国際イプセン演劇祭
International Ibsen Festival

ノルウェー国立劇場前にあるイプセン像

インスピレーションを求めるノルウェー国立劇場

今月、新国立劇場で上演されている、『海の夫人』の作家、ヘンリック・イプセン(1828-1906)が、シェイクスピアに次いで世界で数多く上演されているのはご存知でしょうか。「近代演劇の父」とも呼ばれているイプセンは、日本の新劇に多くの影響を及ぼした人でもあります。
このイプセンの母国ノルウェーでは、国立劇場によって1年おきに「国際イプセン演劇祭」が催されています。国立劇場の公演と並んで、イプセンを上演する舞台が世界中からやって来ます。異なった文化の中でイプセンの劇がどのように解釈され、どうやって伝えられるのかを観るのはとても面白く、インスピレーションとなり、イプセンの劇についていろいろと考えさせられます。

イプセンとは……

イプセンの代表作には、『ペール・ギュント』、『人形の家』、『ヘッダ・ガーブレル』などがありますが、イプセンは、当時の礼儀や規範、因習に対して批評的な態度をもち、同時代の多くの人にスキャンダラスと考えられました。『人形の家』の主人公ノーラは当時の「新しい女」として、女性解放運動に大きな影響を与えましたし、今でも世界中の女性のインスピレーションとなっています。日本では、明治26(1893)年に『社会の敵』(未完)と、『人形の家』が重訳で翻訳されたのが最初だと言われています。新劇運動はイプセン劇の上演から始まったといわれるほど、イプセンは日本演劇史に重要な人物です。

国際イプセン演劇祭

1990年の9月に1週間の演劇祭として開催された第1回国際イプセン演劇祭は、現在は3週間にわたるフェスティバルになっています。2014年には24の演劇が披露され、公演全部とその他のイベントをあわせると263の項目に1万8千人もの客が訪れてきたという、ノルウェーでは最も大きく、最も重要な演劇祭になっています。もちろん演劇の公演が主ですが、演劇祭中には、それ以外のイプセンをテーマとする様々な催しがあります。ダンス、映画、役者や演出家が出演する談話会、オスロ大学のイプセン研究センター企画のセミナー、美術展、コンサート、ガイドツアーなどがあります。イプセン演劇祭が始まる前の時期には、演劇祭に向けて、ノルウェー中の高校でイプセンの劇が上演される「イプセンリレー」も行われています。 演劇祭中に授与される国際イプセン賞は、ドラマや劇作を対象にした世界で最も権威のある賞で、舞台芸術の分野における発展に大きな貢献を果たした個人や団体を表彰するものです。受賞者には250万クローネ(約4千万円)が贈られます。これまでは、ピータ・ブルック、アリアーヌ・ムヌーシュキン、ヨン・フォッセ、ハイナー・ゲッベルスが受賞していますが、2014年にはオーストリアのぺーター・ハントケに授与されました。
ハントケのユーゴスラビア戦争などに関する過去の政治的発言が原因で受賞に反対する人が多く、受賞の日には国立劇場前で抗議デモがあったほどです。でも、ハントケに決めた委員会は、「これこそ重要な討議で、意見があって当然である」という反応でした。ハントケに対して、賛成/反対していることとは別に、嫌なことも取り上げ、疑問を表し、スキャンダルを起こすことさえこわがらない。この態度こそイプセンらしいのではないでしょうか。こういうこともあり、国際イプセン演劇祭は、世界中から注目を浴びています。受賞者は、イプセンの誕生日の3月20日に発表され、同年の9月のイプセン演劇祭中に表彰されます。

演劇祭には今まで2回、日本の作品が披露されています。06年の名取事務所の、能を取り入れた作品『二人のノーラ』(人形の家)と、14年の劇団シェルフの『構成・イプセン― Composition/Ibsen』(幽霊)です。両方の制作にはイプセン劇に日本の独特な味が加えられておりノルウェーでも注目されていました。

ドイツのシャウビューネ劇場や、ベルギーのtg STANなど、現在の演劇界の最前端に立つ様々な劇団もフェスティバルを訪れており、新鮮なイプセンの解釈を見せてくれています。国際イプセン演劇祭を訪れる国々は、ヨーロッパの国々が圧倒的に多いのですが、中国、ブルキナファソ、モサンビーク、イラン、インドなど、文化的な差により、ノルウェーの演劇界を大きく刺激する作品もあります。

演劇祭のきっかけ…

この演劇祭は1990年に、当時の国立劇場芸術監督であったステイン・ヴィンゲ氏によって、初めて開催されました。演劇祭のきっかけはたぶん、誇りとしているノルウェー出身の世界的劇作家を世界に披露しよう、と思われるでしょうが、実はそれと全く反対といっていいほどだったのです。というのは、当時ノルウェーで上演されるイプセンといえば、もうみんなが知っている作品が来る年も来る年も同じ形で上演されて、古くなっており、観客はイプセンに飽き始めていたといっていいほどだったのです。ノルウェー人自身がイプセンを再発見するには、イプセンの劇に潜んでいる可能性と今の社会に問いかけている新鮮さを見いだすことであり、 外国からの刺激が必要だとヴィンゲは思ったのです。ですから、演劇祭では伝統的ないつも通りのイプセンを超える新しい解釈、考えさせられ、インスパイアされる新しいイプセンを見せることに国立劇場は尽くしているのです。

イプセンはかつて、ある翻訳家宛の手紙に、言葉通り正しく訳すより、その国で使われている言い回しや、実際に人が話し合うような自然な口調にしてほしい、と書いています。つまり、イプセンにとっては、舞台で違う世界を披露するのではなく、観客と読者の世界に入り込むことが重要だったのです。ノルウェーの国立劇場のもつアプローチも、現在、イプセンの劇が我々の人生になにか伝えるためには、我々の世界に入り込めるよう、大胆にまで変える勇気を持ってもいいのだと話しかけているようです。
国際イプセン演劇祭は1990年に幕を上げてから、200作品に近い国内外の制作を披露してきました。そして、その影響なのでしょうか? 第1回国際プセン演劇祭開催以来、日本、インド、中国をはじめ、世界の他の国でも、新たなイプセン演劇祭が開催されるようになりました。それは、世界中の人々に現在も呼びかけているイプセン劇の普遍性と柔軟性を表しているのではないでしょうか。

2016年の国際イプセン演劇祭

2016年のノルウェーでの国際イプセン演劇祭は9月に企画されています。 参加希望の劇団は今年の9月から応募することができますが、日本中で上演されている様々なイプセン劇の一つが国際イプセン演劇祭を訪れ、次のインスピレーションが日本からもたらされれば素晴らしいですね。そして劇団だけではなく、劇を愛する日本の方々も国際イプセン演劇祭を兼ねてのノルウェー旅行はいかがでしょうか。イプセンの劇をイプセンの母国で観るのも独特な味わいがあるものです。16年9月にノルウェー首都、オスロの国際イプセン演劇祭で会いましょう! フォッセ、グリーグ、ムンク、ヴィーゲランの国、そしてフィヨルドと白夜の国、ノルウェーへぜひどうぞ!

アンネ・ランデ・ペータス[演劇研究家・翻訳家]

<2015.5.13発行『海の夫人』公演プログラムより>