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レポート「こつこつプロジェクト ―ディベロップメント―」の現場から【2nd&3rd】





通常の、公演のために行程を逆算しながらの稽古ではできない"試し、作り、壊し、また作る"、創作のために十分な試行錯誤を行える時間と場を、日本の作り手に提供したいという小川絵梨子演劇芸術監督の強い想いから立ち上がった「こつこつプロジェクト―ディベロップメント―」。

3名の演出家が参加した初年度は、2019年3月にそれぞれが選んだ戯曲を観客を入れてリーディング上演する機会を設けた。三者はその後も各グループごとにクリエーションを重ね、新国立劇場スタッフに向けた最初の試演を実施。そのレポートをお贈りしたい。

プロジェクト・レポート:西沢栄治『あーぶくたった、にいたった』2nd&3rd Trial


イメージを上書きしながら強度を上げていく

直面する「現実」と戯曲が共鳴した上演に鳥肌立つ


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 『あーぶくたった、にいたった』(作:別役 実)で三組中、唯一日本の戯曲に取り組んだ西沢栄治氏。公開リーディングは"観客に見せる"ことを意識して完成度高く仕上げ、1stでは"日本の小市民を描く"という類似モティーフを含む(と演出家が読み解いた)、同じ別役戯曲の『風のセールスマン』の一場面を挿入する、実験的な構成で試演を行った。

 続く2019年8月初旬、試演2ndにはリーディングに出演した4人の俳優が再び結集。20日弱の稽古を経て、全10場を戯曲に忠実に立体化すると同時に、各場に埋め込まれた劇作家の意図や思惑を丁寧に掘り起こす取り組みが行われた。


 アクティング・エリアの設え、上手の敷物を敷いた"家の中"スペース、背景として張り広げられた万国旗などは1stから引き続き使用。一場が終わり、転換や暗転にあたるところでは、タイトルにもなっている古い童謡「あぶくたった」を、子どもが歌っているSEが入る。


 俳優4人は台詞を覚えた状態で、膳やちゃぶ台など小道具を自ら出し入れし、羽織る衣裳なども変えつつ、よどみなく場面を重ねていく。追憶の夕暮れに吹く風の匂い、破られた結婚の約束、その先には婚礼や家庭生活、年を経たもう一組の男女が加わっての「死」の予習のような場面。殊に「子ども」の存在に自らの人生を侵食され、壊れていく男女(夫婦)の様は何度観ても鳥肌立つ恐ろしさだ。


 男女が出会い、結ばれ、家を構え、家族を作り、やがては老いていくという人間の、ごく当たり前な人生の展開が少しずつ歪み、不穏な様相を帯びていく。その変化を言葉だけで淡々と立ち上げる別役語の凄味を、回を重ねて戯曲に向き合う俳優たちが、前回以上に体現していると感じられた。演出家と共に深めた戯曲と作家への理解が、条理を越えたドラマの展開を乗りこなし、コントロールする力になったのではないだろうか。


 終幕は、本来平凡であるはずの小市民の人生が、深い虚無へと反転していく劇中の「小さな不幸」の積み重ねが露わになり、不確かな人の世の哀しみがじわりと伝わって来た。劇中の男女に降りかかった理不尽が、実は私たちの日常のそこここにあり、いつ襲い掛かってくるかは誰も予知することができない。そんな、戯曲によって炙り出された人生の恐ろしい一面が、肌身に感じられるリアルな作品となっていた。


 終了後のディスカッションで、「戯曲内で起こる出来事の時間軸など整合性にとらわれることなく、繋がりよりも各場を際立てる演技や演出をさらに突き詰める方向へ向かっている。"その場"が真実になれば、あとは観客の想像力で繋げてもらえるはず」と西沢氏。小川芸術監督も「登場人物たちを様々に繋ぐ線が明確に見え、それが観客にもきちんとリンクしているのでドラマを最後まで追いかけられる。戯曲に仕掛けられた謎に惑わされず、楽しむことができる作品になりつつあるのでは」とエールを送った。


