであり、流れるようであり、複雑に入り組んでいて、それでもとっつきやすい。彼は、身体を楽しませるかのようであり、その身体能力をフルに発揮させようと努力している。詩的な心像と強力なジェスチャーの形象が、ドゥアトの素晴らしい音楽性と融合している。ドゥアトはまた、スペインの文化、フォークロア、音楽、風景、詩の強烈なカクテルをうまく活用している。その成果はめざましい。この公演がドゥアトの振付の業績を代表するものだといえるならば、ドゥアトとそのカンパニーがふたたびこの湖岸を飾る際には、今回と同様の熱狂をもって歓迎されるであろうことを私は確信する。


このページのトップへ