特別イベント「能とオペラ -『松風』をめぐって-」が開催されました

1月10日(水)、国立能楽堂にて、「能とオペラ -『松風』をめぐって-」が開催されました。細川俊夫作曲のオペラ「松風」の日本初演を前に、本作の基盤となった能「松風」の実演と、能とオペラ双方の関係者による座談会により、双方の「松風」の魅力を探りました。

はじめに、宮本圭造さん(野上記念法政大学能楽研究所教授)により、能と「松風」についての基本的な説明がありました。そして、宮本さんの解説を交えながら、能楽師の観世銕之丞さんらによる、能面や衣装を付けない形での略式上演により、能「松風」の中から「汐汲の段」「狂乱の段」をご覧いただきました。

 

◎能「松風」実演

汐汲の段 シテ(松風):観世銕之丞

宮本:能舞台は、本舞台と橋掛り*という2つの部分から成っています。この構造は600年以上前からほとんど変わっていません。橋掛りは、登場人物の移動のためにあります。例えば能「松風」は、僧侶が都から西国に移動する場面から始まりますが、この移動は何のためにあるのかというと、多くの場合、異界の存在と出会うためです。能は、異界との出会いというのが重要なテーマです。したがって、能の登場人物の多くは、神、鬼、幽霊といった異界のもの、通常目に見えない存在です。つまり、この橋掛りというのは、この世とあの世を結ぶ橋であるとご理解いただければと思います。

*橋掛り...本舞台から伸びる廊下の形をした部分で、登場・退場だけでなく、演技空間としても使われる。

能「松風」は、主人公の幽霊が過去を回想するという物語です。とはいえ、物語の中では、これが現実なのか夢なのか、あるいは現在なのか過去なのか、その境界が非常に曖昧に描かれており、この点が能の独特の世界観と言っても良いと思います。能「松風」の主人公は、松風・村雨という2人の海女ですが、彼女たちは、在原行平(有名な在原業平の兄)に対する恋慕の情が死後に因縁となり、未だに成仏できず、幽霊となって現世を彷徨っているという設定です。物語の前半、海女として登場した彼女たちが、作品の舞台である須磨(今の神戸市須磨区付近)で汐を汲むという、情緒豊かな場面をまずご覧いただきたいと思います。

 

能「松風」は世阿弥の作ですが、実は世阿弥が一から作り上げたのではなく、先行する様々な作品が取り込まれているため、見せ場がたくさんあります。前半の見せ場が汐汲、後半の見せ場がこれからご覧いただく狂乱の場面です。見せ場が多いと焦点がぼやけてしまう可能性がありますが、世阿弥は、「松風」について、「事多き能(見どころの多い能)」ではあるけれども、1つの統一された作品として完成していると述べています。

 

汐汲の場面の後、僧が松風と村雨に一夜の宿を借ります。僧とのやりとりの中で、松風と村雨は次第に心を開き、自分たちがかつて行平の恋人であったということを物語ります。そして行平がかつて身にまとっていた衣と烏帽子を身に着け、追慕の舞を舞ううちに狂乱状態に陥るというのが後半の場面です。ところが、幽霊ですから夜が明けると消えていきます。この結末部分の文章が非常に印象的です。

 

暇(いとま)申して、帰る波の音の、須磨の浦かけて吹くや後ろの山颪(やまおろし)、関路の鳥も声々に、夢も跡なく夜も明けて、村雨と聞きしも今朝(けさ)見れば、松風ばかりや残るらん、松風ばかりや残るらん。

狂乱の段 シテ(松風):観世銕之丞

「松風」「村雨」というのは主人公の名前ですが、「松風」というのは風の音、「村雨」というのは雨の音をも意味します。2人の姿が消えて、村雨と聞こえていたのは実は松風の音で、後には松風だけが聞こえてくるという場面です。オペラ「松風」では、この場面が非常に印象的に音として表現されています。オペラでは、作品を通じて様々な自然の音が流れていますけれども、この印象的な詞章が様々な形で細川さんにインスピレーションを与えたのではないでしょうか。

 

