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『どん底』演出・五戸真理枝、インタビュー

2019/2020シーズンの幕開けは、文学座の新鋭演出家・五戸真理枝が手がけるゴーリキーの『どん底』。個人と集団、社会構造との関係を問い直すシリーズ「ことぜん」の第一作として、日本の近代劇上演の古典を選んだ、その真意とは─。歴史と現在、劇と現実、それらをつなぐ俳優たちに焦点をあてた構想は、刺激的かつ直球の「現代劇」の登場を予感させる。


インタビュアー:鈴木理映子( 演劇ライター)






多様な個人をきちんと描く『どん底』

役者の存在感が重要な戯曲


─今作はシリーズ「ことぜん」の第一作にあたりますが、どのような経緯で『どん底』を上演することになったのでしょうか。


五戸 個よりも全体が強いと感じる今の世の中にあって、「ことぜん」というテーマで演劇をつくるということにはとても共感しました。「新国立劇場で何かやりませんか」と言っていただいたときから、やりたい戯曲をいくつか考えていましたが、その中でもこのテーマなら『どん底』がいちばん合っていると思ったんです。


─『どん底』と「個と全体」というテーマとの重なりは、どんなところにありますか。


五戸 それを説明するのには、何段階かの説明がいるんですが......まず、演劇が演劇ならではの表現で戦うのにはどうしたらいいか、演劇にしかない面白さってなんだろうと考えると、やっぱりそれは、生で演じることから生まれる同時代性であったり、俳優がそこにいるという存在感なんじゃないかと、日頃から考えているんです。『どん底』は、ストーリーというより、一人ひとりの人間をちゃんと描いている戯曲で、だからこそ役者の存在感が重要になってくる。黒澤明監督の映画版も、役者の匂ってくるような存在感に引き込まれるんですよね。今って、どちらかといえば作者の力が強いというか、エンターテインメントにも驚かせ方や引き込み方の決まりというのがあって、一見自由に見えるけど、大きな骨組みで固まっちゃってる閉塞感を感じます。そんななかで、その骨組みを飛び出していく役者の存在感、演技のキャッチボールを見せられる演劇があれば、すごく自由だし面白いはずだという気がするんです。


─たしかに『どん底』にも、底辺にいる人たちなりの生活感や恋愛をめぐるてんやわんやが描かれていますから、決して重苦しいだけの悲劇にはならなさそうです。


五戸 そうですね。問題なのは、経済よりも精神の「どん底」です。知らず知らずのうちに劣等感を抱いて、人を見る目も厳しくなるような。特に今の世の中では、貧乏かどうかに限らずそれは起きている。だから、個人がもっと元気になった方がいい。たとえば障害を持つ人のケアであったり、教育の制度であったり、みんなが平等に暮らせるような制度は整ってきて、目に見えて不自由を強いられるようなことは減った。でも、知らず知らずのうちに社会の固定観念に合わせようとして、生きづらさを感じている人たちは、今もたくさんいるはずです。国全体を発展させようとするなら、どうしたって前向きの希望と勢いは必要だった。ただ、その過程で見落としてきたものもあるはずで、これからは、それを拾っていかなくてはいけない時代です。その落し物こそが、多様な個人の中にあるんじゃないのかな。


─『どん底』は、文学座でも上演されていますし、自由劇場が一九一〇年に『夜の宿』として上演して以来の、いわゆる「新劇のレパートリー」ですよね。上演戯曲を選ぶ上で、そのことは意識されましたか。


五戸 この台本が熱狂的に支持された時代があるわけで、何かしらのエネルギーは持っているはずだと思うんです。ただ、やっぱり暗い話だし、過去の上演の映像資料を観ても「一〇〇%面白い!」とも言い切れないんですよね。そこにまだ研究の余地がある気がしています。この戯曲の持つエネルギーを自分でも、現代の視点から解明し、これまでの上演の歴史に、もうひとつ新しいものを積み重ねてみたいです。



