イタリア

 これはまたとない、頭の体操だ。イタリアでの出来事を別の島の国民に説明すべく、なじみの「島」の形を切り取ってみせねばならぬとは。

 文筆業を営む者の目には、日本は様々なジャンルとして確立する素晴らしい伝統文化の集積地であるばかりか、本来的に演劇性をはらむ土地であるように映る。日本そのものが、多彩な風景を象徴的に物語り、人間の営みがもたらしうる多様なあり方を見せてくれる土地のように思えるからだ。同様に、イタリア人である私たちも、イタリアの惹起力を自覚している。イタリア演劇と言えば、コメディア・デラルテであり、ピランデルロであり、さらにエドゥアルド・デ・フィリッポであり、ダリオ・フォーとフランカ・ラーメ(偉大なる喜劇女優にしてノーベル賞受賞作家フォーの生涯のパートナー。本年5月に83歳で逝去)を誰もが思い起こすということを自覚しているのだ。

 一つの島から、別の島に語りかけるのは、デリケートかつスリリングな試みだ。というのも、イタリアには無数の島があることを十分承知した上で、あえて自分たちの中身を直視せざるを得ないからだ。イタリアには、演劇を行う個人やカンパニーの数だけ島があり、彼らはそれぞれ異なる国の住人でもある。まさにエウジェニオ・バルバが言うところの「漂う島」だ。つまり、「漂う島は、足下で消えてしまいかねない不確かな土地だが、そこには出会いがあり、個人の限界を越えられる」。ノルウェーに移民したイタリアの巨匠はさらに「漂う島々のかなたには、何が存在するのだろうか?」と自問する。オーディン・テアトレットの創設者バルバが出した答えは、「国や文化を住処とする人々が存在する。さらには、自らの肉体を住処とする人々が存在する」だった。

伝統と変化の狭間で

 かくして、一つの言語と文化の表出である「国立劇場」とは何か、という問いが生じる。イタリアに「国立劇場」は存在するのだろうか?

 ある意味、存在しないのだ。明らかに制度としては存在しない。文化財・文化活動省のもとでイタリアの演劇・音楽・ダンスのイベントの推進・普及をはかってきたイタリア演劇庁(ETI)が2010年の法令により廃止され、1942年以来ずっと、舞台活動を一括調整してきた機関が消滅したからだ。それにともない、特にイタリア国内の“裕福でない”地域での文化推進活動や外国との渉外など、ETIが担ってきた重要な機能のいくつかが消滅した。部分的であるにせよ、ETIは舞台芸術団体をイタリア全土に紹介したり、国外のいくつかの国々への窓口としての役割も担っていたのだ。さらに、ETIは4つの歴史的な劇場、ローマのヴァッレ劇場、クィリーノ劇場、フィレンツェのペルゴラ劇場、ボローニャのドゥーゼ劇場を直接の管轄下に置き、ある種大胆で創意に富む運営を行っていた。

 これらの劇場の変化は、今日イタリアで芸術が置かれている状況を極めて象徴的に物語っている。

 ローマでは、クィリーノ劇場は、公募によって選ばれた団体によって民営化され、商業プログラムを組んでいるが、いわば伝統的な常設劇場のプログラム選択を踏襲している。一方、ヴァッレ劇場は、2年前から舞台芸術関係の不定期労働者の若者たち(フランスで言う「アンテルミタン」に類する人々)が占拠中である。彼らは、首都の歴史ある劇場を市民の憩いの場にしようとしており、賛否両論、物議をかもしている。

困難な時代だからこそ生まれるもの

 こうした状況は、政治から芸術まで、すべての分野で進む二極化を反映している。実際、保険制度から文化まで民営化がますます進む一方で、近年の経済・政治危機で社会の対立が鋭敏化し、自発的・市民運動的な運営の事例が増えている。

