水曜ワイルダー約1000字劇場


第1回  21世紀のソーントン・ワイルダー

今回から、毎週水曜日にソーントン・ワイルダーや『わが町』のことを書きます翻訳を担当した水谷八也です。水曜ワイルダー約1000字劇場、よろしくお付き合い願います。

さて、2010年はなぜかワイルダーの当たり年でした、生誕113年という中途半端な年なのに。10年から11年にかけて上演された(る)『わが町』は、わたしたちのものを含めると6本になり、さらに若い劇作家、柴幸男さんと演出家の中野成樹さんが「ワイ・ワイ・ワイルダー!」という企画を立ち上げ、4月から1年間、集中的にワイルダーの戯曲を上演しています。

柴さんや中野さんのような若い演劇人が、これまでの劇団の養成所の発表会で上演されるのとはちょっと違ったスタンスで、ワイルダーの演劇観をかなり本気で面白がっている、ということを日本の現代演劇に詳しい8年生の学生から聞いたのは去年のことでした。「へぇー」と思うと同時、心のどこかでその動きに対して、「そうだよねー」と深く納得できる部分もありました。なぜ納得できる部分があったのか、これを説明するのはかなりの時間が必要なんですが、このブログであちこち寄り道をしながら、説明できればと思ってます。

ワイルダーは、劇作家で、小説家で、批評家で、演劇研究家でもあった人です。ピュリッツァー賞も小説で1回、演劇で2回受賞していて、二つの分野でこの賞を取ったのはワイルダーくらいでしょう。でもオニールやウィリアムズ、ミラーに比べると地味な感じがするし、研究書もそんなにあるわけではありません。

しかしアメリカで一番上演回数の多い戯曲は、アマチュアも含めれば、『わが町』だと言われています。1938年の初演以来、各国語に翻訳され、一時は地球上で『わが町』が上演されてない夜はない、と言われたほどです。ひょっとすると日本でも劇団の研究生の発表などを含めたら、その上演はかなりの頻度だと思います。でもその割に、ご本人に関しても作品に関しても、あまり語られるチャンスはありませんでした。程度の差はあるにせよ、この矛盾はアメリカでも日本でもほぼ同じ現象です。上演する作品としては人気がありながら、軽い扱いしか受けないのは、アマチュアのための作品だと思われているからかもしれません。でも簡単に「理解」できてしまうから、底が浅いとは限りませんよね。この戯曲には、演劇史と演劇知が絡み合い、歴史の先頭(現在)にいる「わたし」の姿を見せてくれるようにできています。その仕組みを、来週からボツボツと・・・。


第2回  『わが町』と全裸・舞台

水曜ワイルダー約1000字劇場、劇場主の水谷です。先週の続きで……ええっと、ソーントン・ワイルダーのお芝居の多くは舞台上に装置がありません。何の変哲もない椅子やテーブルは使いますが、背景を示す装置はまず使いません。『わが町』も「幕なし。舞台装置も一切ない」が冒頭のト書きです。今でこそ舞台上に何もなくても観客は驚きませんが、1938年の初演当時は違いました。その時の舞台写真を見ると、その「何もなさ」は現在の感覚からしても、過激だと感じるほど徹底してます。有名なのは第三幕のエミリーの葬儀の場面の写真ですが、左側に椅子にすわってじっと前方を見つめる死者たち、右側に黒い大きなこうもり傘を差した参列者の一群が客席に背を向けて立っているそのむこう側に見えるのは、スチーム・パイプが張り巡らされたヘンリー・ミラー劇場の壁そのものです。

Our Town, 1938 (Billy Rose Theatre Division)
cNew York Public Library

アメリカではブロードウェイに乗り込む前に、地方の都市で「試演」を重ね、観客の反応を見て台詞や演技などを調整しますが、『わが町』のボストンでの試演のさなか、幕の途中なのに、マサチューセッツ州知事夫人が突然立ち上がり、舞台に背を向け通路をツカツカと進んで、そのまま劇場から出て行き、何人かがそれに続いたという「事件」が起こりました。中には「わたしは劇場の壁を見に来たわけじゃない」と不平をもらす人もいたようです。またブロードウェイでの初日でも、芝居が始まる前に席についたある観客は、薄明かりの中、幕が上がったままの何もないガラーンとした寒々しい舞台を見て、思わず隣の客に日にちを確認したというエピソードもあります。

当時のブロードウェイの他の舞台の写真を見ると、確かに具体的な装置が舞台に詰め込まれているのが普通だし、中にはもうそこに住みたいと思えるほど完璧な部屋になっているものもあります。多分それが当時は普通だったし、今でも「お芝居」と言えば、そんなセットを思い浮かべる人もいるでしょう(現在は本当に多様なので、これは年齢などにより、個人差があるかもしれませんが・・・)。そんな基準からすると『わが町』の裸舞台の「裸」は「全裸」であり、珍しいを通り越して異様であり、何もつけてないなんて「失礼な!」と思ったお上品なお客様がいても不思議はありません。

では、ワイルダーは一部の観客を「敵」に回してまで、なぜこの「裸」にこだわったのでしょうか。実はワイルダーが敵に回したのは一部のお客様だけではありませんでした。一体誰を敵に回してしまったんでしょう。それはまた来週。


第3回  演出家、新たな敵を殴り倒す!

