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忘れられればそれで幸せ 『こうもり』――慰めのスローワルツ


文◎小宮正安

ジ・アトレ12月号より




能天気な理論の歌

2018年公演より

 「忘れられればそれで幸せ、どうしようもないことならば」。......世の中がイケイケどんどんの上り坂にあるとすれば、何とも後ろ向きに聞こえる台詞かもしれない。だが、本当にどうしようもない状況に置かれているのなら、そこには深い慰めが満ちているとはいえないか?

 何とも能天気な理屈というものだろう。だがこれは、『こうもり』の初演に集まってきた観客の心には、震えるような感銘をもたらしたにちがいない。なぜかといえば、彼ら自身がどうしようもない状況に置かれていたから。しかも一見眩い繁栄の直後、どん底に突き落とされるような体験を余儀なくされたから。



ウィーン万博、開幕!

2018年公演より

 『こうもり』が初演されたのは、1874年4月のこと。それに遡る1年前から、話を進めよう。1873年、それはオーストリア=ハンガリー帝国の都ウィーンにとって、輝ける年となるはずだった。1850年代半ば以降続けられてきたウィーンの都市改造工事が一段落し、その仕上げとしてウィーン万国博覧会が開催される運びとなったからである。

 万博を開催する......それは昔も今も、開催地である街に、さらにはその街を擁している国にとって、きわめて輝かしい行為だった。とりわけ当時の世界において万博とは、開催国の威信を国際的に発信するために欠かせない大イヴェントであって、開催国もヨーロッパの二大強国であったイギリスとフランスのどちらか、と相場が決まっていた。

 そこに、これらの国に負けじと参戦したのが、伝統と格式に裏打ちされた名門貴族ハプスブルク家の支配する巨大帝国だった。近代都市に生まれ変わったウィーンを各地から集った人々に見てもらい、オーストリア=ハンガリー帝国の凄さを国際的にアピールしようという算段だった。



問題だらけの大帝国で

 実のところ、麗々しい名称にもかかわらず、当時のオーストリア=ハンガリー帝国は様々な問題を抱えていた。(またそれゆえ、いきおいイギリスやフランスの後塵を拝さなければならなかった。) たとえば内政。ハプスブルク家はオーストリアをお膝元としながら、中央ヨーロッパに巨大な領土を持っていた。だがそれが災いし、19世紀も半ばを過ぎると各地で、独立を求める民族運動が高まり始める。結果、その動きがもっとも激しかったハンガリーの主権を認めることで、オーストリア=ハンガリー帝国なる国を誕生させたものの、今度はハンガリー以外の地域から、えこひいきだという批判が上がる。

 あるいは外交。オーストリアは、伝統的にドイツ語圏の諸国の中でも力があり、この地域全体に隠然たる影響力を及ぼしていた。ところがやはり19世紀半ば以降、分裂状態にあったドイツに統一国家を作ろうという動きが高まる中、その主導権をめぐってドイツ語圏北東部のプロイセンと一戦を交えるまでになる。結果はプロイセンの圧勝。以降、オーストリアはドイツ統一の動きからも締め出されてしまった。



帝都ウィーンの光と影

2018年公演より

 そんな袋小路に陥った状況の中で、起死回生策として打ち出されたのが、帝都ウィーンの大改造だった。音頭をとったのは、当時のハプスブルク家の当主であり、巨大帝国の君主でもあったフランツ=ヨーゼフ。彼の有無を言わせぬイニシアティヴの下、ウィーンはロンドンやパリと肩を並べるような近代都市に急成長を遂げた。

 その総仕上げともいえるイヴェントが1873年に開催された万博となるわけだが、ここで思いもかけない問題が持ち上がる。それこそが、コレラの流行。ウィーンの水質事情が悪かったがゆえに起きた感染症である。

 当時のウィーンでは、都市改造工事のお蔭で古い城壁が壊された。そしてその跡に、路面馬車が走りガス灯が灯り、宮殿もかくやという豪華な建物が立ち並ぶ街が誕生した。ただしそれは、貴族をはじめとする昔ながらの特権階級や、金持ちの市民階級が住む中心街とその周辺部分に限られていた。中心街の外側、つまり場末に行けば行くほど、経済格差が深刻さを増す......。感染症は狙いを定めたかのように、そうした地域に広まった。



株価暴落の衝撃

2018年公演より

 しかも5月1日に万博が華々しくスタートした数日後、さらなる大事件が起きた。株価の暴落である。

 それまでの十数年間、都市改造工事が進んでいたウィーンでは、投資をおこなえばおこなうほど懐が豊かになる、という状況が当たり前になっていた。ところが当の工事が一段落し、経済成長のスピードが鈍る中、従来と同じような投資が続けばひとたまりもない。ウィーン改造事業の一環として建てられた真新しい証券取引場では、一夜にして貴重な証券が紙くず同然となった。それまで、都市改造に伴う好景気を追い風に左団扇で暮らしてきた投資家─―その中には裕福な市民階級も数多く含まれていた─―の中には、自殺をする者も出てくる。

 こうして、本来であれば大いに活気づくはずだった1873年のウィーンは、重苦しい空気に包まれてしまった。しかも万博への期待があたら大きかったゆえ、その反動が逆に出た恰好である。文字通りの「どうしようもないこと」が、まさしく現実問題となって、落日の中にあったオーストリアの都に覆いかぶさった瞬間だ。



『こうもり』の知恵

 そうした中で発表されたのが、ヨハン・シュトラウスⅡ世の『こうもり』である。ダンス音楽家として名声を築いた彼が、音楽劇作曲家に転身してから放った3番目の作品にして、現代も繰り返し上演される大ヒット作。

 その秘密は、千変万化のダンス音楽を下敷きとした魅力的な楽想だけではない。どうしようもない状況に置かれた人々を前に、彼らにそっと寄り添う内容が、観客の心を掴んだ。しかもその場面で用いられるのは、やるせない甘さに満ちたスローワルツ......。

 19世紀後半、国内外の問題を前に意気消沈していたウィーンと同様、コロナ禍に見舞われた日本にもまた、不安と疲労の中ですべてを忘れたいという思いが広がっている。だからこそ、そうした中で『こうもり』が上演されること、またそれを体験することの意味は果てしなく大きい。

 その時、私たちの心にはきっと響く。楽しさの奥底に忍ばされた慰めと、どうしようもない状況を前に生きてゆくための秘かな方策が。またこれぞ、『こうもり』に具わった大いなる知恵なのだ。




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