アヴィニョン演劇祭
Festival d'Avignon

2012年のアヴィニヨン演劇祭より

アヴィニョン演劇祭の歴史は、演出家ジャン・ヴィラールが1947年9月に開催した「アヴィニョン芸術週間」という1週間の小規模な演劇祭に遡る。その後、ダンス、映画、美術、音楽も加わり、演劇を中心としながらも、総合的な芸術祭となって、今日では、最もアクチュアルな舞台芸術の表現を知るための場として、国際的にも揺るぎない地位を獲得している。第68回となる2014年の演劇祭は、1282万€(1€=140円として約18億円)の予算をもとに、7月5日から27日まで3週間あまりにわたって開催され、のべ10万人を超える入場者数を数える。そこに、世界中から非公式に集まってくる1083のカンパニーによる1307作品(いずれも14年の数字)が上演された「オフ」をつけ加えるなら(これに対して「公式」の演劇祭は「イン」と呼ばれる)、規模においても知名度においても、アヴィニョン演劇祭が世界で最も重要な演劇祭であることはまちがいない。

日本とのつながり

パリのフェスティバル・ドートンヌがほぼ毎年、日本のアーティストをプログラムに組み、定期的に日本小特集を企画しているのに比べると、アヴィニョン演劇祭と日本のつながりはやや薄いといえるかもしれない。オフに参加する日本の上演団体・アーティストは毎年必ず存在するものの、参加団体が1000前後にのぼるなか、埋没せずに注目を集めるのは容易なことではない。近年では、06年の開幕を飾ったジョゼフ・ナジ振付『遊*ASOBU』(大駱駝艦のダンサーらが出演)、フレデリック・フィスバック演出『ソウル市民』(日本人俳優を起用)、翌07年にフィスバック演出『屏風』(江戸糸あやつり人形 結城座が出演)が上演(再演)されたことが記憶に新しい(これらはいずれも世田谷パブリックシアターが共同制作に加わってなされた)。04年から13年までディレクターを務めたヴァンサン・ボードリエとオルタンス・アルシャンボーの後を継いだオリヴィエ・ピィは、すでに静岡県舞台芸術センター(SPAC)との交流を通じて日本でも知名度の高い演出家・劇作家である。彼の指揮のもとではじめて組まれた14年のプログラムには、SPACが制作した宮城聰演出『マハーバーラタ~ナラ王の冒険~』、クロード・レジ演出『室内』の2作品が参加し、いずれも高い評価を得た。とりわけ『マハーバーラタ』は、85年にピーター・ブルックが同名作品を世界初演して伝説となったブルボンの石切場で上演され、観客から熱狂的な喝采を浴びていた。

アヴィニョン演劇祭のプロフィール

—— 主催者が挙げる数字をもとに
今日、アヴィニョン演劇祭(「イン」)の観客のざっと3分の1は地元アヴィニョン圏から、4分の1はパリ圏から、1割は国外からやってくるといわれている。アヴィニョンの直前に開催されるモンペリエ・ダンス(主に現代ダンス)、同時期に開催されるエクサン・プロヴァンス音楽祭(主にオペラ)、オランジュの古代ローマ劇場を舞台とした音楽祭コレジー・ドランジュ(主にオペラ)など、もともと豊かな観光資源と地中海性の気候に恵まれた南仏では、6月から7月にかけて芸術と観光の季節を迎える。フェスティバルは、まず市民、そして来訪者に、多様で質の高い文化に接する機会を提供している。また、短期間に催しが集中するうえに、国際性、実験性、意外性に富んだプログラムを提供するフェスティバルは、メディアも注目しやすく、都市の知名度やイメージの向上にも結びつきやすい。アヴィニョンの観客の中には500人のジャーナリスト・批評家が含まれ、アーティストとその作品、フェスティバルの存在、さらには都市の魅力がメディアを通じても世界に知られていく。さらに、7月はほとんどの劇場が夏季休館していることもあって、フェスティバルはアーティストにとっても知名度、将来の契約、収入が得られる貴重な場となっている。
こうしてアヴィニョンにはフランス、ヨーロッパ、世界各地から3500人の舞台芸術のプロフェッショナルが集結し、(フェスティバル、各種職業団体が開催する数多くのラウンドテーブル、セミナー、トークの場で)将来の舞台芸術と文化政策のあるべき姿を議論し、(劇場のロビー、フェスティバル・バー、レセプションなどの席で)人脈が形成され、交渉の末に上演作品のツアー先、次の作品の共同制作の相手が決まっていく。来訪者の宿泊や飲食、地元市民の雇用などを通じて、「イン」だけで2300万€の経済効果があることをフェスティバルは謳っている。つまり、フェスティバルは、新たな表現がつくり出され、観客の出会いと経験が生み出される場、文化と社会をめぐって議論が交わされる場、作品が売買され、ネットワークが構築される場、地元に雇用と経済効果をもたらす場となっている。それが(日本も含めて)世界的にフェスティバルが増加し続けている理由であろう。

批判と闘争の舞台としてのアヴィニョン

もちろん、すべてが薔薇色であるはずはない。かつて、五月革命に燃えた1968年には、アヴィニョンは「体制」派と見なされ、「文化のスーパーマーケット」として糾弾された。同時期には演劇のパリ中心主義的な「制度」を批判し、そこから距離をとるかたちで「オフ」が生まれている。一般的にフランスの新聞・雑誌の批評=批判は日頃から情け容赦ないものだが、ヤン・ファーブルをアソシエート・アーティストに迎えた05年には、「パフォーマンスの演劇」を中心に組まれたプログラムに対して、「テクストの演劇」を重視する立場から、とりわけ激しい批判が浴びせられた(「アヴィニョン論争」とも呼ばれている)。雇用制度改革に反対するアンテルミタン(※)の抗議活動によって 、03年のフェスティバルは開幕こそしたもののすぐに全面中止を余儀なくされたし、同じ理由で14年にも一部の演目が中止に追い込まれた。
こうした状況を「混乱」として否定的にとらえることはたやすい。だが、自らが批判の対象となることをおそれず(芸術が過去の批判的継承のうえに成り立つ創造行為であるなら、これは避けられないことなのだ)、芸術に関して、社会における芸術の位置に関して、公共の議論の場であり続けることこそが、今日におけるフェスティバルの第一の使命だといえるのではないだろうか。

  • アンテルミタンとは、舞台芸術と、テレビ、映画などの視聴覚産業の業界でフリーランスで働く労働者のことであり、失業保険制度の枠内で(つまり全民間労働者の拠出金によって)、雇用形態はフリーランスであっても例外として給与所得者と見なされ、契約と契約との間に失業手当を受けとることが可能となっている。たとえば、それによって俳優は映画やテレビの仕事をせずに食べていくことが可能になるように、アンテルミタンという雇用制度によってフランスの舞台芸術は持続可能なものになっている。だが、その一方で潜在的な赤字は巨額になり(3.2億€とも10億€ともいわれる)、その削減が課題となり、しばしば改革(受給資格の厳格化)が試みられては、アーティストたちの強い反発を引き起こしてきた。

藤井慎太郎[早稲田大学文学学術院教授]

<2014.12.3発行『星ノ数ホド』公演プログラムより>