アデレード・フェスティバル
Adelaide Festival

音と光のインストレーション『Blinc』で発光するフェスティバル・センター (2015)

アデレード・フェスティバルの始まり

アデレードはサウスオーストラリア州の州都で、現在人口約129万人の都市である。ヨーロッパに似て果実作りに適した土壌に目を付けた自由移民が、1836年に建設した街だ。農業と鉱業が中心で他の州都と比べ発展が緩やかだったこの都市で、1950年代、それまで感じていた文化的疎外感の中から芸術に触れたいという欲求が高まり、英国のエディンバラ・フェスティバルをモデルとした芸術祭が構想された。1960年に始まった第1回芸術祭では、6つの交響楽、9つの独奏会、ジャズ、オペラなど、音楽が中心となるものだった。ほかに4演目の演劇、7つの芸術展、そして現在まで続く「作家週間」も含まれていた。以降芸術祭は偶数年の3月に開催され、舞台芸術、ビジュアルアーツの祭典として、回数を重ねていくことになる。

フェスティバルの発展

初回が地元のアーティスト中心だった芸術祭は、第2回にはインドのダンスカンパニーを招聘し、世界各地からアーティストが集まる「国際芸術祭」としての性格を色濃くしていった。70年代にはロイヤル・シェイクスピア・カンパニー、80年代にはピーター・ブルック、ピナ・バウシュ、ヤン・ファーブル、90年代にはチーク・バイ・ジョウルやDV8フィジカルシアターなど、時代ごとの著名な劇団、アーティストがアデレードに集まり、彼らの公演はオーストラリアの舞台芸術にも大きな影響を与えた。さらに、73年からは複合舞台芸術施設であるフェスティバル・センターが出来、芸術祭の中心地となった。
正規の芸術祭とは別に自主的にパフォーマーたちが集まるフリンジの存在も、アデレードでは重要だ。今日、エディンバラに次ぐ規模を誇るアデレードのフリンジは、正規の芸術祭の誕生と同じく60年に始まったものである。オーストラリアのノーベル賞作家パトリック・ホワイトの象徴主義的作品『ハムの葬式』が第2回の芸術祭での上演を拒否されたとき、代わりに上演されたのがフリンジだった。それ以来、フリンジは正規の芸術祭からはじかれてしまうラディカルな作品を吸収する役割を担っていたが、やがてパフォーマーたちの独立採算を旨とするために、今日ではあまり芸術的冒険の出来ないコメディ・ショーなどの演目が目立つようになっている。

先住民とのつながり

今日のオーストラリア社会と芸術において、先住民の存在はきわめて大きい。それが際だって見えたのが、2004年の回だった。先住民系コンテンポラリーダンス・カンパニーを率いるスティーヴン・ペイジが芸術監督を務め、先住民の芸術が数多く紹介された。しかしペイジは先住民の芸術一色にしてしまうことは避け、むしろそれまでのアデレードが保ってきた国際性を十分考慮し、世界の最先端の舞台芸術がアデレードへ集結し、先住民を含め地元のアーティストたちと出会うことによって、双方に意義あるフィードバックがされることを意図した。この回以降も、先住民芸術はアデレードの重要な要素であり続けた。映画化もされた先住民ミュージカル『ザ・サファイアーズ』(一〇年)、豪北端の小島に住む若い先住民ダンサーたちによるマルチメディアパフォーマンス『ロング・スキン』(10年)、豪北端の小島に住む若い先住民ダンサーたちによるマルチメディアパフォーマンス『ロング・スキン』(10年)、入植初期の白人と先住民との衝突を描いた『秘密の河』(13年)、「リア王」の物語を先住民が現在置かれている社会状況に当てはめた『影の王』(14年)など数々の先住民作品が、毎回のように上演され話題作となっている。

日本の舞台芸術

欧米以外の舞台芸術で、アデレードの観客に強いインパクトを与え続けてきたのが、日本の舞台芸術である。72年に文楽、78年に歌舞伎、88年に能が、芸術祭に招かれた。伝統演劇の他にも、転形劇場(84年)、山海塾(88年)、岸田事務所+楽天団(92年)、ダムタイプ(94年)、トモエ静嶺と白桃房(94年)、第三エロチカ(94年)、モレキュラシアター(96年)などの日本の現代舞台芸術が招聘されてきた。2000年の維新派による『水街』は、同劇団の初の海外公演だった。80人近くのキャスト・スタッフが日本から訪れ、フェスティバル・センターに隣接する公園にプールを含む大規模な野外セットを組み、その年の話題をさらう成功を収めた。
80年代に紹介された日本の舞踏はその後オーストラリアの舞台芸術に多大な影響を与えたし、岸田事務所+楽天団の演出家・和田喜夫のその後オーストラリア演劇界と実りある相互交流を開始した。このように日本の現代舞台芸術は、一度限りの公演では終わらない貴重な足跡を残してきたと言える。

今日のアデレード・フェスティバル

近年メルボルンやシドニーなど他の州都の芸術祭が成長し、アデレードの優位性が脅かされてきたこともあって、アデレードは、2013年より隔年から毎年開催へと舵を切った。14年の統計を見ると、50のイベントが行われ、チケット収入は230万ドル、観客の総数は42万5千人を超える規模になっている。
世界から集まる舞台芸術のインパクトを受けながら、近年ではオーストラリアのすぐれた舞台芸術がアデレードから生み出されるようになっている。最近の代表的なアデレード初演の作品としては、日本も含めて海外でも上演されているアンドリュー・ボヴェル作『その雨がやんだら』(08年)や、豪州を代表する児童劇団ウィンドミルのマルチメディア作品『スクール・ダンス』(12年)などがある。
13年からは歴代で20人目となる芸術監督にデヴィッド・シェフトンが就任、3年目となる今年(15年)も指揮を執った。今年の目玉はアメリカのビル・ヴィオラによるヴィジュアルアートで、市内3カ所の会場でその作品を無料で体験することが出来た。また、ニューヨークを拠点にするシダー・レイク・バレエが、アデレードのために創作した『オーボ・ノヴォ』を上演した。地元オーストラリアからは、これまでほとんど知られることのなかった、第一次世界大戦で戦った先住民の兵士たちの数多くの体験を一つの舞台に仕立てた『ブラック・ディッガーズ』も、今年のハイライトの一つとなった。

佐和田敬司[早稲田大学教授]

<2015.4.9発行『ウィンズロウ・ボーイ』公演プログラムより>