マンスリー・プロジェクト情報


[演劇講座]
「どこから始まる? アメリカ演劇」
講師:常山菜穂子(慶應義塾大学教授)
10月16日(土)・23日(土) 5階情報センター

「アメリカ演劇」と聞いて、どのようなイメージが思い浮かぶだろうか。オニールやウィリアムズ、ミラーらのせりふ劇、あるいは華やかなブロードウェイ・ミュージカルだろうか。ただし、これらはどれも20世紀に入ってから発達したもので、20世紀以前のアメリカでは、植民地時代から19世紀を通じて、メロドラマや歌とダンスのショーといった大衆演劇文化が栄えていた。もちろん、これらの大衆演劇は、ドラマと言っても韓流ドラマも顔負けのラブロマンスや水戸黄門のような勧善懲悪の物語ばかり。それどころか、ろくなあらすじすらないものも多かった。しかしながら、これらを切り捨てて、アメリカ演劇は20世紀から始まるのだと決めてしまえるのだろうか。

1.大衆演劇への熱い視線

日本語で「演劇」とひとつの単語で言い表す芸術形態には、「ドラマ(戯曲テクスト)」と「シアター(上演、興業)」という2つの要素が含まれる。長らく、アメリカ演劇研究においては、「ドラマ」だけが演劇だと考えられ、歴史に書き残され、またアカデミックな研究の対象とされてきた。そのため、戯曲文学として価値のある20世紀以降の演劇のみがアメリカ演劇であるとされ、それ以前の大衆演劇は忘れ去られてきた。しかしながら、この価値基準自体がロマン主義以降の産物に過ぎず、もう片方の要素である「シアター」、すなわち「ドラマ」がいかなる条件のもとで上演され、それをいかにして観客が受け取るか、その社会的な部分を考慮する必要がある。

大衆演劇に着目する視点はアメリカ社会全体の変化から生まれた。1950年代後半から60年代以降、アフリカ系アメリカ人による公民権運動から始まったマイノリティ(少数派)の復権活動は、女性解放運動(ウーマン・リブ)、ゲイ解放運動、ヒッピーの思想と実践、学生を中心としたヴェトナム反戦運動などさまざまな分野に急速に広まった。こうした多文化主義(multiculturalism)の思想は演劇分野にも及び、①マイノリティ劇作家が作品を発表・上演するように、②過去のマイノリティ劇作家による演劇作品を発掘・再評価される、③今まで価値が低いとされてきたマイナーな演劇ジャンル(メロドラマ、ショー、ミュージカル等)が再評価される、という三方向の変化がわき起こったのである。

その結果、アメリカ演劇史の始まりもグっとさかのぼることになった。従来、アメリカ演劇は「アメリカ近代劇の父」と称される20世紀のオニールから始まると考えられてきた。というのも、アメリカ演劇史は、長い間、19世紀までの職人芸から20世紀以降の芸術へと「進化」したのだと規定する進化論的歴史観に支配されてきたからである。しかし、演劇が本質的に有する「シアター」の要素を再評価すれば、19世紀大衆演劇と20世紀以降の演劇は、価値判断基準が異なるだけで、どちらがより優等だとは序列化できなくなる。大衆演劇は400年あまりのアメリカ演劇伝統の最初の300年分を占めており、オニールやウィリアムズやミラーはごく最近の100年を代表するに過ぎない。

2.華麗なる大衆演劇文化

では、実際にどのような大衆演劇文化が栄えたのだろうか。
こんにちの合衆国の基礎となっている17世紀初頭に北東部にできたイギリス系植民地では、ピューリタンたちが厳格なプロテスタントの教えに基づく神権制共同体を設立した。そのため、17世紀の100年間、イギリス系植民地にはプロの演劇は皆無であった。荒れ地に新しく町を建設する過程で娯楽を楽しむ経済的・時間的余裕もなかっただろう。その後、共同体の発展と世俗化にともない、18世紀に入ってようやく演劇文化が芽生えるものの、いまだ娯楽に対する強い嫌悪感があった。そこでまず、道徳劇や宗教劇といった不信心、贅沢、飲酒、浮気などの害を説き、指導的教訓を与えるジャンルが発展した。