水曜ワイルダー約1000字劇場、広報担当の水谷です。先週の続きで・・・ええっと、『わが町』で、ワイルダーはお客さんの一部だけでなく、思わぬ人たちを敵に回してしまいました。誰だと思います? 舞台の大道具などを動かす裏方さんたちなんですね。

『わが町』が装置を使わないことは前回お話しました。お芝居は、何もない舞台の上に舞台監督(これは本当の舞台監督ではなくて、「舞台監督」という役名です)が何気なく出てきて、後にギブズ家やウェッブ家で使うテーブルや椅子をそれぞれの場所にセットすることから始まります。これが問題になりました。

アメリカには舞台の裏側で様々な舞台機構の操作をしたり、舞台上の道具を動かすいわゆる裏方さん(stagehands)の組合があり、雇用の場がちゃんと確保されるように公演ごとに舞台係を何人使うか、プロデューサーとか劇場側と交渉して契約しますが、『わが町』の場合、その時点で考えちゃいますよね。幕は開いたままだし、照明もほとんど変らず、道具もすべてではありませんが、役者が動かしますから。

初演のときのプロデューサー、演出家だったジェド・ハリスは、舞台係を雇わないと組合から抗議が来そうだったので、4人雇っていました、うち2人は特にやることがないにもかかわらず。さらに劇場付きの舞台係も4人いて、彼らもやることがない。ところが、初日の開幕数時間前に舞台係の組合から「オタクの今日の芝居、俳優が道具を動かしてるらしいね? あと2人、雇いなさいよ。でないと、劇場の明かり、つけさせませんよ。真っ暗な劇場に客を入れるのは消防法違反ですから」と、脅迫めいた電話がかかってきた。

ハリスも負けじと一生懸命「この芝居は普通の芝居じゃないんだ」と説明したんですが、開演1時間ほど前に彼が舞台ソデを通ると、新顔の舞台係が、舞台監督役フランク・クレイヴンが運ぶはずの椅子を持って早くもスタンバイしているではありませんか。ハリスが問いただすと、椅子を舞台に運ぶように組合から指示されて来たと言うので、ハリスは噛んで含めるように「いいか、その椅子をおとなしく置いて、地下に行け。そして役者の邪魔にならないように隅っこにすわってろ。仕事をするな! そうすれば賃金は払ってやる」と言ったのですが、この男がなかなか聞き入れず、最後は(噂によると)ハリスがこの男を殴り倒して、すったもんだのあげく、なんとか台本通りに初日の幕を開けたんですね、あ、幕は最初から開いてるんでした。

Jed Harris (Billy Rose Theatre Collection )cNew York Public Library

「全裸」舞台といい、道具を動かすところを見せたりと、ワイルダーは一体何を考えていたんでしょう。あら、もう1000字を越えてました。続きは来週。


第4回  今から『わが町』ってのをやります。

水曜ワイルダー約1000字劇場、芸術監督補佐の水谷です。

先週の続きで・・・ええっと、『わが町』で「全裸」舞台とか、「舞台監督」という本来なら表舞台には立たない人を舞台に出して、道具をセットするところをわざと見せたり、ワイルダーは一体何を狙っていたんでしょう。その舞台監督の最初の台詞は「このお芝居のタイトルは、Our Town、『わが町』」というものです。若い方なら、「あれ、それってチェルフィッチュの『クーラー』の最初と似てる!」と思うかもしれません。逆に私はチェルフィッチュの『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』を見たとき、「クーラー」が「今から『クーラー』ってのをやります」という台詞で始まったのを見て、「あれ、これって『わが町』の最初と同じだ」と思いました。ここで岡田利規さんがワイルダーに影響されてるとか、そんなことを言うつもりは全然ありません。多分、岡田さんはワイルダーを知らないんじゃないかな(知ってたら、ごめんなさい)。でもこの結びつけようもない二人は、多分、これから舞台でやるのは「〈お芝居〉なんですよ」ということを強く意識して前面に押し出している、という点では共通しているのではないでしょうか。(チェルフィッチュの芝居もほとんど何もない舞台ですね。)

お芝居って不思議な行為ですよね。舞台の上でどんなに本物らしく見せても、所詮はすべてが「嘘」なんですから。その嘘を隠して「本物らしさ」を追及するのがお芝居なのか、それともその嘘を堂々と白日のもとにさらしてしまうのがお芝居なのか? どちらも「アリ」だと思いますが、少なくともワイルダーは後者の立場を取ることが多いようです。それに、岡田さんに限らず、現代の若い演劇人の多くは、ごく当たり前に「嘘」を堂々とさらけ出していますよね。

