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『あーぶくたった、にいたった』が問いかけるもの

上演中の演劇『あーぶくたった、にいたった』プログラムに寄稿いただいた内田洋一さんがウェブ用にも文章を寄せてくださいました。



『あーぶくたった、にいたった』が問いかけるもの

内田洋一

 電信柱とベンチ。たったそれだけの簡素な空間で男1,女1といった名もなき人たちが出会い、奇妙な会話からままごとのようなお遊びをはじめたり、ささいな言い争いをしたりし、思いもかけぬ殺人や混乱の極致にいたる。多くの場合、彼らはホームレスのような境涯になって流浪し、舞台をおおう虚空にはただ乾いた風が吹く。それが電信柱の宇宙と呼ばれた別役実の不条理劇である。



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 戦中戦後の政治の季節のあと、一見すれば安定した経済の時代が日本に訪れた。しかし、新たに出現したサラリーマン家庭を中心とする小市民社会の深層には、家庭内暴力や動機なき殺人といった亀裂が埋めこまれていた。秘められた人間関係のくるいを別役実の淡々としたせりふ術は照らし出した。



 『あーぶくたった、にいたった』は、そんな「小市民シリーズ」の代表作のひとつである。一九七六年、文学座アトリエの会が初演した。同じ文学座が翌年初演した『にしむくさむらい』と並んで、電信柱のある宇宙と評された作劇の頂点に立つ戯曲である。



 別役実の戯曲にはほとんどといっていいほど風が吹く。この作では、飯を炊く湯が沸騰して吹きこぼれるさまを写す唱歌の響きによってある匂い、かつてあった楽園の残り香とでもいうものを宿す。夕方の風の匂いが客席に伝染する。



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 この劇作家は楽園を追われた漂泊者たちを「そよそよ族」と名づけていた。創作ノートなどによれば、そよそよ族は古代の失語族に起源があり、空腹を主張できなかったため、餓死するほかない沈黙の種族である。現代でも生息している幻の民であり、風に吹かれる木の葉のように漂流している。そよそよ族的兆候は、会社に行かなくなったサラリーマンなどに浮き出て、小市民社会の歪みを映しだす。



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 電信柱のある宇宙は、そよそよ族をめぐる壮大な偽史のひとつひとつの情景といえるだろう。流浪するということは、酷薄な運命を敷いた「この世界」の不寛容に対する沈黙の抵抗なのだ。現代社会は、孤独なそよそよ族を受け入れることができるか。『あーぶくたった、にいたった』が問いかけてくるのは、そういうことだろう。




内田洋一 うちだ・よういち

日本経済新聞社にて1984年以来、文化記者を務める。舞台芸術を中心に美術、音楽、文芸などを幅広く取材、2004年から編集委員。著書『風の演劇 評伝別役実』(白水社)で第24回AICT演劇評論賞受賞。他の著書に『危機と劇場』『現代演劇の地図』(晩成書房)、『風の天主堂』(日本経済新聞社)、『あの日突然、遺族になった 阪神大震災の十年』(白水社)、編著者に『日本の演劇人 野田秀樹』(白水社)、『阪神大震災は演劇を変えるか』(晩成書房)がある。



『あーぶくたった、にいたった』公演詳細



作:別役 実
演出:西沢栄治
出演:山森大輔 浅野令子 木下藤次郎 稲川実代子 龍 昇
上演期間:2022年12月7日(火)~19日(日)
会場:新国立劇場 小劇場


公演詳細はこちら https://www.nntt.jac.go.jp/play/bubbling_and_boiling/