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 試演3rdは20年3月下旬に実施。男1を演じる俳優が2ndまでと変わったこと、これまで割愛していた傷痍軍人役の俳優も加わったことで、座組としては大きな変化を経ての最後のトライになる。加えて3月3日に作家である別役氏が病没。さらに昨年末からじわじわと深刻さを増してきた、新型コロナウイルス感染症禍であるという非日常感が、戯曲とどこか呼応しているような、稀有な状況での試演となった。


 舞台上のセットや道具類は、これまでの試演を踏襲したもの。だが小劇場の高さや奥行きから生まれた「闇」が、登場人物たちの抱える暗い心象を際立たせる効果となっている。リーディングから戯曲への理解を深めてきたキャストたちの、演技の強度は確固たるもの。同時に初参加となる傷痍軍人役の哀感をにじませた可笑しみや、新たな男1が劇中にもたらした「影」は、作品の新たな彩りとなっている。


 試演のたびに目にしてきた今作描くところの人間の、ごく当たり前の営み。成長した男女が結ばれ、家族となって子を生し、その将来に頭を悩ませるという小市民的幸せが、劇中では原因もよくわからぬままに足元から崩れ出し、底の見えぬ深淵となって口を開け、ささやかな人生を飲み込んでしまう。

出会いから別れへ、生から死へと移ろい流れる宿命、神を引き合いに出しても救われることのない人生の無常観、ウイルス禍による閉塞感に重なり、圧倒的な生々しさとなって作品の後押しをする。


 救われるためには跡形もなく消えてしまうこと=死しか残されていない。男1と女1が意志を持って選ぶ「終わり」を、二人が望むように白く覆い隠すはずだった紙の雪が、降り積もるうちに突如、場を塗り潰すほどに大量の、黒い紙片に変わる終幕に鳥肌立つ。黒いものに覆い隠され、なかったことにされたその姿は、今を生きる私たちそのものにしか見えなかった。


 リーディングから3rdまで、西沢作品の変遷を思い返すと、そこには演出家・西沢栄治が『あーぶくたった、にいたった』という戯曲を介し、別役実作品を演出する醍醐味をみつけていく過程があったように思われる。戯曲と出会って得た最初の着想に、新たなアイデアを投入したり、計画を立てて一つずつ要素を足していくようなアプローチをするのではなく、参加した俳優陣と共に着想を肉付けし、戯曲の魅力を丁寧に引き出しながら作品の強度を上げていく。結果、独特の台詞が醸す戯曲の「雰囲気」に流されない、リアルなドラマを舞台上に出現されるに至ったのではないか。


 一見すると大きな変化はないが、つくり手たちの中で作品が更新されることで、観客へと結ぶ力が増していく。じっくりと時間をかけた創作が作品にもたらす変化の多様性と、上演される環境や状況に共鳴する戯曲の強度。その両方に気づかされたうえ、魅力的な作品を生み出した意義ある一年、その時間の重みを感じた。



(試演会リポート 尾上そら)


プロジェクト・レポート:大澤 遊『スペインの戯曲』2nd&3rd Trial


課題を立て、クリアし、先に繋げる

「こつこつ」を深く理解した取組みがもたらす成果


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 日本でも近年、大小さまざまな企画で数多く取り上げられ、人気も博しているフランスの劇作家ヤスミナ・レザ。生々しい感情と言葉のぶつかり合いから、世間的には「大人」とされる人々の軋轢が赤裸々に描き出されるエネルギッシュな作劇に定評がある。加えて今作は、芯となる「スペインの戯曲本編」と「それを演じる素の俳優たちの劇作家と演出家に向けたモノローグ」「『スペインの戯曲』内で語られ、最終景で演じられる『ブルガリアの戯曲』」という三つの層を内包しており、その三層を往還・交錯しながらドラマが展開する複雑な戯曲だ。