1938年、初演の堂々たる嘘(水谷)cNew York Public Library

ワイルダーはあるエッセイの中で、演劇が他の芸術と異なっている点を4つ上げています。

1 演劇は多くの共同作業に基づく芸術である。
2 演劇は群集心理に語りかける。
3 演劇は虚偽に基づき、その本質ゆえにさらなる虚偽の増殖を呼び起こす。
4 演劇のアクション(筋・出来事)は永遠の現在において展開する。

なかなか魅力的で、的確なまとめ方ですね。裸舞台や舞台監督による道具のセットなど、どうも3番目の特色に関連があるようです。ワイルダーは嘘を演劇の特質と考え、それを隠すのではなく、むしろ積極に見せていたわけです。でもこれはワイルダーの専売特許ではありません。ずーっと昔から行われてきたことです。一番わかりやすいのは・・・やっぱりシェイクスピアですかね。

あ、もう1000字を越えてる。続きはまた来週・・・どうも1000字だと窮屈ですね。来週から約1250字劇場にしようかな・・・どうです?


第5回 何もない舞台の歴史 その1

水曜ワイルダー約1000字劇場、音響担当の水谷です。今週はちょっと時代をさかのぼって、ワイルダーが理想と考えていた演劇空間のひとつ、エリザベス朝の舞台の話を。シェイクスピア(1564-1616)が活躍した時代ですね。

現在わたしたちは翻訳でシェイクスピアの戯曲のすべてを読むことが出来ます。たとえば『ハムレット』を読んでいるとしましょう。1幕5場で、ハムレットは亡霊からその死にまつわる秘密を打ち明けられ、興奮して「おお、満天の星よ」と呼びかけ、クローディアスへの復讐を誓います。この場面を読んで、みなさんならどんな舞台を想像しますか? 「満天の星」ですから、夜のエルシノア城の城壁近くで、風が吹いていたり・・・。『マクベス』の魔女の場面はどうでしょう? あるいは『ロミオとジュリエット』の有名なバルコニーのシーンは(これも夜ですね)?

みなさん、ひょっとしたら、映画のような場面を想像していませんか? でも、シェイクスピアの時代、当然、照明はありません。ちょっと当時の劇場の模型を見てみましょう。エリザベス朝の公共劇場は円筒形の建物で、屋根は舞台の一部とその舞台を囲む客席の上にしかありません。真ん中は青天井で、円の中央に張り出している舞台の上に太陽光が入るようになっており、すべては日の光の下で演じられていました。

cNew York Public Library
※シェイクスピアが座付作者であった宮内大臣一座の劇場、グローブ座の模型

さらに良く見ると、幕を引いて舞台を隠すようには作られていません。つまり舞台転換をするにしても、隠すことができないし、何かを舞台に運び込む場合も、丸見えです。隠すという発想がそもそもなかったのかも。つまり芝居とは「嘘」であることが大前提だったということですね。さらに当時、女優は存在していませんでした。女性役は声変わりをする前の少年俳優が演じていました・・・ジュリエットも・・・(ということは、男同士が、昼日中、舞台の上で・・・歌舞伎も同じか)。

cNew York Public Library
※グローブ座内部の模型

この時代、「芝居を見る」という言い方は普通ではなく、「芝居を聞く」(hear a play)という言い方が一般的でした。台詞の大半は無韻詩という型の詩で書かれていたんですね。つまり、何もない舞台から語られる台詞(詩)により、観客は何もない舞台の上に夜だろうと、嵐だろうと、海だろうと、妖精だろうと、美女だろうと、太陽光の下で、すべてを「想像力」の助けで見ていたということになります。

これもシェイクスピアですが、『ヘンリー5世』のプロローグにこんな台詞があります。(すでに1000字を越えてますが、お許しを!)

われらのたらざるところを、皆様の想像力でもって
どうか補ってください、一人の役者は千人をあらわし、
そこに無数の大軍がいるものと思い描いてください。
われらが馬と言うときは、誇らしげな蹄を大地に印する
馬どもの姿を目にしているものとお考えください・・・・
数年間にわたって積みかさねられた出来事を
砂時計の一時間に変えるのも、皆様の想像力次第です。
(小田島雄志 訳)

昔、演劇はそういうものだったんですね。と言うか、これが演劇の本質なのではないでしょうか。嘘と想像力のコラボ。少なくともワイルダーはそう考えていたと思います。でも、シェイクスピアよりも前に、もっと『わが町』に近いものがあるんですよ、結構身近に・・・それはまた来週にでも。