 しかし、地方自治体が運営し、イタリアの主要な都市に存在する常設劇場は生き残る。首都ではローマ座が、18世紀の壮麗な劇場空間アルジェンティーナ劇場を本拠地とし、来シーズンは、ルーカ・ロンコーニ、ペーター・シュタイン、エリオ・デ・カピターニ、アントニオ・ラテッラなどそうそうたる演出家による作品を上演する。というのもイタリアでは、いまだに「演出」こそが作品の強力な旗印なのだ。「演出」とはすなわち、批評的考察の実験の場であると考えられ、終戦直後、ジョルジョ・ストレーレルとパオロ・グラッシがミラノのピッコロ座を結成した際に意図していたものとそう変わらない。1947年に二人が創設したピッコロ座もまた、イタリアが誇る偉大な常設劇場であり、ヨーロッパ劇場とも称されるが、近年はルーカ・ロンコーニ(ローマの芸術家だがミラノに移り住んだ)が指揮をとっている。

 数年前より、ローマ座はもうひとつ非常に斬新な空間を利用している。間もなく改修が始まるインディア劇場だ。この空間で、すでに数々の興味深い芸術的試みが誕生している。昨シーズン、ディレクターのガブリエーレ・ラヴィアは、18の「独立系」カンパニーに彼らの裁量で自由に使うようこの空間を委ねた。唯一の縛りは、作品のテーマだ。広い意味での「喪失」。恋愛の喪失、アイデンティティーの喪失、記憶喪失……。パフォーマンス、セリフ劇、観客が内部で行き先を失ってはまた見つけるという巨大なインスタレーション。まさに、この試みのタイトル“Art you lost?”だ。喜ばしいことにこの試みは一発花火には終わらず、独立系アーチストたちのなかから、アルジェンティーナ劇場のシーズン演目を担う者(リサ・フェルラッツォ・ナトリ、アンドレア・バラッコ、アントニオ・タリアリーニ、ダリア・デフロリアン)が登場している。

 このようなやや特殊なケースは別として、公立劇場と独立系カンパニーをつなぐ、法や公的機関による支援はない(数年来、舞台芸術分野における法的枠組みの不在が問われている)。しかし、玉石混淆の状況ではあるものの、劇場に足しげく通うファンにとって、パフォーマンスアートにせよ新作演劇にせよ、コンテンポラリーの分野における多彩な作品群は注目すべきものがある。劇場の数は増えており、政治・経済が危機に瀕している現在、イタリア人は未だかつてないほど演劇や音楽やダンスが行われている場所に再び足を運ぶ必要性を感じている。先日こうした話題を、2009年に大地震が襲ったラクィラの市長マッシモ・チャレンテと話したのだが、彼はこう言っていた。
「地震の悲劇の直後、街の人々は自宅に閉じこもることはせず、劇場に出かけなければと考えた。舞台やコンサートのシーズン通しチケットの売り上げは倍増した。現在、1200席の劇場を建築中なのは偶然ではない」

 アーティストは、アーティストとして自分たちの使命を強く意識している。そして彼らのプロダクションのなかで、我々を取り巻く状況への危機感を訴え続けている。こうした姿勢はオリジナル作品であろうと、古典作品の上演であろうと変わらない。自ら劇団を率いる希代の名優トニ・セルヴィッロ(有名な映画俳優にして、伝統的な演劇カンパニーの座長でもある)が、最近エドゥアルド・デ・フィリッポの古典『インナーヴォイス、内なる声』を上演し、大成功を収めたのが好例である。

 第二次世界大戦中と同じように、現在、イタリアの舞台人たちは、国家が直面している危機に対する責任を感じ、作品のなかで危機を訴えている。世界は変わり、ヨーロッパは変わり、イタリアは根底から形を変え、社会は解体された。であるからこそ、アート・シーンもひとくくりにはできない。だが、個々の事例の多極化と分化のなかに、歴史上、重大な経済・社会的危機に瀕するイタリアでいつも豊かな実を結んできた、あの豊穣なる創造の抵抗運動の兆しを見いだすのは難しくない。

 最後に、日本の観客にアルジェンティーナ劇場の秋から始まる新シーズンは、10月4日、近松門左衛門の『曽根崎心中』完全オリジナル版で幕を開けることをお伝えしたい。文楽のイタリア初公演として、観客・批評家双方から熱い期待が寄せられている。

カティア・イッパソ [ジャーナリスト、舞台批評家、劇作家]

<2013.7.2発行『象』公演プログラムより>