 演出の大澤遊氏は、取り組みの端緒から徹底した戯曲研究を実施。今回、翻訳を手掛けた穴澤万里子氏の協力も得て、同じ文意を伝えるにも日本語より多くの単語を要するフランス語戯曲を、日本人の耳で捉えやすいものとする翻訳の精査を試演以前より始めていたという。また、俳優たちとの作業の過程でも、演じるキャラクターについて掘り下げた話し合いを幾度も行い、それぞれの性格や劇中では語られない事情・感情、関係性などを分析し、結果を全員で共有することを心掛けたとのこと。


 男女5人の登場人物は、『スペインの戯曲』での舞台女優の姉と映画スターの妹、姉の夫である数学教師、姉妹の母と、その恋人の不動産業者という役と、それらを演じる俳優、『ブルガリアの戯曲』のピアノ教師を、場面ごとに演じていく。


 2019年3月、人数分の椅子とスタンドマイクというスタンダードなリーディングスタイルで臨んだお披露目公演、『スペインの戯曲』の母娘とそのパートナーが一堂に会するお茶会と、前後するモノローグにシーンを絞り、じっくりとセリフに向き合った6月の試演1stに続く、試演2ndは11月末に行われた。


 今回は全編通しの上演。『スペイン~』内に登場する場所、姉妹の母が住む部屋のダイニングやキッチン、ベランダに加え、姉夫婦が訪れる公園などを上演エリアに全て乗せ、小道具もある程度そろえ、それらを場面ごとに移動しながら演じることで、ドラマの推移を明示した。またキャストは全員、台本を手離して本番に近い状態で演じている。


 さらに、出番ではない俳優が、他の場面を演じている俳優たちを見守るように舞台上に居続ける演出が加わり、同じ舞台上に演者とは異なる「視線」が存在することで、戯曲の多層構造を観る者に無理なく意識させる効果が上がっていた。それは同時に、生々しい登場人物たちのやりとりを俯瞰する視点を劇中に生じさせ、その結果、ドラマの深みが増したように感じた。


 一部キャストが変わっているものの、演技の呼吸などはよく合っており、大澤氏のリードによる戯曲分析の成果、その共有が上手く機能しているからか。継続的に創作を続けるためには、カンパニーの体制づくりも大切な要素かも知れない。


 上演後は俳優も交えたディスカッション。「構造に惑わされることなく、戯曲のセリフや人物の関係性がクリアに見えて来た」など、創作のステップがきちんと重ねられていることが評価される反面、「劇中の"笑い"に繋がる仕掛けを、もっと意図的に立てても良いのでは?」という意見も。大澤氏自身から出た「やればやるほど課題がみつかる。今回の取り組みでは、"演劇を捉え直す"という作家レザの取り組みが明確に見えて来た。その発見を次に活かしたい」との言葉が印象に残った。


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 最終の試演3rdは、2020年3月半ばに小劇場を使って実施。

 アクティング・エリアに戯曲内の全てのセットを配置し、シーンの進行と共に移動しつつ演じること、出番以外の俳優が舞台上に残ることなど2ndから踏襲された演出が、上演の骨格を確かなものにしている。幕開きは、男優による最初のモノローグに重ね、俳優たちが道具類を動かし、第一場の状態にセッティングするところを見せながらのスタート。


 キャストは2ndからさらに変わっているが、アンサンブルがとても良く、全員が自身の役割を十分に理解したうえで、演出家が求める旋律を奏でている感がある。結果、舞台上には非常に集約度の高い空気が舞台上を満たしていた。出番以外も居続ける俳優たちは、ただその場に居るのではなく、別室で起こっているドラマに意識を注ぎつつ、役としての日常をさりげなく体現し続けている。