第6回  何もない舞台の歴史 その2

水曜ワイルダー約1000字劇場、照明担当の水谷です。

何もない舞台の王道は、間違いなく日本の能舞台です。シェイクスピアの時代よりもずっと前にその形式が完成していて、さらにその当時の上演形態がそのまま現在まで残っているのは、本当に驚異です。ギリシア悲劇も文字としては残っていますが、上演形態は残っていません。エリザベス朝の公共劇場も1642年に始まる内乱の結果、すべて破壊され、当時どんな風に上演されていたのか、文献から想像して「再現」するしかないのに、能舞台では600年以上も前の上演形態、演技が一子相伝により現在形で伝わってきているわけです。いやぁすごい、日本の演劇。

ご存知のように、能舞台もエリザベス朝の舞台同様、張り出しており、観客の視線をさえぎる幕もなく、すべてが見えています。装置を使う場合にも、『わが町』のように芝居が始まる前に観客の目の前で運び込まれます。それに能も狂言も、舞台上で何か本物らしさを求めることはまったくありません。所作はすべて極度に様式化されています。台詞劇の狂言でもそう。実際、誰もあんな動き方はしないし、戸を開けるときに「グァラ、グァラ、グァラ」なんて音はしないし、笑うとき「ハーッハーッハッハッ」なんて笑う人はいないし(たまにいるか・・・)。『わが町』に様式化された演技はありませんが、本物らしさを求めてはおらず、「嘘」のかたまりであることが歴然としている点では能舞台と同じです。

国立能楽堂舞台正面

さらに能と『わが町』では驚くような類似点があります。それは「死者の眼」です。『わが町』の方は舞台で確かめていただくとして、能のことをちょっと。能には現在能と夢幻能があります。現在能は舞台となるのが現在であり、そこから時間が動くことはありませんが、夢幻能のほうは複雑です。

夢幻能では主人公であるシテが霊的な存在で、そのシテがワキ(副主人公的存在)の夢の中に現れて、生きていた頃のことを回想したり、あるいは再現し、多くはその感情の頂点で舞った後、ふたたび霊界へ去り、ワキが目覚めるというところで終わります。何もない舞台の上で死者の目を持った者が生きている世界に戻り、ふたたび帰るという構造だけでなく、それをわざわざワキの夢の中に入れ込むという複雑に構築された時間軸、死者と観客の橋渡し的な役割を果たすワキの存在など、『わが町』との類似で気になる点がいくつもあります。『わが町』の時間軸に関しては、よーく台詞を聞きながら、実感してみてください。非常に滑らかですが、結構複雑に入り組んでいます。それから、舞台監督という存在。彼はワキのように、過去と現在、未来、あるいは生と死の世界、そして舞台と観客の橋渡し的な役割を果たします。

で、ワイルダーは能に影響を受けていた、なーんて言う積もりはまったくありません。彼が能の作品をはじめて読むのは、日本の『わが町』の翻訳者(多分、故・松村達雄氏)が能の本を彼に送ったあとのことです。だとすると、いつ、なぜ彼は・・・。ちょっと『わが町』以前のワイルダーの戯曲が気になりますねぇ。次回は彼の一幕劇のことを。


第7回  クリスマスには「長いクリスマス・ディナー」+その他の一幕劇のことなど

水曜ワイルダー約1000字劇場、照明担当の水谷です。

かつて日本の劇団の養成所で『わが町』と並んで好んで取り上げられていた戯曲にソーントン・ワイルダーの「長いクリスマス・ディナー」という一幕劇がありました。見えないクリスマス・ディナーが置いてある長いテーブルと椅子、舞台の両端におかれた二つの戸口だけで、あとは何も具体的な装置のないお芝居です。アメリカの独立当時から続く古い一族、ベヤード家の90年に渡るクリスマスの晩餐の様子が約30分に圧縮されていますが、その時間は途切れることなく滑らかに、そして残酷なほど早く流れていきます。と言っても、早回しでやるわけじゃありません。場面は常にクリスマスのディナー。そこで交わされる挨拶や会話は、多少の変化があるにしても、毎年ほぼ同じようなものなので、数年前の会話がいつの間にか、現在の会話にスライドするというような独特のスタイルで時間が経過します。

舞台両端の戸口は「誕生」と「死」を表していて、90年の間にこの一家に何人もの子どもがその戸口から生まれ、また何人もの人物が死んで、「死」の戸口から退場します。自分の出番が終われば、舞台から消えてしまう。『マクベス』の台詞そのままですね

『華麗なる招待』cままごと/ズキュンズ 撮影=細川浩伸
ワイルダーの「長いクリスマス・ディナー」を誤意訳  した柴幸男演出による『華麗なる招待』の舞台。横浜  STスポットの小さな空間中央にテーブルがセットされ  観客は一列に壁に沿って座り、90年を体感しました。

