ドイツ

ドイツにナショナルシアターはない?

ドイツの有名な劇場には、通称名が「国立」になっているところが多い。たとえば今秋来日公演が予定されているバイエルン国立歌劇場は、その典型的な例だ。実際には同劇場は、バイエルン州が財政上の負担を引き受けて運営している州立劇場である。ベルリン三大オペラ座のひとつであるベルリン国立歌劇場も、特別州に当たるベルリン市が財団運営上の財政負担を引き受けている。このようにドイツでは、ナショナルシアター(国立劇場)という呼称は劇場の運営形態と合わない。もちろん州立であろうが市立であろうが、各劇場の芸術レベルは非常に高い。それは州や市が劇場の芸術活動に多額の財政上の支援を行っている成果だが、そもそもドイツには国立の劇場があまり見当たらないのも事実である。

その理由は、戦後の西ドイツがヒトラー時代の苦い過去を克服するために地方分権制を採用したからである。戦前のヒトラー政権時代に劇場は国営化され、ナチスの宣伝に利用された。戦後、ドイツは東西に分断されたが、西ドイツではナチス時代の苦い過去を繰り返さないために、文化や教育は地方自治体(州、市)が運営を担い、国家は介入しないという「州の文化高権」が確立された。国の憲法にあたる基本法で表現の自由の一環としての芸術、学問、研究、教育の自由を保障し、各州の州憲法で、文化、芸術、学問の保護と助成をうたう。つまり国は基本法で表現の自由の理念を掲げ、その実施は州が責任を負う仕組みだ。言い換えれば、国は文化行政を州にまかせ、口も金も出さない。ところで冷戦時代には、分断されたドイツのもう片方である東ドイツは中央集権型の社会主義体制を採用した。劇場は文化省の管轄となり、社会主義を国是とする国家の管理下に置かれていた。一九九〇年のドイツ再統一にともない、東ドイツの劇場も西ドイツの地方分権制に組み込まれ、以後さまざまな曲折を経て現在にいたっている。

このような現代史を踏まえると、各地方自治体が運営するローカルな州立劇場、市立劇場こそが、実質的にはドイツのナショナルシアターと言えるだろう。州立劇場、市立劇場は、芸術の国家統制をはねのける文化装置として地方自治体から手厚い保護を受け、それを誇りに活動しているからである。予算は実に潤沢で、他国の国立劇場を凌駕する州立・市立劇場がドイツ国内にはごろごろしている。ドイツにはナショナルシアターがいたるところにあると考えれば実態に近い。

手厚い財政上の措置

一口に劇場といっても、(1)地方自治体が運営する公共劇場、(2)公的助成金で運営される民間劇場、(3)助成金に頼らない民間劇場、というふうにおもに三種類に分かれる。(2)は民間だが、実態としては(1)と同様、地方自治体の財政支援によって運営される。ベルリンを例にとると、三つのオペラ座(財団による運営)や演劇専門のドイツ座、フォルクスビューネなどが(1)の公共劇場、ベルリナー・アンサンブルやシャウビューネは(2)の公的な民間劇場にあたる。また、劇場助成とは別に団体助成の制度が市にはあり、ダンス・カンパニーのサシャ・ヴァルツ&ゲスツはこの枠で活動している。市内の繁華街や文化的な地区には(2)や(3)の小劇場も多い。

(1)と(2)の公的劇場の最大の特色は、劇場が演出家、俳優、ダンサー、歌手、ドラマトゥルク、美術、照明、衣裳、管理スタッフらを多数雇用している点にある。当然ながら、運営主体である自治体の負担は相当な額になる。ベルリン市の例を挙げると、同市は566名の常勤スタッフを有するドイツ・オペラに3800万ユーロ(45.6億円)、297名の常勤スタッフを有する演劇専門劇場ドイツ座に1900万ユーロ(22.8億円)を出すなどして、(1)のカテゴリーの公共劇場だけでも一シーズン当たり17000万ユーロ(204億円)を支出している(2008/2009シーズン)。

これがドイツ全体になると、膨大な額になる。これを感覚的につかむために、チケット一枚当たりの助成額を概算してみよう。ドイツ舞台協会(Deutscher Buhnenverein)が毎年発行する統計資料『Theaterstatistik』には、113の自治体の146の公共劇場組織の収支内訳が掲載されている。その08/09年版によると、人件費を含む劇場運営費の国内総額は26.7億ユーロ(3204億円)。そのうち国や地方自治体など公的機関の負担総額は21.3億ユーロ(2556億円)である。ドイツの劇場全体の年間入場者数は延べ2135万人なので、チケット一枚当たりに投入されている税額は約100ユーロ(12000円)となる。

概算とはいえ、チケット一枚に100ユーロもの税金が使われている事実には驚かされるが、ドイツの総人口8175万人を考えると、21.3億ユーロは一人当たり26ユーロ(3120円)になる。各州が州憲法で文化活動の助成を明文化していることを思えば、一人当たり26ユーロは妥当な範囲かもしれない。(※1ユーロ=120円で換算)

ナショナルな文化は伝統の書き換えをめざす

このように手厚い財政上の手当てがなされていることからもわかるように、ドイツの劇場は正真正銘のナショナルな(国民的な)文化育成機関である。街の中心に建てられた公共劇場は、社交の場としても、教育の場としても、都市の顔としても、象徴的な意義をもっている。ただ、興味深いことに、ドイツの劇場文化におけるナショナルの意味合いは、伝統の書き換えに重点が置かれている。たとえば私たちがドイツ旅行中にゲーテの『ファウスト』を観る機会があるとしよう。受付でチケットを買い、席に座ると、目の前に始まる芝居には現代的な装いが与えられていることが多い。衣裳も音楽も現代風。演出家は作品の大胆な解釈を提示して、観客の感性を揺すぶるのである。『ファウスト』が書かれた一八世紀から一九世紀にかけての社会風俗を思わせる衣裳や装置はどこにもない。

ドイツ演劇には、野心的な才能が次々に登場している。彼らは近代の伝統を前にして、その書き換えを精力的に行い、支持層を拡げている。ドイツの劇場には、古き良きヨーロッパを現代化する情熱が満ち溢れていると言えるだろう。

新野守広[ドイツ演劇、立教大学教授]

<2011.5.10発行『鳥瞰図』公演プログラムより>