タイ

二つの国立劇場

 タイのシンボル、王宮。その前の広場に面し、芸術大学、タマサート大学、国立博物館などが並ぶ、伝統と芸術が香る一画に優雅にたたずむ白亜の建物が、タイ国立劇場である。白壁とタイの伝統的なスタイルの赤土色の屋根が目を引くその建物は、1959年に建てられ、修復を重ねてきた。ここでは、「伝統文化の保存継承」という国立劇場ならではの使命が、過ぎるほど忠実に貫かれていて、月2回のコーン(仮面劇)、月1回のラコーン(舞踊劇)の上演など、自主公演はもっぱらタイの古典・伝統芸能である。同じ敷地内に、全国に12校ある王立舞踊学校の中心ともいえるバンコク校もあり、タイ古典芸能の聖地という空気に満ちた、タイの人々の伝統芸能への誇りと愛情を感じずにはいられない場所である。

 国立劇場が古典の総本山である一方、現代的な舞台作品を上演するために建設されたのが、タイ文化センター(TCC)である。1987年に、日本からの無償援助により建設された劇場で、2000席の大ホール、400席の小ホールに野外劇場や図書館、展示室や視聴覚教室も備えている。開館当初はいずれの施設も最新設備を整え、また、日本の対タイ無償援助としては当時最大規模(約64億円)、かつ、文化面における初めての支援ということで、とりわけ在タイの日本人の間では注目された。プミポン国王隣席のもと開会式典は執り行われ、杮落し公演は、日本楽劇協会による『夕鶴』が上演された。

 開館当初、周辺はなにもない野原であり、公共の交通アクセスもなく、自家用車でしか行けない劇場であった。2004年に地下鉄MRTが開通し、アクセスは劇的に改善されたが、演劇よりはオーケストラの演奏会やポップスコンサートなど、音楽イベントの利用のほうが多い。

繁華街の劇場

 TCCと同じMRTの駅には、シネコンやアイススケートリンクまでを有するエスプラネードというショッピングコンプレックスがあり、その中に、ブロードウェイスタイルのミュージカルを上演するムアンタイ・ラチャダライ劇場がある。芸能プロダクション系の制作会社が運営する、1500席を有する大劇場だが、人気タレントをキャスティングし、テレビドラマを舞台化したミュージカル作品の人気は高く、連日の興行かつ小劇場公演の何倍ものチケット代金であるにもかかわらず、劇場はいつもオシャレな観客でにぎわっている。年間を通し、タイで最も多くの観客を集めている劇場である。

 バンコク芸術文化センター(BACC)は、バンコク一の繁華街サイアムセンターに隣接し、都市交通BTSの駅から直結という好立地にある、バンコク都が所有管理するアートセンター。現代アートだけでなく、映画やパフォーミングアーツの紹介にも力を入れている。222席のホール、自由にレイアウトできるスタジオスペースがあり、昨年からはバンコク最大のパフォーミングアーツの祭典、「バンコクシアターフェスティバル」の会場としても使われるようになった。今年もまた、11月に同フェスティバルがここを中心に開催されることになっていて、街行く人々にパフォーミングアーツの魅力を伝えることであろう。

若者を集める小劇場

 これらの比較的規模の大きな劇場とは別に、タイで現代演劇を見ると言ったら、まずは、プリディ・パノムヨン・インスティテュートの中のパフォーマンススペースだ。立憲革命の立役者で、首相にもなった思想家プリディ・パノムヨンは、またタマサート大学の初代学長でもある。そのプリディの思想を受け継ぐ財団が運営するこの施設は、BTSの駅からも徒歩圏内にある。メインのホールは、劇場というよりは講堂だが、ほかに数十名が入るといっぱいになってしまう小さなスペースが複数あり、劇団クレッシェント・ムーンと劇団B-Floorという二つの老舗劇団が、そのオフィスとスタジオをこの中に構えている。演劇に振れ始めたタイの若者が必ず通う場所である。

 タイの演劇青年が通い詰めるであろうもうひとつの劇場は、ルンピニにあるデモクレイジー・シアター・スタジオだ。100人も入れない劇場だが、2000人を超えるクライアントリストを管理する、現在最も活気あるパフォーマンススペースである。上演作品もコンスタントに質が高い。
 バンコクの小劇場の草分けは、1992年にチャオプラヤ川沿いにオープンした、当時としては画期的なスペースであったパトラバディ・シアターだ。当初はシアターレストランと野外劇場のみだったが、97年にブラックボックスのスタジオを増設し、都市部から渡し舟に乗って行くというアクセスの不便さにもかかわらず、公演には多くの観客が足を運んだ。

 2005年からの数年間、バンコクに小劇場ブームが起き、小さな劇団がこぞって自分たちのスペースを持った時期があった。最盛期には10を超えるスペースがあり、市場の中、街中の交差点沿い、古いビルの中など、それぞれのグループの特徴がよく表れた個性的な空間のオーナーとなった。しかし、ほんの数年でみな消滅してしまい、パトラバディ・シアターも今はもうない。そのなかから生き残った骨太の小劇場がデモクレイジー・シアター・スタジオなのである。

劇場のない劇場、リケー

 タイの劇場はどこも、ほぼ間違いなく、エアコンが効きすぎていて、うっかり上着を持たずに行くと凍りつくほど体が冷えてしまうことになる。そんな心配とは無縁なのが、リケーの上演空間だ。リケーは100年以上の歴史をもつ大衆芸能で、派手な衣装に濃いメイクの人気役者たちが、歌や巧みなアドリブで観客を沸かせる。彼らは仮設の舞台や背景幕やセットとともに移動しながら、公園の一角も寺院の庭も、時には市場の裏の駐車場も「劇場」にしてしまう。劇場という建物をもたない劇場であり、都市部でも地方の小さな村でも愛される、タイの人々の生活の中に息づいている劇場である。

劇場で体感するタイ

 タイの劇場や映画館で、上演・上映の前に必ず流れるのが「国王讃歌」で、音楽が止むまで、観客は起立していなければならない。小さな公演だと演奏されないこともあるが、タイで観劇の機会があったら、劇場の効き過ぎのエアコンと、上演前の起立は是非体験していただきたい、タイならではの劇場体験である。

千徳美穂 (元・タイ文化センター客員リサーチャー)

<2014.6.11発行『十九歳のジェイコブ』公演プログラムより>