『どん底』は現代の庶民の劇

そんなふうに錯覚するまで行けたら

─今回は安達紀子さんによる新訳での上演になります。


五戸 安達さんの新訳でどんな言葉が紡がれるのかとても楽しみです。現代人が演じているということが透けてみえるようにしたいので、真意を外さないようにしつつ、会話のテンポも軽くしたり、ちょっとだけ日本人に近づけるような工夫も考えています。神西清さんの翻訳を読んでも、登場人物がすごく身近に感じられますし、共感もしやすい。そこがこの戯曲のいちばんの魅力です。ですから、「もしかしたらこれって現代の庶民の劇なのかな」という錯覚をさせるところまで行けたらいいなと思うんです。今はまだ翻訳の仕上がりを待っているところですが、私は私で、原文をあたったり、この戯曲が書かれた当時の社会背景を調べたりしています。ロシア語は辞書を引きながら読むことしかできませんが、やはり原文にあたらないとわからないこともあるんです。以前『三人姉妹』を演出したときに、どうしても人間関係が生きてこない場面があって。言葉の意味を一つひとつ調べたら、「もうやめて」という台詞に、「ストップ」ではなく「十分です」という意味があることがわかりました。ちょっとした違いなんですが、それで場面はかなり変わったんですね。だから日本語訳だけでなく、原語の根底にある意味を知ることも重要です。


─「現代劇と錯覚するくらい」とは、見た目にも現代的な演出を施すということですか。


五戸 そうです。衣裳や装置のすべてを現代化するかはわかりませんが、そういう感覚を混ぜていきたいと思います。たとえばある俳優は化粧も衣裳もバッチリで演じる気マンマンだけれど、ある俳優は普段着の中でも貧相なものを選んで出てきている、というような。


─演技の上でも、過去と現在、演技と現実が重なり合うんですね。


五戸 「これはお芝居である」ということを、少しだけ立たせたいんです。私は新劇の世界で育ってきましたが、たとえばお茶を飲むっていう、普通で、地味な演技の面白さが、若い頃にはわからなかった(笑)。何年もかかって、「ある特定の瞬間に、お茶を飲む」ことの面白さがわかってきた。このことをなんとか、かつての自分のような若い人にも伝えたい。そのために、あえて演技を異化してみせようと試みているんです。自然な演技を否定しているわけではなく、そういった「演技」に焦点をあてる工夫をすることで、より大きな飛躍ができないか。そこから、台本が持っている筋書きやテーマ以上のものが見えてくる可能性もあるんじゃないかと思います。


─そういったアイデアはキャスティングにも影響しましたか。


五戸 演技がうまい、と同時に、自分の演技を客観視できないといけないというのはあるかもしれませんね。「ちょっと今の演技、大げさにしてみませんか」みたいなことを、一緒に楽しんでいただけそうな方々に集まっていただけたと思います。


─観客の意識も、劇中の世界と現実とを行き来することになるんでしょうか。


五戸 いえ、そこは一度捕まえたら逃さないようにしたいんです。特に導入は大事で、現代のエンターテインメントに慣れたお客様にとって、新劇的な戯曲の導入部分は、ちょっと遅いんじゃないかと思っていて。ですから、起承転結の「転」が最初にくるような、ちょっとした遊びをきっかけに作品の世界に引き込むことができないか......普通にやるより何か面白いことをしたいんですが、具体的にはまだ研究中です。


新国立劇場・情報誌 ジ・アトレ 6月号掲載

<ごのへ まりえ>

1980年、兵庫県生まれ。早稲田大学第一文学部演劇映像専修卒業。2005年、文学座附属演劇研究所に45期生として入所。2010年、座員昇格。演出助手などとして座内の多数の公演に関わる。2016年文学座アトリエの会、久保田万太郎作『舵』で初演出。ほかに『年あらそい』『三人姉妹』『阿修羅のごとく』などを演出している。演出助手としては『娼年』『食いしん坊万歳! 正岡子規青春狂詩曲』『チック』『坂の上の家』『管理人』『中橋公館』『岸 リトラル』などに参加。新国立劇場では『城塞』の演出助手を務める。演出のほか、戯曲や童話の執筆も手掛ける。



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『どん底』

会場:新国立劇場・小劇場

上演期間:2019年10月3日(木)~20日(日)

作:マクシム・ゴーリキー

翻訳:安達紀子

演出:五戸真理枝

出演:立川三貴 廣田高志 高橋紀恵 瀧内公美 ほか

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