この「長いクリスマス・ディナー」は、1932年に一幕劇集として、他の5編(後に1編が削除されます)と共に出版されますが、そのうち3編がセットを使わない(全)裸舞台で上演されるものでした。その中の1編、『寝台特急ハイアワサ号』は、ニューヨークからシカゴへ向かう寝台列車の乗客だけでなく、その列車が通過する草原や夜の時間までが台詞を言うという奇妙奇天烈な芝居ですが、その中で、乗客の一人ハリエットが心臓発作で死にます。死んだ彼女は天使に伴われ、天へと向かいますが、地上に別れを告げるときの台詞は『わが町』のエミリーの原型だと言えるものです。また、線路の工事をしているときに死んでしまったドイツ人の幽霊もしゃべります。ほんと、変な芝居(だから、めちゃくちゃおもしろい!)。

『寝台特急“君のいるところ号”』c中野成樹+フランケンズ 撮影=鈴木 竜一朗
ワイルダーの『寝台特急ハイアワサ号』を演出家・  中野茂樹が大胆に誤意訳した舞台。 「君のいる  ところ号」というタイトルのつけ方にワイルダー  への愛着が感じられます。『華麗なる招待』同様、  2010−11年の「ワイワイワイルダー」の一環とし  て上演されました。

もう1編の何もない舞台で演じられる「幸せな旅」は、ある一家が車で嫁ぎ先の娘を訪ねる話ですが、上演の大半は車での移動中のことで、『わが町』同様、なんてことはない情景が描かれてます。しかし最後、その娘の家に着くと、彼女は出産した直後にその赤ん坊を亡くして退院したばかりで、一家はその彼女をお見舞いに来たのだということがわかります。そうそう、車に乗っているときに葬列に出会うという場面もありました。

『わが町』も含めて、何もない舞台を使う場合に、ワイルダーは好んで「死」を戯曲の中に入れています。能との類似点は確かにいくつかあるのですが、前回書いたように、影響を受けているとは言えません。むしろ、彼の演劇に対する考え方自体が元々、能に近かったと言った方が良いかもしれません。では何もない舞台に、死を持ち込むことで、ワイルダーは何をしようとしていたんでしょうか?


第8回  「死」の意味と「想起」と『わが町』と

水曜ワイルダー約1000字劇場、美術担当の水谷です。

さて、先週の続きで、ワイルダーは好んで舞台に「死」を持ち込んでいましたが、それはなぜなのか。その答は『わが町』の第三幕の後半部分に集約されているので、みなさん、舞台で自分自身の《感覚》で体感してください。「想起」と言った方がワイルダー好みかもしれませんが。

ワイルダーのお芝居はその完成形が舞台の上じゃなく、舞台と想像力豊かな観客の中間にあるのではないかと、わたしは常々思ってます。舞台監督も言ってるように、死者たちの言葉の中には、聞いていて傷つくようなことも出てきますが、それがこの戯曲の完成形ではなく、それは観客の中に「想起」を起こすための要因なんじゃないでしょうか。じゃ、何を想起するのか。これはもう体感するしかないと思います(是非、体感しに来てください)。

『わが町』もそうですが、先週名前を出した一幕劇でも、ワイルダーが「死」を舞台に導き入れるとき、個別の死の過程が具体的に語られることはなく、逆にあっさりと、淡々と人は死んでいきます。あらゆる「生」を一瞬にして無に帰する死は、それ故に、個別の領域から普遍の領域へと観客を巻き込み、生の本質を鋭く浮かび上がらせます。そのような死が至るところで待ち受けていた日本の戦国時代やヨーロッパ中世の演劇に、死が大きな要因となって組み込まれていたのは必然かもしれません。そしてその時代、どちらの地域でも、演劇は宗教的でした。そもそも演劇の起源はどの国でも、まず宗教儀式にありますよね。人は演劇の中で、神、あるいは死を通した神、という絶対的存在の前に自らの「生」を対置させ、日常では見えなくなっている「生の意義」を見ていたと言えます。

先週は能のことを書きましたが、今週はイギリスの中世の演劇、道徳劇のことを少し。夢幻能と同じように、この道徳劇も大体パターンが決まっていて、「人類(Mankind)」とか「万人(Everyman)」という名前の登場人物が、様々な罠や誘惑に惑わされながらも、最後に自分の人生を悔い改めて、神の祝福を得る、というものです。『万人』では、文字通り「死(Death)」という人物も登場します。個々の物語は違いますが、生の移ろいやすさ、はかなさ、つまりは「無常感」を醸し出すことでは、能と同じかもしれません。おもしろいですね、洋の東西は異なっても、似たような感覚を持っていた時代が「近代」以前にあったというのは。どちらも現世の空しさを説き、人間を超えたもの(聖なる領域)の前に人間の小ささを見、その二つ、聖と俗の関係性の中で、わたしの生を認識する。ワイルダーのお芝居は、近代を飛び越した中世の芝居と本質的には同じだと言えるのではないでしょうか。

しかし、MankindとかEverymanという名前の登場人物を出すって、すごいですよね! 誰が見ても、「お、これはわたしの話だ」と思えてしまうんですから。『わが町』も、そうだといいのですが。(ミズタニさーん、字数オーヴァーでーす。)すみません・・・

(何字だと思ってんですか!)

