R.シュトラウス ばらの騎士
元帥夫人:カミッラ・ニールント
オックス男爵:ペーター・ローゼ
オクタヴィアン:エレナ・ツィトコーワほか

ジョナサン・ミラー2

一幕の最後に、元帥夫人がオクタヴィアンを自分のもとからキスもせずに去らせてしまって、一人部屋に残ってタバコを吸って、雨が降っている窓のところでたたずむシーンがある。そのシーンでは、大粒の雨が降っているのだが、その効果がお客様に伝わるとは限らない。舞台においてリアルな演技を要求するミラー氏の心は、本当にその人たちがそういう気持ちになることがお客様に伝わることはもちろん大切だが、ダイレクトにその行為が伝わるというよりも、その気持ちが他の出演者に移っていくことを大事にする演出家である。
昔の黒澤明監督の映画「赤ひげ」の、赤ひげ先生の診療シーンで、薬箱と呼ばれる小さい桐だんすみたいなもののシーンを撮った時に、黒澤組のスタッフの方々は、三船敏郎扮する赤ひげ先生がその箱を開けるシーンはなかったにもかかわらず、全部薬を入れていた。撮影中一度も開かなかったのに薬を入れていたそうである。
オードリー・ヘップバーンも、いつもイミテーションでなく本物の宝石をつけて香水を振りまいて演技をしたそうだ。それは普段からそうしているわけではなく、たとえスクリーンの向こうのお客様には香水のにおいは伝わらず本物のダイヤか偽物かの区別もつかないとしても、身につけている本人の身の引き締まり方が違うからそうするそうだ。
私が演劇で蜷川幸雄氏のカンパニーにいた時も、目の前で大竹しのぶさんが涙している姿を見て、その涙が移ったことがある。それをもし、お客様にわからないからと目薬をさして泣いているふりをすれば、やっぱり違うだろう。見た目では涙と目薬の違いはわからなくても、本当に涙すればその本物の感情はどんどん近くの人から広がっていくと思う。
ミラー氏は、例えば子供たちが楽しく遊んでいるシーンについても、日本ではケンケンパーという遊びがあると聞くと早速ケンケンパーをやらせたりする。恐らくその遊びを観客に見てもらうというより、子供たちに本当に楽しいという感情を引き出すためにやっていると思われる。舞台でその動きを見せるだけでなく、感情が伝播していくことを大切にしている。ジョナサン・ミラーは、そういったすごく自然な動きというものを要求する人である。