 また、俳優たちが俳優の仕事や演劇について語るモノローグ部分の、観念的な言葉の塊がこれまで以上に観る者に届いている、と個人的には感じられた。十全な戯曲分析の成果として、俳優たちが自信を持って観客に語り掛けることができるようになり、セリフの説得力が格段に増したのではないだろうか。これまで以上に笑いが起こる場面が多っかったことも、作家の多分にシニカルなユーモアが、俳優たちの中でしっかりと咀嚼された成果に思えた。

 結果、複雑な劇構造に観客が惑わされぬよう巧みに観客を導き、作品の一部として取り込む良い緊張感が全編を貫き、劇場と作品が一体となる空気が醸成されていた。


 全体の流れをふり返ってみるに、プロジェクト名にふさわしくステップごとに課題を立て、段階を踏んでそれをクリアし、次の課題へと繋げていく"こつこつ"スタイルを、最も忠実に行っていたのが大澤氏だったように思える。そのために必要な座組づくりを含め、時間をかけて思索と創造を深める機会が作品に与える効果や影響を、その過程を追うことで明らかにしてくれた。広く観客に向けて今作を上演するという、わかりやすいゴールをめざすに留まらない、プロジェクト全体を通して得た経験や手応えを、別の創作の場でも役立ててもらえることを願ってやまない。



(試演会リポート 尾上そら)


プロジェクト・レポート:西 悟志『リチャード三世』2nd&3rd Trial


堅固なロジックと実験的なメソッドの両輪で

ビジョンを立ち上げるためトライし続けた時間


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 台詞を平易な現代の喋り言葉に変換したうえで主人公を異なる性別の俳優が演じたり、一つのキャラクターをバトンを渡していくように複数の俳優が演じ繋ぐなど、大胆かつ挑発的な演出でシェイクスピア『リチャード三世』の公開リーディングを演出した西悟志氏。続く1stでは「時間」「意識」「呼吸」という3本の軸を、俳優が自在にコントロールできるようになるべく独自の稽古法を実施。台詞を十全に操り、観客に「伝わる」ことを目指すところとし、一幕冒頭リチャードの長台詞を5人の俳優で次々に語った後、3~5幕からの複数場を抜粋上演した。


 2019年9月半ばの試演2ndでは1幕2場、夫である王太子エドワードを殺され、その死体を弔うべく運ばせる未亡人アンに、リチャードが臆面もなく愛を告白する"口説きの場"をセレクト。「男優によるアン&女優によるリチャード」、「女優によるアン&男優によるリチャード」、「共に男優が演じるアン&リチャード」の3組が、演出を変えながら同一場面を演じるという趣向だ。


 試演の開始時間になると、自然発生的に男女逆転組による芝居が始まった。アンはアクティング・エリアの中央に座り、その周囲を経めぐりつつ、へらへら笑いのリチャードが口説き文句をまくしたてる。対するアンは氷のような冷ややかさで強く反論し、食い気味に放たれ続ける二人の言葉が速射砲の弾のように行き交う。二人の立場や想いの圧倒的な違いを際立て、その先に訪れるアンの変心に、人間の不可解さがリアルに感じられた。


 場面が終わるとすぐ次の組が登場する。二組目は役の性別通りのペアで、エリア中央に並んで立ったまま長めの沈黙。その後、猛烈な勢いで台詞のぶつけ合いが始まった。演者が日常使う言葉に変換された台詞は、キャラクターから地位や時代の隔たりをはぎ取り、役と演者を強く重ねる。ダメ男にはまる女の心理、その心理的な変遷を見せられているようだ。アンがリチャードに唾を吐きかける、その瞬間だけ2人の距離が近づき、言葉に動きが加わった途端に上がった場の熱量が鮮烈だった。