ごめんなさ・・・

イテッ・・・何も叩かなくたって・・・

(ちょっと調子に乗ってんじゃないの、最近?)

・・・でも、言いたいことが

うまく

さ・・・。


第9回  星や月が語ること

明けましておめでとうございます。水曜ワイルダー約1000字劇場、衣装担当の水谷です。『わが町』初日まで、10日を切りました。楽しみですねぇ。

さて、暮にはワイルダーの作品に見られる「死」という要素について書きましたが、新年の最初は、死と同様に彼の作品に頻繁に出てくる月や星のことについて考えたいと思います。『わが町』の一幕の後半には、見事な月が登場します。三幕では、きれいな星が夜空を飾ります(と言っても、両方とも目には見えませんが)。どちらの場面でも町の人々は空を見上げます。

人間は大昔から星空に目をやり、そこにさまざまな物語を読み込み、地上の人生と関連づけてきました。そんな宇宙観がもっとも良く視覚化されているもののひとつがロバート・フラッド(1574-1637)という英国の魔術師、と言うか、錬金術師の『両宇宙誌』という書物にある大宇宙と小宇宙の対応図です。この図では小宇宙たる人間が宇宙の中心に位置し、惑星が小宇宙とその中心を「一」にして同心円上に広がっており、天体と人間世界が密接な関係にあり、対応していることを示しています。そしてこの宇宙を創造し、かつロープで回転させているのが神であることは言うまでもありません。

ロバート・フラッド、『両宇宙誌』より

わたしたち人間が現実世界よりもっと大きな次元の何かとつながっているのだという感覚は、人間存在の根源的なところから湧き起こってくる「希望」のようなものに近いかもしれません。上の図は近代的な科学や天文学からすればナンセンスなものかもしれませんが、近代科学だって、この世の森羅万象を解明できているわけでもないから、非・科学的と恥じ入ることもないですよね。

ワイルダーは星の瞬く夜の時間に哲学者の名前をつけて登場人物にし、哲学書や聖書の言葉を語らせたり、惑星にコーラスをさせたり、かなり非・科学的なことを好んでしています。『わが町』も『危機一髪』も「おやすみなさい」という台詞で終わりますが、夜の時間は人間の理性が休息し、その隙に理性とは別の相の知性が働くのだと考えていたのかもしれません。ワイルダーは20世紀としては時代錯誤とも言えるような、少し超自然的、神秘的な考えを若い頃から持ち続けていたようです。

『わが町』の原型ともなった「MとNの結婚」の草稿が書かれているノートの表紙の裏には「この世界は超自然的な要素が日常生活の中に導入されなければ、ただの幻想に過ぎない。この世界は天空の巨大なドラマに比べれば、幻想に過ぎない。それ故、人は演じることができる」という興味深いメモを残したりしています。

一見無価値に見える現実世界の些事、笑いと悲惨が渦巻く眼前の風景の向こうには、その一つ一つに意味を与える大きな体系が広がっているのだと、ワイルダーは確信していたのだと思います。そしてその体系とこの世をつなぐ方法こそ、彼にとっての演劇だったのではないでしょうか。


第10回  三分間劇集『癒しの池、天使がさざ波立てるとき』 の序文

水曜ワイルダー約1000字劇場、プロンプターの水谷です。もう今週が初日! ドキドキしてきますねぇ。

さて、ワイルダーは演劇をこの世界とそれを超える次元とを結ぶ回路だと考えていたようだ、ということを前回書きました。彼の演劇観は『三戯曲集』の序文(1957)に一番良く出ていますが、もうひとつ、彼の演劇観を知る上で重要なものが、今回、演劇講座でも紹介する「三分間劇」です。これは1925年、彼がオベリン大学の学生だった頃から、大学の文芸誌に投稿していたもので、登場人物が三人、上演時間(必ずしも上演を念頭に置いてないのですが)が三分という枠を自分に課していた時期のものです。ワイルダーはイェール大学進学後も、ローレンスヴィル高校のフランス語教員時代にも、この形式の戯曲を書き続け、1928年に初の戯曲集『癒しの池――天使がさざ波立てるとき』として出版しました。

この奇妙な戯曲集には16編の三分間劇が収められており、その大半が「死」や「宗教」を扱ったものです。この凝縮された個々の戯曲の内容も読み応えがあるのですが、冒頭に付された序文は注目に価します。

この序文の中で、ワイルダーは「偉大な宗教的テーマに見合うだけの精神を、それもお堅い教訓に陥ることのない精神を発見したかった」と書いています。彼は宗教を、(外から強制を加える)教訓としてではなく、内発的なものとしてとらえていて、「美」が唯一の説得力を持つものだ、と熱弁をふるってます。そして最後の部分で「宗教の復興は、ほとんどレトリックの問題だ。その作業は困難で、多分不可能だろう。しかしそれで思い起こすのは、神が聖書の中で《鳩のように柔和であるだけでなく、蛇のように賢くあれ》と勧めていることである」としめくくっています。

