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2005年12月9日

“戦争と人間 懲りない現代重ねる”
演劇「母・肝っ玉とその子供たち」
朝日新聞に劇評掲載 ほか掲載情報

上演中の「母・肝っ玉とその子供たち」の劇評及び関連記事が、朝日新聞ほか各紙に掲載されています。



朝日新聞2005年12月1日(木)朝刊
戦争と人間 懲りない現代重ねる
「母・肝っ玉とその子供たち」

評者・新野守広 立教大教授

撮影:谷古宇正彦

 

 戦争劇の傑作として日本でも何度も上演され、そのたびにスケールの大きな世界を見せてくれた作品の上演史に、新しい一ページが加わった。栗山民也演出、大竹しのぶ主演の音楽劇「母・肝っ玉とその子供たち−三十年戦争年代記」である。欧州全体がカトリックとプロテスタントに分かれて戦った400年前の三十年戦争で、酒や日用品を幌車に積んで戦場の兵士に売り歩く旅の家族の物語だ。

 主人公はしたたかな生活力から「肝っ玉」と呼ばれる母親だが、決して豪快な女傑ではない。商売に気をとられている隙に上の息子は軍隊に引っ張られ、行方不明に。賄賂を値切る交渉をしているうちに、下の息子は銃殺されてしまう。打算にも愛情にも徹しきれない中途半端な存在。彼女の心のよりどころだった言葉の不自由な娘は、優しい心があだとなり命を落とす。

 第2次大戦勃発を亡命先のスウェーデンで知ったブレヒトが、迫り来る危険を肌身に感じて一気に書き上げた作品だ。49年に東ドイツで上演され、政権党から形式主義という批判を受けたが、公演はいつも満員だった。劇を戦争とは何かを冷静に見つめる素材として提示したブレヒトのモチーフは、世界中の演劇人にとって戦後の出発点となった。

 上演の成否は、この思いをどう受け止めるかにかかっている。栗山演出は叙事性を強調するブレヒト流の説明の枠組みをスーツ姿の語り手(梅沢昌代)のナレーションとして表す。時代や場面などが冷静に説明される一方で、登場人物の感情のテンションを高め、今なお戦争に狂騒する現代の世界を戯画的に重ねている。歌を聴かせるショーに仕立てられた場面もあり、娯楽と戦争の危うい結びつきも示す。P・デッサウの曲にノイズを混ぜ、リズムを変えた音楽(久米大作)が効果的だ。俳優たちは難しい歌を違和感なく歌っている。

 客席の私たちは、肝っ玉をめぐる料理人(福井貴一)と従軍牧師(山崎一)の駆け引きを見守り、娼婦イヴェット(秋山菜津子)と肝っ玉の掛け合いを楽しむ。兵士の不気味な群れに思わず身をすくめ、子供たちの死に心を痛める。同時代の感覚に根ざした谷川道子の新訳に導かれ、あふれ出てくるのはまさに現代の感情だ。

 その感情の中心に大竹の肝っ玉がいる。「やだね、戦争ってやつは」と腹の底から絞り出す母の声は、同時代を生きるひとりの女性の心からの叫びだ。ところがその舌の根も乾かぬうちに、戦争によりかかった商売に精を出す。なんと懲りない姿だろう。利益追求にあくせくする私たちの社会がダブって見える。

 舞台装置(松井るみ)は廃墟を思わせ、崩れた建物の土台やむき出しの鉄骨が無残な姿をさらしている。兵庫県立芸術文化センターでの公演では、10年前の阪神・淡路大震災直後の街を思い起こさせ、その記憶に触れる生々しさがあった。

 新国立劇場の広大な空間では、同じ装置に死の世界を感じた。劇が進むにしたがって舞台装置に亀裂が走り、がれきは徐々に取り払われ、ついに舞台は墓場となる。その中を肝っ玉は一人、幌車を引き、歩いて行く。死の世界を彷徨する彼女の旅に終わりはない。終幕で舞台奥に日付を刻む数字が投影される。それは17世紀から21世紀へ駆け上がり、この場が死に覆われつつあることを示すのだ。

 舞台は文化が再興される気配のないままに終わる。私たちの世界はどうだろうか。


2005年12月1日(木)朝日新聞朝刊に掲載
この記事は、朝日新聞社及び筆者新野守広氏の承諾のもとに掲載しています。

 

●このほか、以下の各紙に劇評、関連記事が掲載されました。
12月2日(金) スポーツ報知「大竹しのぶ 痛々しさ逆手に熱演」(安達英一)
12月5日(月) 神戸新聞夕刊「感情移入の善しあし」
12月6日(火) 読売新聞大阪本社版夕刊「大竹の頑迷な演技 共感呼ぶ」
12月7日(水) 読売新聞東京本社版夕刊「舞台弾ませた 大竹の生命力」(祐成秀樹)
12月7日(水) 東京新聞夕刊「がさつな中に、娘への深い愛」(江原吉博)
12月7日(水) しんぶん赤旗「現代に痛切に響く絶叫」(菅井幸雄)
12月8日(木) 日本経済新聞夕刊「ブレヒトを現代的に描く」(河野孝)


「母・肝っ玉とその子供たち」、公演は12月11日(日)までです。