 三組目、男優同士ペアのアンは主語が「ぼく」で、椅子に座った状態で静かに語り始める。アンの周囲をリチャードが巡りながら言葉を浴びせかけるのは一組目と同様だが、アンの意志や頑なさが最も明確に伝わってきたのがこの組だった。言葉も身体も流動的なリチャードに対し、アンは動かないからこそその内部で言葉や感情の熱量が変化していることが伝わって来る。怒りから憐憫へ。その隙を突かれて憎いはずの仇を受け入れ、それが己の破滅と悟る。哀しいアン像が際立つパフォーマンスだった。


 終了後のディスカッションで西氏は「フェミニストである自分にとって、1幕2場のアンの屈伏にどう説得力を持たせるかは、演出プランの重要な部分。稽古ではもっと先まで通していたが、今回の試演では敢えて場を絞った」と説明。俳優が自発的に演技できる空間をいかに創造するか、西氏の演出指針やそのためのロジックを俳優といかに共有するかの難しさ、文楽やダンスが持つ良き身体性の獲得など、多彩な取り組みと実験がそれぞれ興味深く、次の展開にさらなる興味が募った。


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 20年3月初旬の『リチャード三世』試演3rdは、それまで新国立劇場演劇研修所の修了生中心だった座組から、西演出の経験者である外部の俳優を複数人迎えた新たな座組で実施された。新規参加の俳優陣は戯曲を持った状態で演じることに。幕開きは軍人にして男装の麗人がヒロインである、漫画原作のアニメーション『ベルサイユのばら』のテーマが大音量でかかり、高いテンションで駆け抜けた公開リーディングの体感が甦る。


 主人公リチャードを含めキャラクターを場面ごとに別の俳優が演じたり、一役を複数人で演じわける、台詞を、方言も含めた俳優の日常語に変換して発語する、漫才のような掛け合いで説明的な台詞を語りかけるなどの手法は継続。ハイスピード&ハイテンションで時にはマイクも使って発せられる台詞が飛び交い、会話が畳みかけられる劇空間は戦場のようだ。


 リチャードは多くの場で女優によって演じられ、中でも奸計を巡らせ人を陥れて命を奪うような場面は同じ女優が演じる仕掛けに。結果、西氏がリチャードの中に見ている"社会的に弱い立場にあるもの"の、悪による反逆という構図がよりクリアに伝わってくる。役や台詞の感情より、演じる俳優の体感や情動が作品の前面に強く出ており、古典作品の様式性を打破するリアルが舞台上に現出していると感じた。 


 試演1stで魅せた5幕3場、リッチモンドとの決戦前夜にリチャードの枕辺に訪れて呪いの言葉を吐き、リッチモンドの勝利を寿ぐ亡霊たちのシーンも健在。回を重ね、演出の意図と戯曲を深く理解した俳優たちは、さらに強度を増した発語で観客に台詞をぶつけてくる。凄まじいまでに気のこもった言葉からは、圧が感じられるほどだった。


 終景、追い詰められたリチャードが王国と引き換えに馬を求めるシーンも印象深いもの。リチャードを主に演じてきた女優がまず、「うまー。うまーくれー」と哀切かつ歌うように節をつけて馬を求める台詞を舞台へ放つと、少し間をおいてもう一人の女優が現れ同じ台詞を唱え、さらに三人目の女優も同様に声を重ねる。増殖するリチャードは、互いを見交わしながら声を合わせることで、稀代の悪党の最期ではなく、規制の価値観や体制に闘いを挑み敗れ去った者の哀しみと虚無を舞台いっぱいに満たしていく。その後、一人残った3人目のリチャードが、戯曲終わりのト書きをフラットに読み終幕となった。


 劇的かつ大胆な演出プランは公開リーディングから変わらず、それを実現するために必要な俳優の身体を獲得するための、手法や理論の共有に時間をかけた西氏の創作。それは芝居づくりに必要な、座組を構築するための時間でもあったように思う。作品づくりの過程だけでなく、演出家が自身の創作をまっとうするための「環境」を発見するためにも、このプロジェクトは機能するのだと気づかされる取り組みだった。



(試演会リポート 尾上そら)