18世紀半ば以降、イギリスが七年戦争の戦費を賄おうと植民地に対する支配と増税を強化すると、アメリカは1776年に独立宣言を発布し、1883年に独立を果たした。宗主国から自由を勝ち取り、若い国家の政治・経済・社会システムの整備を急がねばならないナショナリズム勃興期には、ご多分に漏れず、祖国に対する忠誠心を鼓舞する政治的プロパガンダを主張する愛国劇が流行する。舞台上では、ジョージ・ワシントンら建国の英雄たちが祖国への愛を歌い上げ、激しい戦闘場面を舞台上で繰り広げた。愛国劇の舞台からは、勇敢で実直なアメリカ人像のヤンキーや、ヨーロッパとは異なる原始的な自然を体現する存在として、理想化されたインディアン・キャラクターなどが生まれた。

19世紀は大衆の時代である。第二次対英戦争(1812-14)と1820年代から40年代にかけて起きた産業革命を経て資本主義が発達し、1880年代には世界一の工業国へと成長した。独立から約100年で農業国から工業国へと大変身を遂げるのである。新たに中産階級と労働者階級が形成され、娯楽の担い手となった。彼らは一日の疲れを癒すために劇場へと向かう。となれば、センチメンタルでセンセーショナルな要素に満ち、最後には手軽にカタルシスが得られるメロドラマを求めたのも当然である。1852年には、のちに一大メロドラマ・レパートリーへと発展する 舞台版『アンクル・トムの小屋』が初演された。

同じく黒人奴隷を題材にしたジャンルでは、ミンストレル・ショーも世紀を通じて人気を博した。興行師P.Tバーナムの見世物(1842年アメリカ博物館開場)や、19世紀末に生まれたワイルド・ウェスト・ショーは、絶え間ない領土拡大と移民流入によってかき立てられた珍奇な物に対する大衆の欲求を満たした。また、都市部に集中した独身男性労働者層を対象に、女性美を売り物にするレヴューやレッグ・ショーが制作された。これら19世紀に花開いた大衆演劇には①視覚と聴覚に訴える、②庶民に身近なテーマ、③新奇への好奇心といった共通点が窺える。

植民地時代から19世紀末までの演劇文化を概観してみると、演劇と社会が密接な関係にあることが分かる。たとえば、愛国劇は独立建国期だからこそヒットしたのであり、21世紀の現在に上演されたとしても観客は到底望めまい。ハムレットの言葉を借りるならば、演劇は「自然を映し出す鏡」なのである。

3.分裂の訪れ

このような大衆演劇文化は、世紀転換期にはアメリカ演劇の中心から外れていく。
新しい工業形態の形成により階級の分離が進むと階級意識が高まった。急速な工業化の担い手として移民がヨーロッパから、やがてアジアからも大量に流入した。すると、人びとはアイデンティティ不安に陥り、隣人との差別化と階級間の序列化を強く求めるようになり、ハイ・カルチャーとロウ・カルチャーの区分付けも進んだ。

社会全体の分裂は演劇体験の分裂を惹き起こす。19世紀半ば以降は階級によって足を運ぶ劇場が分化するのと同時に、それぞれの劇場で上演されるジャンルも分化した。その際には言葉が重視され、せりふ劇はハイ・カルチャーとなる一方で、言葉以外の要素で物語を紡ぐ形式は、オペラを除いて全てロウ・カルチャーと分類されていく。さらに、分裂の境目は物語の主題にも現れた。世紀転換期になると、アメリカ人は高度な工業化により疎外感を味わうようになり、宗教の弱体化、家族と伝統的共同体の崩壊は帰属感の喪失につながった。このような近代人の苦悩を描き出す演劇が重宝され、メロドラマやショーは演劇史の表舞台から消えていったのだった。

もちろん、演劇の「ドラマ」は重要な要素であり、テクストを軽視して良いということではない。その一方で、アメリカには豊穣な大衆演劇が栄えた時代があり、それこそがアメリカ演劇伝統の源泉なのである。大衆演劇の「ドラマ」だけをみて芸術的価値がないと軽視するのは簡単である。しかし、大衆演劇が上演された状況(「シアター」の要素)も考え合わせて、それらがなぜ栄え、なぜせりふ劇に席を譲っていったのかという点に今一度着目するならば、20世紀以前の演劇もアメリカ演劇の欠かせない一部分となるのである。



常山菜穂子(つねやま・なほこ)
慶應義塾大学教授
慶應義塾大学大学院修了(文学博士)
専攻―アメリカ演劇文化

主要著書
『アメリカン・シェイクスピア』(国書刊行会、2003)
『アンクル・トムとメロドラマ』(慶大出版、2007)
翻訳『ハイ・ブラウ/ロウ・ブラウ』(慶大出版、2005)ほか