シアター・トーク
[特別編]レポート


シリーズ・同時代【海外編】スペシャルイベント
シアター・トーク[特別編] 「タトゥー」


5月17日(日)新国立劇場小劇場
出席 デーア・ローアー(ドイツ・『タトゥー』作者)
   岡田利規(『タトゥー』演出)
   三輪玲子(『タトゥー』翻訳)
   鵜山 仁(演劇芸術監督)
   佐藤 康(フランス演劇・現代戯曲研究会メンバー)<司会進行>
   (通訳:蔵原順子)

異化の効果を求めて、言葉をつくる(ローアー)

佐藤●今お話をうかがって、興味深い点が3つ出てきました。1つは、社会問題のようなものを与えられてお書きになったということ。それから、社会問題のなかで人間と言葉がどういう関係をもっているかということ。さらには、人間と身体がどういう関係をもっているかということ。ブレヒト以降のドイツ演劇で社会問題を扱うことは珍しいことではありませんが、ローアーさんの手法による劇作品とそれ以前の社会劇との違いはどのようなところにあるのか、三輪さんにお伺いしたいのですが?
三輪●社会劇としてそれが前面に出てきて、おしつけがましいものになるのは、芸術としてよろしくないですね。ドイツの場合、どこまで観客を挑発して、揺り動かすかが演劇をつくるうえでのポイントでした。かなり過激な言葉遣いや立ち居振る舞いなども行い、そのうえで芸術として成り立ち、社会的な問いかけもしていくという形が主流としてあったと思います。ローアーさんの作品は、言葉が少なく、詩的に、人工的に整えられているものです。訳している間は、一番適しているのはリーディングなのかなと思いました。上演する側に対しては、単に派手に上演すればいいというような突きつけ方をしていないので、まったく新しい形の演劇テキストがでてきたと思います。
佐藤●語れないものをいかに語るかということだと思いますよね。今回は舞台上演なので、何らかの形で身体化しないといけない。言葉で語れないものと岡田さんの演出がどう向かい合うのか、これは観ていただくしかないとますが、少しお話いただけますか?
Photo岡田●ドイツ語の語順を解体することでしか語れないんだということを、言葉にする点に関しては、移植はできていないという感覚なんです。というのは、日本語は構造があまりに柔軟なので、語順を入れ替えたぐらいでは変な言葉にならないんですね。ドイツ語だとそうなるんですけど、日本語だとありになっちゃうんですよ。なぜ崩した語順で書いたかというローアーさんのラディカルな部分を成立させるのは、正直言って不可能だと。日本語ではできないし、今回そこに関してはできていません。でもそれは、日本語だからしょうがない。日本語は語順が自由なんだとローアーさんに話したら、「それは作家にとって天国だ」と言っていました。(笑)僕もそう思います。でも、リアリズムからどう離れていくかっていうことの助けには、すごくなっていると思います。僕はいつも、リハーサルに行くまではほとんど具体的な演出プランを考えていません。今回注意したのは、リアリズムで演じたら絶対にいけないということ。現場がなんとなくリアリズムの方向へ引きずられていくとしても、絶対にそれを堰き止めなきゃいけないということは決めていました。もう1つは、塩田(千春)さんの美術と演技の折り合いですね。塩田さんの作品は、人がいない、不在であることを通して人間の存在した痕跡を感じさせられるものです。だとしたら、なぜ人間(俳優)がそこにいるんだ? という点で、折り合いが悪いことになってしまうわけです。そこについて何らかの解答は出さなきゃいけないと思いました。この2つは考えていましたが、具体的にどうするかはリハーサルすれば見つかると思っていました。そして、こういう作品になりました。
鵜山●やはり、解体するならするでそれなりのストーリーが欲しくなっちゃう。解体作業を展開していくストーリーですね。劇場の規模次第で様相は幾分変わりますが、芝居を観るには、何がしかストーリーに頼らないとダメなんじゃないかなと……ただし、かく言う私自身、実は普段芝居を観ていても、一体どういうストーリーだったか、あまり覚えていないタチなので、既に大きな矛盾を抱え込んではいるんです。がまあ、それはともかく、舞台の上では、違ったもの同士がぶつかって、ぶつかることによってお互いに変化して、その変化がまた更なる変化を引き起こす。オバマ教の呪文Change! みたいですが、これが芝居を作る上での、僕の基本的な方程式です。そういう変化をできるだけ重層的に、ダイナミックに、しかも効率良く起こしたい。早い話、稽古場で自分が飽きないようにしたい。そういう感覚は、客席の欲望とどこかで対応しているんじゃないかと思っています。異質なものがぶつかり合って、その軋みが大きくなっていくのか、小さくなっていくのか、広がっていくのか、収束していくのかはケースバイケースですが、いずれにしても人間関係が変化し続けていないと私は稽古場で眠くなる。しかし眠くなりたくない。これを信条にして芝居を作ってるんですが、ダメですかね、岡田さん?(笑)
岡田●僕がむしろどうなんですかね? って鵜山さんに伺いたいぐらいなので。(笑)ローアーさんのテキストは、演劇に対抗しているような態度で書いている。そういったものは、難解なテキストだと言われがちですが、上演を形づくるわれわれにとってみればそうではなくて、ここをやれというヒエラルキーが戯曲にはあって、書かれている以上それに従うしかなくて、建設的な破壊とかじゃなくて、せめてものあがき程度のものになっちゃう気がするんです。『タトゥー』に関してローアーさんは舞台化される具体的なイメージはまったくもっていないと言っていて、それは読んでいてわかります。われわれがリハーサルを通して作り上げていくということへの信頼をもっていてくれているテキストなのだ、とも言えます。つまり、演劇に抗って、演劇に対抗して書くということは、結果的に演劇に資するものとして書くということと本当にイコールなんですよね。僕にとって『タトゥー』というテキストは、そういうテキストでした。今話したことは、今回の経験によるもので、演出を担当して良かったです。
デーア・ローアーD.L.●私が書いた戯曲がどのように翻訳されていくかは、私にとって大切なことです。私は日本語がわからないので、最終的に舞台上に乗せられた日本語の訳がどういったものであるのか、評価できません。他の言語、英語、フランス語、スペイン語の場合は、ある程度わかりますから、訳されたものを読んだり聞いたりしました。翻訳者ともお話をしました。英語の場合、とてもイヤだったのですが、私がせっかく壊した言葉をならしちゃうんですね。元に戻してしまう。私はあえてひっくり返したから、ひっくり返したままにしてほしいと言うんですが、翻訳者の方は、そうすると英語として成立しないとか、おかしな響きになるとか、そんな英語誰も話さないと言われちゃうんです。もちろん、私が書いたドイツ語の並びも、誰もそんなふうに喋っている人はいません。あえて人工的な言葉をつくって、意味は通じています。それこそ、私が求めている異化の効果なのに、それをならされてしまうと意味がなくなります。正直言ってこの作品に関して翻訳がうまくいっているケースはあまりなかったんですが、今日本語の特性についてお話いただいて、この日本語訳はすばらしい形で成功していると思います。