ワイルダーは最初の戯曲集で、20世紀という非・宗教的な時代に、あえて宗教的作家を目指すのだと、宣言しているわけです。ワイルダーが28年にこの文章を書いて以来、20世紀がどんな時代だったか、どれほど超・人間中心主義だったか、わたしたちはすでに知っています。

『サン・ルイス・レイの橋』(1927) 初版の表紙

ワイルダーは明らかにその時代の流れに逆行しています。彼の初の小説『カバラ』や『サン・ルイス・レイの橋』でも、ワイルダーの姿勢は同じです。物語は人間世界のことを描いていますが、すでに見てきたように、こちら側の世界を描いて、向こう側の世界を、読者(観客)に想起させるのが彼の方法です。最終的に彼が内面に創出しようとしていたのは、こちらとむこうを結ぶ関係性でした。『サン・ルイス・レイの橋』の最後の部分は有名で、2001年9月11日のテロで亡くなったイギリス人を追悼する席で、当時のブレア首相もそこを引用しました。「存在するのは生きている者の国と死んでいる者の国だけであり、そこをつなぐ橋が愛なのだ、それこそが唯一生き残るものであり、唯一意味のあるものなのだ」という部分。ここだけ読むと陳腐な感じですが、通して最後にここを読むと、曰く言い難い空気に包まれます。それは『わが町』でも同じです。その空気を創出するのに、実験的な形式は不可欠な要素になっています。

ジャンルを問わずワイルダーの全作品に見られる形式への執拗な実験は、「蛇のような賢さ」で、非・宗教的な時代に「大いなるもの」を想起させるための方途でもあったのです。


第11回  日本の現代演劇とワイルダー「的」な

水曜ワイルダー約1000字劇場、大道具の水谷です。さて、気がついてみると、このブログもそろそろ終盤です。最初の回で、このところ日本で『わが町』が頻繁に上演されたり、ワイルダーへの関心が高まっていることに触れました。今回は日本の現代演劇に見られるワイルダー「的」(略して「ワイ的」=「Wi的」。字数エコ対策。)な要素について書いてみます。つまり、ワイルダーの作品そのものではないけど、そう、このブログの第4回目で岡田利規さんの戯曲の「今から『クーラー』ってのをやります」という台詞と『わが町』の最初の台詞が似ていると書きましたが、そういう「的」なことですね。

昨年秋に開催されたフェスティバル/トーキョーで上演された前田司郎さん率いる五反田団の『迷子になるわ』は、劇場に入ったとたん、思わず「オッ」と声を出してしまいました。何もない舞台に、何の変哲もない椅子が整然と並べられていたからです。直感的に「これはお墓だ」と思いました。『わが町』の第三幕のお墓の場面、舞台の下手側に単純な椅子が並べられているあの場面(当ブログの2回目の画像参照)と同じだ、と。そして、お芝居が始まると、実際その椅子は芝・増上寺のお墓として(も)使われていました。そして下の写真の中央に見えますが、上から吊るされた赤と白のロープが東京タワーになるんですね。ああ、「Wi的」!と思いました。

前田司郎 作・演出・出演  五反田団 『迷子になるわ』

でも、その舞台の使い方のみならず、物語は奇妙奇天烈な展開であるのですが、「死」が作品の真ん中にドーンと据えられていて、そこもWi的だなぁと思いました。そう言えば、2008年に岸田戯曲賞を取った『生きてるものはいないのか』では、最終的に登場人物全員が死んでしまい、目に見えないけれど、実質主人公は「死」そのものでしたね。前田さんは小説でも、飄々と「神様」を出してたりして、日常の中に「絶対」を持ち込む手際がすごいWi的だなぁと思います。

もうひとつ、フェスティバル/トーキョーで、偶然見てしまった「マームとジプシー」の『ハロースクール・バイバイ』という作品。まるで『長いクリスマス・ディナー』のように同じ場面が何度も少しずつ角度を変えて反復されていました。その繰り返されていること自体はありきたりの青春物ですが、反復されることで何か「時間の本質」が見えてくるような気がして、Wi的だぁ、と思いました。

そして反復と言えば、柴幸男さん。柴さんの『反復かつ連続』は今回の『わが町』のボーイズ&ガールズの一人、内山ちひろさんが一人で高度な技術を見せる舞台でしたが、この作品も誰もが経験するであろう朝の食卓の風景が幾層にも反復され、その果てに日常では感じ取れない、しかし確実に日常の基盤にある「何ものか」を浮き立たせていて究極のWi的です。そして柴さんの岸田戯曲賞受賞作『わが星』はもうそのタイトルからワイルダーとの関連がすぐに嗅ぎ取れるわけですが、宇宙の広がりの中に一家の食卓の風景を置いたり、宇宙の時間と一人の女性(星)の一生を重ねたり、これもワイルダーが『わが町』や『危機一髪』で好んでやっていることで、ほとんどWi。

