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アレクサンドル・プーシキンと史劇『ボリス・ゴドゥノフ』


実在のツァーリ(皇帝)をめぐる騒動を描く歴史オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』。

その原作は、ロシアの国民詩人、アレクサンドル・プーシキンの戯曲だ。

プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』のユニークさとは、そして、ボリス・ゴドゥノフとはどのような皇帝だったのか。

原作と史実から『ボリス・ゴドゥノフ』を読み解こう。

文◎鳥山祐介(ロシア文学・文化史)

ジ・アトレ誌8月号より

 ロシア文化を理解する上でアレクサンドル・プーシキン(1799~1837)の存在は避けて通れない。彼は英国のシェイクスピア、ドイツのゲーテのような地位をロシアで占める「国民詩人」であり、多くの文学者の中でも別格の扱いを受けている。代表作としては『エヴゲニー・オネーギン』『ルスランとリュドミラ』『スペードの女王』『青銅の騎士』『大尉の娘』などが知られ、抒情詩の多くは今もロシア人に暗唱される。同時に彼は「近代ロシア文章語の確立者」ともされ、古語や口語、外来語などの要素を幅広く溶け込ませたその清新な言語は、やがてロシア語の書き言葉の規範となった。

 『ボリス・ゴドゥノフ』は、「小悲劇」と呼ばれるごく短い作品群(『モーツァルトとサリエリ』など)を除けば、プーシキンが生涯に完成させた唯一の戯曲である。ロシア史上の危機の時代に題材をとり、当時の劇作法の規範を大胆に無視したこの戯曲は、新しいロシア演劇の創造をめざす詩人の意気込みの産物であった。

創作から刊行までのいきさつ

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プーシキンの自画像

 プーシキンがこの戯曲の執筆に取りかかったのは1824年11~12月、領地ミハイロフスコエにおいてであった。創作の直接のきっかけは、以前より読書界に大反響を呼んでいたニコライ・カラムジンの『ロシア国家史』の第10~11巻がこの年に刊行され、そこで語られた皇帝ボリスや僭称者の物語に詩人が強く印象づけられたことである。原稿は1825年11月に完成し、『皇帝ボリスとグリーシカ・オトレーピエフについての喜劇』と題された(「喜劇(コメディヤ)」は芝居全般を指す古い用法を踏襲した表現)。1826年秋にプーシキンは訪問先のモスクワで友人達を前に本作を朗読し、好評を得た。

 詩人を驚かせたのは、皇帝官房第3課(政治秘密警察)長官アレクサンドル・ベンケンドルフより、印刷前の原稿を朗読した事実について照会され、原稿の提出を求められたことである。原稿提出後、第3課で作成された資料に基づく皇帝ニコライ1世の所見(「私が思うに、必要な修正を施した上で喜劇をウォルター・スコット風の小説に書き直していれば、プーシキン氏の目的は達せられたことであろう」)がプーシキンに伝えられる。彼が修正を拒否したことで作品全体を刊行する望みはいったん失われ、いくつかの場面のみが断片的に発表された。1829年には意を決して修正原稿を提出したが、刊行の許可は得られない。しかし翌年、再度ベンケンドルフに訴えたところ皇帝より「個人的責任において刊行する」許可が得られ、本作は『ボリス・ゴドゥノフ』と題され1830年12月にようやく出版された。

史実の中のボリス・ゴドゥノフ

 伝説上のロシア国家の起源に端を発するリューリク朝の断絶(1598)から、ロマノフ朝の成立(1613)までの15年間を、ロシア史では「動乱時代」と呼ぶ。真の皇帝を名乗る僭称者が次々と現れた政治的混乱期であり、一時はモスクワがポーランドに占領された。プーシキンの戯曲が描くのはその初期段階、1598年のボリスの皇帝選出から彼の治世末期の1603~05年までである。

 ボリスは名門貴族の出身ではなく、先祖はタタール人ともされる。イワン雷帝の寵臣マリュータ・スクラートフの娘との結婚を機に頭角を現し、やがて妹の夫で雷帝の三男であったフョードルが皇帝になると、摂政として国政を司った。フョードルの死をうけて、彼はリューリク朝出身ではない、貴族らの選挙で選ばれたロシア史上初の皇帝となった。君主として開明的な面もあったが、その治世は飢饉や疫病に見舞われ、民衆の暴動も広がった。