◎座談会

その後、宮本さん、観世銕之丞さんに加え、細川俊夫さん(オペラ「松風」作曲者)、柿木伸之さん(『細川俊夫 音楽を語る』訳者)を舞台に迎え、4名による座談会が行われました。能とオペラ双方の「松風」について、また、オペラ「松風」の内容について、映像の一部をご覧いただきながら、話が展開していきました。

(写真左より)宮本圭造、観世銕之丞、細川俊夫、柿木伸之

――オペラ「松風」誕生の経緯

宮本:銕之丞先生、先ほどは素晴らしい舞囃子、ありがとうございました。細川さん、今回の能「松風」はいかがでしたか。

細川:大変気品があって素晴らしく、音楽的に見てどこにも付け加えることのない、完成された作品であり、様式的にも優れていると感じました。

宮本:銕之丞先生はこれまで、オペラ、あるいは現代音楽とのコラボレーションというのは経験されましたか。

銕之丞:数年前、東京文化会館で、黛敏郎さんの「古事記」というオペラに、語り部という形で能の謡と言葉で参加させていただくことがありました。また、武満徹さんの「水の曲」をここ国立能楽堂の舞台で舞わせていただいたことがあります。

宮本:能とオペラのコラボレーションは、特に最近は盛んになされていますね。細川さんはこれまでにも能に基づく作品を多く発表されています。そもそも作曲活動の早い段階から能との出会いがあったのでしょうか。

細川:そうですね。僕は西洋音楽、特にヨーロッパの音楽のかなり新しいシーンにいたのですが、そのような世界でも能というのは非常に高い評価を受けています。新しい音楽を作っていく上で、能の本質的なものを何か自分の音楽に活かしたいと常に思っておりましたので、能をテーマにしたオペラをいくつか書きました。

宮本:今回の「松風」ですが、能の台本を読みますと、細川さんの音楽に非常に相通ずる点があるように思います。かなり早い段階から、「松風」をオペラにしてみたいという思いをお持ちだったのでしょうか。

細川:そうですね。ただ、能「松風」というのは非常に完成された作品で、外形的・表面的に模倣をしても全く意味がないと思いました。ですので、全く違った世界の演出家の方と一緒に作るのであれば、この作品に手を付けられるかなと思いました。

細川俊夫

まず、「松風」のどのような点に惹かれたかと申しますと、能「松風」では、あの世からこの世に橋掛りを通じて悲しみを持った女性がやってきて、囚われている煩悩・妄執を僧に語り、歌い、舞うことで、妄執から解放され、橋掛りからまたあの世に帰っていきます。この話がとても素晴らしいと思いました。現代人も様々な魂の問題を抱えており、囚われから解放されたいと思っている。そのために能やオペラといった演劇があるのだと思うのです。

 

――能の美しさをオペラに活かす

細川:能に関して僕が素晴らしいと思うのは、演者が子供のころから訓練されていて、その身体性、謡、言葉、これらが一つの様式の中でしっかりと一体化して非常に美しいという点です。オペラ歌手の場合、歌う際の身体性、身振りがさほど重要視されていないというか、演技がリアリズム的なものになってしまう。オペラの素晴らしい作品や演出はたくさんありますけれども、歌手の歌い方や身振りが僕にはどうしても耐えられなくて(笑)、そういうものとは違うオペラを作りたいと思いました。今回、演出・振付のサシャ・ヴァルツは僕のこの考えを理解してくれて、歌手に厳しい訓練をしてくれました。もちろんダンスなので動き回りますが、少なくともステレオタイプなオペラ歌手の歌い方(身振り)というのはありません。

能の橋掛りは、この世とあの世を結ぶ、いわば夢のトンネルです。このトンネルを通って登場人物がやってきて、また帰っていく。実は、私たちの心の中の世界には過去もあるし、夢もある。演劇体験・音楽体験を通じ、私たちが生きている本当の場所をもっと深く感じていただく。そのためにこういう劇場空間にいらっしゃるのだと思います。ですので、お客様にも、橋掛りというか、夢の橋を渡っていただきたい。それがこの「松風」という作品では可能なのではないかと思っています。