Wi的と思える戯曲、劇作家に共通するもっとも重要な共通項は、おそらく、現在の「生」のあり方への違和感と、存在しているにもかかわらず日常では隠されてしまっている「生」の根幹に触れてみたいという極めて真摯な態度だと思います。それを形にするには日常を超えた視座が必要であり、そのために演劇という形式、裸舞台が有効だという認識ではないでしょうか。日本の現代演劇の最前線がかなりWi的というのは、興味深い現象だと思います。(もう開き直った字数で、申し訳ない! 許してください、〈も〉さん!)次回、最終回、まとまらないまとめを。そしてみなさん、是非舞台を見てください! 美しいです! 〈美〉に勝る説得力はありません。


第12回 もう最終回。じゃ、おやすみなさい。

水曜ワイルダー約1000字劇場、お掃除係の水谷です。あっという間の最終回。ダラダラまとまりないことを書いてきましたが、ちょっとだけ振り返ってみます。

ワイルダーは、20世紀の劇作家でしたが、その戯曲には前・近代的な要素が多く、その実験的な方法は「近代劇」から想像力を解放させることにおいて、「近代」に反旗を翻していたと言えます。それは表現上の問題にとどまらず、作品世界とも深く関わっていて、彼の戯曲は、能やヨーロッパ中世の宗教劇、シェイクスピアの作品に見られるように、現実世界を超えた何ものか、「大いなるもの」「永遠なるもの」と人間を結びつけることで、あるいは20世紀という非・宗教的な世俗の時代に、人間を宗教的に見ようとすることにより、「人間存在」そのもののあり方を「近代的」なあり方から解放しようとしていた、と言えるのではないでしょうか。

c Yale Collection of American Literature, Beinecke Rare Book and Manuscript Library, Yale University
[舞台監督を「演じる」ソーントン・ワイルダー]

前回は日本の現代演劇のなかのWi的なものについて書きました。そこで触れた現代の日本の劇作家たち、それに第4回に登場した岡田利規さんも含めて(そう言えば、チェルフィッチュの新作のチラシの裏には、またまた超Wi的なことが書かれていますよ)、彼らのお芝居は、少なくともその表現方法においてWi的でした。同時に、人間を捉えようとするその姿勢もとてもWi的だと思います。もちろん彼らは宗教的ではないでしょう。でも、何もない舞台の上に「死」を持ち込んだり、宇宙の時間と人の一生を重ねたり、日常の一コマを反復させたりすることで、岡田さんのチラシの言葉をそのまま使うと、「誰の日常も、その日常よりもずっと大きなスケールを持つ何かと、絶対につながっているのだ」という感覚を想起させようとしているのは間違いないと思います。

そのスケールが、家族から宇宙まで・・・その程度に差こそあれ、彼らの作品は、このわたしの位置とその存在の仕方を模索し、現在の位置とあり方を再確認しようとしているように思えます。わたしは今どこにいるのか、どんな状況に置かれているのか、見えにくいが故のことでしょう。ワイルダーならびにWi的は、わたしたちの目をこの「人間存在」の根幹へと向けてくれます。

Barrow Street Theatreの『わが町』のポスター。

じゃ、アメリカではどうでしょう? 昨年9月、1年半以上続いたオフ・ブロードウェイ、バロウ・ストリート・シアターでの『わが町』(デヴィッド・クロマー演出)が幕を閉じました。『わが町』としては最長の上演期間です。また同じオフ・ブロードウェイのキーン・カンパニーは2004年から断続的ですが、ワイルダーの一幕劇や三分間劇の一部を上演し続けています。さらに『ニューズ゙・ウィーク』誌のジェレミー・マッカーターは、「ここ数年はちょっとしたワイルダー・ブーム」(09年10月21日号)と書いています。アメリカの方はWi的ではなく、Wiそのものですが、以前よりも注目度は高いようです。大きな流行ではないにせよ、ワイルダーが注目を浴びているのは日本だけではないんですね。

広い文脈で考えるなら、袋小路に入り、完全に煮詰まってしまった「近代」という人間中心の時代、時代精神に違和感を抱く人たちにとって、洋の東西を問わず、ワイルダーの作品、あるいはWi的な方法って魅力的なんだ、ということなんじゃないかなぁ、と。つまり、近代の終焉でこそ、ワイルダー、あるいはWi的は光り輝く。アメリカでも、日本でもワイルダーへの関心が以前よりも高くなった背景にはこんな理由があるんじゃないか、と個人的には考えています。だから、もっと読もう、ワイルダー!

ということで、いつもまとまりのない駄文を読んでくださり、ありがとうございました。さて、書き散らかしたものをお掃除しなくちゃ・・・あ、お休みなさい・・・