飯守オペラ芸術監督が任期の最後にタクトを執り、ワーグナーの曽孫でバイロイト音楽祭総監督のカタリーナ・ワーグナーが演出する、新国立劇場開場20周年記念特別公演『フィデリオ』。
政敵フロレスタンを国事犯に仕立て上げ、監獄に幽閉し、処刑しようとする監獄所長ドン・ピツァロを演じるのは、ミヒャエル・クプファー=ラデツキーだ。
悪役ドン・ピツァロこそ『フィデリオ』の推進力となる役だと語る彼に、ベートーヴェン唯一のオペラ『フィデリオ』の魅力をうかがった。

<ジ・アトレ2018年5月号より>

ミヒャエル・クプファー=ラデツキー

クプファー=ラデツキーさんは、17歳のときに音楽に関心を持つきっかけがあったそうですね。ぜひその時のことを教えてください。

クプファー=ラデツキー(以下K) それはつまり、私がなぜオペラ歌手になったかということですが、17歳のときに学校の旅行で、当時の東ドイツに行き、ユースホステルに泊まりました。そこのシャワー室の残響がものすごかったのですが、シャワーを浴びながら歌っていた私の声を聴いた引率の先生が、旅行から帰ってきたのち、声楽のレッスンを受けるようにと取り計らってくれたのです。当時オペラに興味があったわけではないのですが、まあ一度やってみようかと、軽い気持ちでレッスンに行ってみました。その後すぐに、音楽を専門には勉強していない学生のためのコンクールがあって、第1位になりました。本当は俳優になりたかったのですが、歌でもいけることが分かりましたので、その両方を合わせたオペラ歌手になろうと思ったわけです。

その後、ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院に進学されたのですね。

K その前に職業学校で運送会社のマネージャーになる勉強をしてから、モーツァルテウム音楽院に進学しました。でも2年間しか在籍していません。というのは、声楽の授業を週2.5時間しか受けることができず、その他の一般教養を週20~25時間も学ばなければならなかったのです。授業が役立つとは思えなかったので退学してミュンヘンに行き、プライベートで声楽のレッスンを毎日受けました。その後バイエルン州立歌劇場のオペラ・スタジオに入りました。私は理論よりも実践を重んじてきたのです。

『サロメ』のヨハナーン、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のハンス・ザックス、「ニーベルングの指環」のヴォータンなどが主要なレパートリーだと思いますが、若い頃はリリックなカヴァリエ・バリトンだったそうですね。

K 私の声はリリックでとても高かったのですよ。若い頃はドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』のペレアスなどを歌っていました。年齢と共にだんだん低い音域になり、10年ほど前から指導者の助言のもと、現在のようなレパートリーを歌うようになりました。私の声は全く無理することなく、うまく機能しています。

世界の歌劇場から引っ張りだこのクプファー=ラデツキーさんですが、現在の活躍のきっかけとなった公演は?

K 今のレパートリーのような、いわゆるドラマチックな役のきっかけとなったのは、2013年、ストックホルムのスウェーデン王立歌劇場での『サロメ』のヨハナーンです。このときヨハナーンを初めて歌ったのですが、私の声がこの役に向いていて、国際的水準の声であると分かりました。その約1年後にはハンス・ザックスを歌い、これらのレパートリーが私の今後の道と確信できました。確かにキーポイントとなったのは、ストックホルムでのヨハナーンでした。

5月には新国立劇場で『フィデリオ』にご出演いただきます。『フィデリオ』の魅力とは何でしょう。また、昨年のドレスデン音楽祭で『フィデリオ』の改訂前の『レオノーレ』に出演されたそうですね。

K ええ、『レオノーレ』初稿版(1805年)を、昨年ドレスデンで歌うことができました。『レオノーレ』と『フィデリオ』には大きな違いがありまして、全く音楽が異なる部分もあります。『レオノーレ』を歌ってみて、ベートーヴェンがどのように『フィデリオ』まで発展させていったかがよく分かり、とても興味深かったです。
『フィデリオ』の魅力は、まずなんといってもベートーヴェンの音楽の素晴らしさです。ベートーヴェンは音楽に、そして登場人物の内容に啓蒙的な意味を持たせ、人間の徳、人間性、人間同士の関係を、緊張感を持って深く表現しています。
私は悪役を歌うのが結構好きなのですが、ドン・ピツァロはある意味でかわいそうな役まわりだと思っています。3人の男性役――フロレスタン、ドン・ピツァロ、ドン・フェルナンドは、以前は緊密な関係にあった人たちです。それがある事情からドン・ピツァロは別の反応をして他の2と敵対し、その結果、悪役は負けて去る運命となります。

ドン・ピツァロという人物について、聴衆に特に注目してもらいたいポイントとは?

K 聴衆の皆様からみて興味深いと思われるのは、ドン・ピツァロが、真に悪役らしく見えることだと思います。しかしこの役の立場に立ってみれば、彼はとても共感できる人物です。彼の歌う音楽は意地悪い感じで、ドラマチックで力強く支配的ですが、私が思うに、『フィデリオ』の登場人物の中でドン・ピツァロのみが、本当にキャラクターのある人物なのです。と言うのは、レオノーレのモチベーションは“愛”のみで、フロレスタンは諦めの境地。ロッコはその場を無難に取り繕うだけの人で、マルツェリーネとジャキーノは彼の手下。となると、ストーリーを進める真に強いキャラクターを持つのはドン・ピツァロだけです。そんな悪役の彼をポジティヴに見てみると、とても緊張感をもってオペラをご覧いただけると思います。人は悪を行い、悪に身を染めると、自分自身が悪人だと分からなくなるのです。

『フィデリオ』のクライマックスといえば第14曲、フロレスタンを殺害しようとするドン・ピツァロを、身を挺して阻止するレオノーレの場面での四重唱だと思いますが、この場面のベートーヴェンが作り上げた音楽表現とは?

K はい、ここが音楽的にも絶対にクライマックスです。レオノーレは、自分は男ではなく女で、フロレスタンを救出に来たと宣言し、ドン・ピツァロはフロレスタンを牢屋で亡き者にするつもりが、フィデリオが彼の妻レオノーレであると知り慌てます。ロッコはその場を取り繕い、やはり善人のふりをします。このようにたくさんの感情が四重唱の中でぶつかりあいます。しかも四人のハーモニーが大変に素晴らしく、また四重唱のさなかに四つの方向に爆発していくという、ベートーヴェンの緊張感みなぎる音楽の巧みさが際立っています。ベートーヴェンはこれを作曲したとき、ひどい難聴でほとんど聴こえなかったというのは本当に驚きです。オーケストラと歌手の声を全て頭の中で聴いていた天才なのです。

最後に、日本のオペラ・ファンへメッセージを。

K 東京へは、2014年ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団『サロメ』(演奏会形式)や、2010年に武蔵野でのリサイタルで行きましたが(注:当時はミヒャエル・クプファーの名で出演)、再び戻れることをとても楽しみにしています。日本のオペラ・ファンの皆様はとても造詣深く、素晴らしいです。今回は新国立劇場開場20周年を記念する特別な新制作『フィデリオ』でドン・ピツァロを歌えることを大変光栄に思います。5月に劇場でお会いしましょう!