柿木:能とオペラには、時間的な流れ、歌によってドラマが運ばれていくという点で通底するものがあります。一方で、能は、空間的な身体表現が歌と緊密に結びついて完成された象徴的な様式を持っているという点で、オペラとは異なっています。また、オペラは、基本的には現世の人間の生きざまを音楽のあらゆる要素を駆使して描きますので、死者の登場というのはオペラ自体の本質的な要素ではありません。これに対して能は、舞台の橋掛りが示すように、それ自体として彼岸と此岸を橋渡しする歌舞劇ですから、しばしば死者を登場させます。このような能の精神を現代に生かすかたちで創られたオペラ「松風」では、観客である私たちが、心の中の橋掛りでもって彼岸と此岸を行き来するような体験すらできます。そのような体験の場を開くという意図をもって、細川さんはこの作品を作曲されたのだと、私も理解しています。

宮本:作品を拝見しますと、能の深い世界観が非常によく活かされているように感じます。例えば、能の場合には地謡*があり、ある時は人格を持ち、またある時には人格を持たない、不思議な存在として劇の進行に関わってきます。細川さんは、今回のオペラ「松風」の中で、コーラスをどういう位置づけでとらえていらっしゃいますか。

*地謡(じうたい)...ナレーター役として物語の筋を運び、説明や描写をしたり、人物の気持ちを代弁したりする、8人構成を基本とする一種のコーラス。

細川:オペラの冒頭、コーラスの人々は息で風の音を表現します。「松」と「風」ですから、風の音は作品を通じて常にあります。先ほど銕之丞先生が実演なさった箇所ですが、「松」である行平に向かって「風」である女性がまとわりつき、男女の混合が行われる。そういうイメージを持っています。音楽の素晴らしい点は、存在が響きになることによって、他のものと交わることができるという点です。歌うことによって、風の音にも海の音にもなることができる。人間同士が結びつくことが不可能な場合であっても、歌うことによって一体化し、エクスタシーを体験することができます。人間が松になり、風になり、最後には松風だけが残る。その時、常にコーラスの存在があります。コーラスは、自然の響きそのものを表現する存在として描いています。

 

――陰と陽の調和 松風と村雨

宮本:銕之丞先生にお聞きします。能という演劇では、イメージが重層的に重なり合っていきますね。例えば、能の「松風」というタイトルにしても、「松」というのは、松の木もあれば、行平を待ち望むという意味も重ねられています。このような重層的なイメージを、演者の方はどのように意識されているのでしょうか。

観世銕之丞

銕之丞:そうですね。「松風」はそういったことがとても多い曲です。2人の女性が出てきて、何かの到来を待っているけれども、来ない。そして自分たちの中に行平のイメージを作り出してしまう。松風と村雨の姉妹の中の表と裏、月というものを介在として、姉の情熱的な部分と、妹のクールだけれども内に秘めた熱いものが錯綜してくる、そういった部分が「松風」の面白い点だと思います。こういった抽象的な芸術の良いところは、お客様が、それぞれの待っている人を重ね合わせることができるという点ではないでしょうか。100人いたら100人の「松風」ができるのだと思います。

「待つ」ということで言うと、昔、僕と父が「松風」を演じた時、評論家の方に、この作品はサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」と同じ構造を持っていると書かれたことがあります。その当時はよくわかりませんでしたが、何度も演じているうちに、「松風」の特に前半には、‟何かの到来をずっと待っているけど来ない"というモチーフがあるのだなと思うようになりました。

宮本:能「松風」は、元々は「松風村雨」というタイトルでした。行平の恋人は本来1人で良かったところを2人にしているというのが面白い点です。陰と陽、あるいは理性と感情、1つの個性をそういった2つの要素を存在として分けている。細川さんは、この対立を音楽的にどのように活かされましたか。

細川:僕の作曲原理の中にはいつも陰と陽というのがあります。光と影、男性と女性、そういった2つの要素がお互い対立することなく、ハーモニーを見つけて、音楽的宇宙を構成する、そういったことをずっと意識していました。この松風と村雨の場合、1人の女性の内面の陰と陽という風に考えて作曲しています。ですから、女性が2人出てきますが、本当は1人です。1人の女性が違う歌を歌う、そのように考えていただけたらと思います。

 

――オペラ「松風」欧州での受け止められ方

宮本:柿木さんは、細川さんのオペラの海外での上演も多くご覧になっているそうですね。海外の方が能を基にしたオペラをご覧になられるとき、どのように受け止められているのでしょうか。

