オペラ公演関連ニュース
【インタビュー】『ドンジョヴァンニ』ドンナ・アンナ役 イリーナ・ルング
夜、部屋に忍び込んできた男が、父を刺して逃げた。絶対に許さない─
婚約者ドン・オッターヴィオと共に犯人を探すドンナ・アンナを演じるのはイリーナ・ルング。2017年『椿姫』ヴィオレッタ、21年『ルチア』タイトルロール、23年『シモン・ボッカネグラ』アメーリアを歌ったプリマドンナが、オペラパレスに帰ってくる。
ルングが考えるドンナ・アンナ像、そしてモーツァルトのオペラを歌うことへの思いをうかがった。
クラブ・ジ・アトレ誌1月号より
モーツァルトはドンナ・アンナにドラマの全てを歌わせています
―2023年11月に出演された『シモン・ボッカネグラ』アメーリア役が大好評でした。もうすぐ『ドン・ジョヴァンニ』ドンナ・アンナ役で新国立劇場に帰ってこられますね。
ルング また日本で歌えるのは本当に嬉しいです。新国立劇場ではこれまで『椿姫』『ルチア』『シモン・ボッカネグラ』に出演し、『シモン・ボッカネグラ』の時には息子も同行して、京都の紅葉を一緒に楽しみました。とても美しかったです。息子は日本文化に夢中で、日本食も大好き。私自身もミラノでよく日本料理を作っています。私にとって日本に戻ることは、よく知り親しんだ文化圏に帰るようなものです。ミラノ・スカラ座の日本公演や若い頃のリサイタルも含め、日本にはこれまで6〜7回訪れており、日本の聴衆との深い絆を感じています。
―前回の日本での出演後、ヨーロッパに戻ってからもお忙しかったそうですね。ミラノ・スカラ座で『シモン・ボッカネグラ』や『道化師』のネッダ、そしてカターニャのベッリーニ歌劇場では『ノルマ』のタイトルロールを歌われました。
ルング 『道化師』のネッダと『ノルマ』はどちらも初役でした。カターニャはベッリーニの生地で、市民全員が『ノルマ』をよく知り、劇場のオーケストラはほとんど暗譜で演奏できるほどです。ノルマは声だけでなく感情、演技、深い解釈など、あらゆる能力が求められる非常に難しい役です。私はベッリーニのお墓を訪れ、助けていただけるようお祈りもしました。責任の重いデビューでしたが、初日のアリア「清らかな女神よ」で観客からアンコールを求める声がかかるほど大きな成功となりました。
―2025年6月にはリエージュのワロン王立歌劇場で『フィガロの結婚』伯爵夫人に、10月、11月には北イタリアで『コジ・ファン・トゥッテ』フィオルディリージに出演されました。新国立劇場では『ドン・ジョヴァンニ』ドンナ・アンナを歌われますから、今季はモーツァルト・オペラへの出演も多いですね?
ルング モーツァルトを歌い続けることはオペラ歌手にとって重要です。なぜならモーツァルトを歌う時は技術的にごまかしが効かず、逃げ隠れができないのです。特に様式をきちんと踏まえているかどうかは大事で、その純粋さが問われます。『フィガロの結婚』伯爵夫人はこの役へのデビューでした。今季はモーツァルトをたくさん歌えてとても幸せです。
―ルングさんのドンナ・アンナ役の解釈を教えてください。
ルング 『ドン・ジョヴァンニ』に登場する3人の女性、ドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィーラ、ツェルリーナは、女性の3つの型を表していると考えています。ドンナ・アンナは貴族階級の女性で、ドン・オッターヴィオ、ドン・ジョヴァンニと並ぶ、このオペラの中で最も社会的身分の高いひとりです。私はこの点がドンナ・アンナを読み解く鍵としてとても重要だと思っています。彼女は自分の社会的身分によって抑圧され、決して感情を露わにしません。常に慎み深く、言葉を選び、個人的なことを語らず、より高い「理念」について語らねばならない貴婦人です。エルヴィーラが自分の「情熱」を語るなら、ドンナ・アンナが語るのは「正義」です。声楽的にも音域が高く、歌手にとっては大きな挑戦です。高音域はより高度なコントロールを要求しますが、この「コントロール」という言葉は、正にドンナ・アンナの本質を表しています。彼女は常に自分を抑制し、管理します。彼女の感情の美しさや官能性は抑え込まれた"言外の思い"として立ち現れます。彼女の未解決なトラウマ、誰にも語れない苦悩、それらが彼女がドン・オッターヴィオを含む男性たちに対して情緒的に距離を置く理由とも読み取れるでしょう。
モーツァルトはドンナ・アンナにその苦しみとドラマの全てを歌わせています。ドンナ・アンナはこのオペラの中で唯一、父親を失うという、本当の悲劇を経験する人物です。しかもそれは「殺された父」という決定的な悲劇です。今、お話していて思ったのですが、私が今シーズン歌った伯爵夫人、フィオルディリージとドンナ・アンナに共通する部分は、「尊厳」かもしれません。モーツァルトはこの3人に、苦しみながらも愛する女性、そして誇り高き女性としての「尊厳」を与えています。