 帝位を狙ったボリスの指令によるドミトリー皇子暗殺説については現在では否定的な論者が多いが、プーシキンの時代にも既に疑念があった。もっともロマノフ王朝とロシア正教会(ドミトリーを聖人としていた)はボリスによる暗殺説を支持しており、カラムジンやプーシキンもそれに倣っている。なお当時の時代背景の下では、選挙で選ばれて君主の地位を得る成り上がり者という物語はナポレオンを容易に想起させ、保守派に歓迎される面もあった。

プーシキンの『ボリス』の新しさ

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イリヤ・レーピン「イワン雷帝の前のボリス・ゴドゥノフ」(1860年代)

 ロシア史に取材した戯曲は18世紀よりたびたび作られた。特にポーランド軍が最終的にモスクワから敗退する動乱時代の主題は、ナポレオン戦争以降に好まれるようになった。ボリス・ゴドゥノフの物語もカラムジンの著作を機に広い関心を呼んでいた。

 一方で無視できないのは、当時の文芸がジャンルや文体、形式の問題をきわめて重視していたことである。史劇『ボリス・ゴドゥノフ』は、荘重な内容の史劇でありながら古典主義演劇の三一致の法則や5幕形式を退け、番号がなく内容的に連続しない22の場から成る自由な構成をとっていた(皇帝官房第3課でも「まとまりのない作品」と評された)。これは古典主義という「(フランス起源の)国際標準」の拒絶であり、ロシア演劇の刷新に向けた詩人の意欲を示している。

 さらに、この戯曲の創作にあたり範とした先人として、詩人自身がカラムジンとともに名を挙げたのがシェイクスピアであった。悲劇性と喜劇性の共存、無韻の五脚の弱強格を基本とした韻文と散文の混交、多面的な人格描写などには、古典主義からの離反と同時にシェイクスピアへの接近を見ることができる。

「民衆は沈黙している」

 この作品に関する評では、しばしば民衆の積極的な役割が強調されてきた。戯曲の刊行版ではそれまでの原稿にあった多くの箇所が削除、改変されたが、ここで注目されるのは幕切れである。ボリスの死後、僭称者の支配が始まったモスクワのゴドゥノフ邸前で、ボリスの妻と息子の死を告げられ恐怖で沈黙する民衆に対し、貴族が「なぜ黙っている? 叫ぶんだ、皇帝ドミトリー・イワーノヴィチ万歳!」と煽る。1825年と29年の原稿では、民衆がこの万歳の声を反復して戯曲全体が締めくくられていた。しかし刊行版では、この反復の代わりに「民衆は沈黙している」というト書きが置かれている。

 この表現の下敷きとされるカラムジンの文言やフランス革命の指導者ミラボー伯が憲法制定議会で発した言葉「民衆の沈黙は王への教訓である」からして、沈黙を抵抗の印とする解釈が意識されていたことは確かである。一方、偽ドミトリーの勝利を「民衆の意見」が支えたことも、登場人物の1人である詩人の先祖ガヴリーラ・プーシキンの台詞を通して示される。信念の一貫しない民衆を詩人は必ずしも理想化していない。悪の黙認としても機能しうる沈黙についても、ここでは多様な解釈が可能だろう。



 史劇『ボリス・ゴドゥノフ』は刊行後も1866年まで舞台上演が許されず、1870年にサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場でようやく初演された。とはいえこの作品への権力の警戒は止まない。1982年にはモスクワのタガンカ劇場のユーリー・リュビーモフの現代批判を意識した演出による上演がソ連文化省に禁じられ、ペレストロイカ期の1988年まで初演が叶わなかった。ロシア政治の闇、血で汚れた権力者の手、ロシアと「西側」、そして民衆の沈黙といった本作の内容が、折に触れロシアのアクチュアルな現実に重ねられたのは無理からぬことである。ロシアの歴史が新たな段階に入った今、この「国民劇」はどう読まれるのだろうか。




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