柿木:「松風」に関しては、サシャ・ヴァルツのプロダクションをベルリンで2011年の夏に拝見しております。その後、この作品はベルリンで再演を繰り返していますが、毎回早期完売となっています。そのことは、この作品が全く新しいオペラの地平を開いた、すなわち、まさに能の精神から空間的な身体表現と時間的な持続を総合した新しい舞台の可能性を切り開いたという点で広く受け入れられていることを示しています。ヨーロッパの聴衆は、音楽と舞踊が結びつきながら、舞台上では不可視のものを象徴的に表現している点に惹かれたようです。特に「松風」のサシャ・ヴァルツのプロダクションについては、能を知らずに見ている方もいらっしゃると思いますが、私たちからすれば能と通底するものを直観的に感じ取りながら、この作品を歓迎しているという感触をもっています。

柿木伸之

――聴こえてくるもの 聴こえてこないもの

細川:塩田千春さんの舞台装置は、汐汲の場面では、大きな網のようなものが用いられています。この装置については、様々な解釈ができると思いますが、僕は、人間の持っている色々な執着をこの網で表現していて、その中から松風と村雨が登場する、そんな印象を抱いています。

宮本:リブレットを拝見すると、「腐れゆく」といった表現が出てきて、死のイメージが散りばめられているように感じます。

細川:そうですね。音楽では、死というのは沈黙です。聴こえてくるものと聴こえてこないものがあります。音楽を聴きながら、聴こえてこないものを想像する、それが正しい聴き方であると思っています。能でも、鼓が鳴る前の間というのが非常に緊迫感を持った存在として表れており、そのインターバルが長ければ長いほど、その後の音が力強くなります。あるものだけではなく、ないものにも想像をめぐらせるということが、こういった音楽の楽しみ方だと思っています。

 

宮本圭造

――これからの能について、オペラについて

宮本:新国立劇場は、近年は保守的なレパートリーを繰り返している印象があります。これは何も劇場側だけの問題ではなく、観客の問題でもあると思います。細川さんのオペラが日本でこれからもどんどん上演されていくには、観客の力も大きく関わっているものと思います。

銕之丞:能を上演する際にも、「分かりにくいから見るのが嫌だ」という声を聴くことがあります。我々演者も分かりやすくする努力はしますが、あまり分かりやすくしすぎると、今度は、能の持っている芸術性・音楽性が損なわれてしまう危険性があります。分からなかったときでも、どこか好きな点を見つけていただいて、なぜ分からなかったのかを考えていただきたいですね。能であっても現代オペラであっても、芸術の持っている抽象的なメッセージを消化していただく、そういうことに意味があると思っています。

細川:オペラで面白いのは、歌手、指揮者、演出家など、様々な立場の共同作業であるということです。これらの力が一体化した時に、作曲家が考えていた以上の世界が展開していきます。これは作曲家としては非常に嬉しいものです。オペラの世界では、作曲家は大体死んでおりますので、あまり大事にされていません(笑)。僕は、これからもどんな演出にも耐えられるような素晴らしい音楽を書きたいと思っています。皆様には、これからもぜひ新しいオペラを見ていただきたいです。

柿木:一見何だか分からないもの、分かりにくいものに積極的に飛び込んで、それを自分のなかで深めていける人間を育てることと、そのような若い人が飛び込んでいけるような文化を育むことの両方が大事でしょう。例えば、ベルリンのオペラハウスでは、工房とも言うべき小さなスペースを使って、現代の作曲家の作品を積極的に取り上げていて、そこには若い人たちが集まっていました。日本でも似たような試みが、それこそ現代芸術と伝統芸能を橋渡しするようなかたちで継続されることが、オペラに限らず芸術全般にとって重要であると思います。これからの実験的な試みに期待しています。

 

宮本:本日はありがとうございました。

 

 

オペラ「松風」は2月16日(金)から18日(日)まで。17日(土)の公演後には細川俊夫さん、演出・振付のサシャ・ヴァルツさんによるアフタートークが行われます。他の日程のチケットをお持ちの方も、ご来場いただけます。皆様のご来場、お待ちしております。

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(外部リンク:日本芸術文化振興会「能楽への誘い」)