私はドンナ・アンナに似ている だから表現したいことがたくさんあるのです
―ドンナ・アンナ役を表現するのは特に難しくありませんか? 彼女は父親を殺したかもしれないドン・ジョヴァンニに惹かれているようにも見えます。
ルング私はドンナ・アンナがドン・ジョヴァンニという人物そのものに惹かれているとは思いません。彼女が惹かれたのは、そうですね......まず、ドンナ・アンナの感情はとても複雑で、「惹かれている」という一言では説明しきれない部分があります。彼女が惹かれたのは、ドン・ジョヴァンニが彼女の殻を破った、その瞬間そのものです。彼女がこれまで生きてきた厳格な秩序を彼が突然打ち破った。その結果、彼女は自分が予想もしなかった官能性─身分から考えて本来ありえないはずの感覚─に直面します。それは彼女を恐れさせますが、同時に本能的な何かを呼び覚まします。この入り混じった感情こそが、彼女を深く動揺させるのだと思います。罪悪感と好奇心。その点、彼女はフィオルディリージと似ています。どちらの女性もエロスを否定しようとしますが、否定すればするほど、内面ではエロスが強く主張を始めるのです。
―とても興味深い考察です。ルングさんの舞台が楽しみです。
ルング 私はこれまでドンナ・エルヴィーラやツェルリーナを歌ったことはないですし、決して歌えないでしょう。私はドンナ・アンナに似たところがあるというか、感情を表に出さないタイプなのです。だからこそ、この役が私の性格や芸術的な資質にとって自然で、表現したいことがたくさんあるのだと思います。
―最後に、歌手という仕事についての質問です。ルングさんは輝かしいキャリアを順調に歩んでいらっしゃいますが、そこにはアーティストという仕事への使命感はありますか? オペラ歌手というのは世界に美を届ける〝文化大使〞のように感じられることがあるのですが。
ルング このような質問を受けたのは初めてです。自分のことを「美を届ける文化大使」などと感じたことはないです。もちろん全ての芸術家は、何らかの形で自らの価値観を伝える職業であり、演劇や音楽、そして人間性の価値をも伝える存在です。でも私の日常は、とても退屈で忍耐を要する「日々の勉強」で成り立っています。発声練習やエクササイズ......。そして、長いキャリアの年月、ずっと集中力を維持し続けねばなりません。役を覚えること、暗譜は特に大変で、昨年からは新しい役のデビューが重なったので苦労しました。自分の楽器を常に良い状態に保ち、技術を磨き、表現力を磨き続ける。私は観客に最良のものをお届けするための責任を感じているだけです。これら全てが相まって、おそらく私たちは何かを伝える者となっているのでしょう。私の使命は自分自身に負けずに、この道を進み続けることだけです。それから自分の仕事を愛すること。私は歌わずにはいられないんです。大変なことが多いので、愛していなければ22年も続けられる仕事ではありませんから(笑)。
―素晴らしいです。最後に日本のオペラ・ファンへメッセージをお願いします。
ルング 今回の公演で共演する方々と一緒に、最良の公演を作り上げたいです。皆様に会えるのを楽しみにしています。
イリーナ・ルング Irina LUNGU
ロシア出身。ミラノ・スカラ座アカデミー在籍中にリッカルド・ムーティによりミラノ・スカラ座2003/04シーズン開幕公演『モイーズとファラオン』アナイ役に抜擢され、同劇場で『愛の妙薬』アディーナ、『マリア・ストゥアルダ』タイトルロールなどに出演。ミラノ・スカラ座の『椿姫』ヴィオレッタは07年にデビュー後、08年、13年にも出演している。瞬く間に世界のオペラ界の主要アーティストとなり、パルマ王立歌劇場、ローマ歌劇場、ヴェローナ音楽祭、トリノ王立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場、パリ・オペラ座、フェニーチェ歌劇場などに出演。最近のロールデビューに、新国立劇場及びミラノ・スカラ座で『シモン・ボッカネグラ』アメーリア、スカラ座『道化師』ネッダ、チューリヒ歌劇場『海賊』イモージェネ、『ファルスタッフ』アリーチェがある。またスカラ座『ラ・ボエーム』ムゼッタ/ミミ、チューリヒ歌劇場『イタリアのトルコ人』フィオリッラ、『ルチア』タイトルロール、ベルリン州立歌劇場『椿姫』ヴィオレッタ、『リゴレット』ジルダ、フィレンツェ歌劇場『ファルスタッフ』アリーチェなどに出演している。新国立劇場では17年『椿姫』ヴィオレッタ、21年『ルチア』タイトルロール、23年『シモン・ボッカネグラ』アメーリアに出演した。
- 新国立劇場HOME
- オペラ公演関連ニュース
-
【インタビュー】『ドンジョヴァンニ』ドンナ・アンナ役 イリーナ・ルング