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| 2012/2/29 |
沈黙 2012年2月29日(水) 東京新聞(石戸谷結子・音楽評論家)
余韻残す感動的な幕切れ
極限の苦しみの中で神の存在を問うという重いテーマを扱った遠藤周作の「沈黙」。その小説に感銘を受けて作曲された松村禎三のオペラ「沈黙」が新演出上演された。一九九三年の初演以来、上演を重ね、新国立劇場でも二度目の新演出となる。
キリシタン禁制の時代に、ポルトガルから来日した宣教師ロドリゴは、厳しい弾圧の果てに、ついに踏み絵を踏む・・・。辛く暗い物語だが、松村禎三の音楽は美しい響きの合唱やアリアが多く、救われる。また、管弦楽に厚みがあり、緊迫感あふれる音楽が続く。さらに原作にない若い恋人たちを登場させ、愛のアリアが歌われるなど彩りが添えられている。
台本も作曲者が書いただけに、日本語のせりふと西洋音楽の違和感も少ない。あらためてこの作品が日本オペラの傑作に数えられることを再認識させられた。 下野竜也の指揮は、精緻で緊迫感があり、雄弁に作品の内容を表現していた。歌手では小餅谷哲男が深い表現力と安定した歌唱で主役ロドリゴを熱演。物語の狂言回し役、キチジローの星野淳も、複雑なキャラクターを好演した。またオハルの高橋薫子も心に響く歌を聴かせた。 演出は演劇部門の芸術監督・宮田慶子。大きな十字架が主な装置という簡素な舞台だが、場面転換が速く飽きさせない。オーソドックスで解りやすい演出だが、最終場面に余韻を残す。この解釈に異論もあるだろうが、感動的な幕切れとなった。 今回は中劇場での上演だが、オケ・ピットが狭く、楽器の一部は他の部屋での演奏となった。しかし親密な空間での上演だけに、舞台と客席の間に、熱い一体感が流れた。 ●19日 新国立劇場中劇場 |
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| 2012/2/28 |
沈黙 2012年2月28日(火) 日本経済新聞(江藤光紀・音楽評論家)
ひたひたと迫る心の流れ
作曲家・松村禎三が13年の歳月をかけて台本から完成させたオペラ「沈黙」(原作・遠藤周作)。新国立劇場が上演するのは2000年以来二度目だが、演出以下、キャストを入れ替えての新制作だ。
弾圧を受けるキリシタンを救うため来日した宣教師ロドリゴ(小餅谷哲男)は、長崎奉行・井上筑後守(島村武男)に捕縛され棄教を迫られる。かたくなに拒むロドリゴの目の前で、信徒たちは水責め、逆さ吊りなど、拷問の限りを受け死んでいく。ロドリゴは救いを求めて神の名を叫ぶが、神は黙したまま。処刑の朝、ロドリゴはついに踏絵を踏む。
プリミティブなエネルギーを炸裂させる松村のオーケストレーションが、重い物語を生き生きと描いている。美しいアリアや祈りのアカペラも随所に盛られているが、言葉は語りや叫びと朗誦のはざまを行きかい、メロディーにまでは育たない。そのぶん日本語は聞き取りやすく、演技の余地が増え、リアリティが強まって演劇に近づく。 児童合唱を彩り豊かに飾り、祭りを華やかに見せるなど工夫もあったが、オペラ初演出の宮田慶子の演劇寄りのアプローチは主題に一層の重みを加えた。転向を繰り返すキチジロー(星野淳)の演技はその典型だ。第二幕ではロドリゴの心の揺れが、咆哮を繰り返す管弦楽(下野竜也指揮東京交響楽団)と絡まって、ひたひたと迫ってくる。 「沈黙」が松村の金字塔であることを改めて印象付ける、水準の高い公演だ。しかし終演後に鉛を飲んだような胸のつかえが残り、数々の処刑場面や獄中の極限状態の長い描写も、娯楽としてのオペラの域を逸脱しているようにも感じられた。作品の上演機会が必ずしも多くない理由だろうか。2月17日、新国立劇場。 |
| 2011/12/20 |
ルサルカ 2011年12月20日(火) 読売新聞(安田和信・音楽評論家)
演出の創意 プラスに作用
新国立劇場によるドヴォルザークのチェコ語オペラ「ルサルカ」。珍しい演目を取り上げたという以上の意義をもつ公演だった。
2年前にノルウェーで初演されたポール・カランの演出は穏当なもの。冒頭と幕切れに少女の寝室が現れ、すべては夢物語と示唆する点は原作にない。だが、人間の王子との恋ゆえに分を弁えず人間になった水の精ルサルカの行為に潜む寓話性を強調したものと言え、原作のおとぎ話風な構成を鮮明にした。 恋に破れて苦悩するルサルカを救済するには、彼女の口づけで王子が死なねばならないが、今回の演出では死なない。ドラマの根幹を変えたこの設定変更は、さすがにいただけなかった。
それでも、全体的に薄暗い舞台が、繊細な変化に富む照明、色に象徴的意味を込めた衣装等によって単調さを回避するなど、演出の創意がプラスに作用した部分は少なくなかった。 ルサルカ役のソプラノ、オルガ・グリャコヴァは第1幕こそ調子が上がらなかったものの、それ以降は安定感を失わず、重責を果たした。一途な想いを持ち続ける清楚な水の精というにはヴィブラートが過剰だったが、ワーグナーばりの雄弁さを見せる管弦楽の向こうを張るには致し方ない。 王子役のテノール、ペーター・ベルガー、王子を誘惑する公女役のソプラノ、ブリギッテ・ピンター等がとくに安定した歌唱を聴かせてくれたのも印象に残る。東京フィルを振ったヤロスラフ・キズリンクの手堅い制御も音楽面の充実に貢献していた。 ―11月29日、初台・新国立劇場。 読売新聞社の著作物について |
| 2011/12/12 |
ルサルカ 2011年12月12日(月) 朝日新聞(伊東信宏・音楽評論家)
あふれる瑞々しい旋律
ドボルザーク晩年の「ルサルカ」を見た。ノルウェーの国立オペラで芸術監督を務めるポール・カランの演出(12月3日、東京・初台の新国立劇場)。
ルサルカは水の妖精だが、人間の王子に恋をしてしまう。魔女に人間の姿にしてもらって王子の心を射止めはしたものの、移り気な王子の裏切りにあい、傷ついて湖に帰る――という一種の「妖精譚」。音楽はどこを切っても瑞々しい旋律にあふれている。チェコ語という壁さえなければ、もっと親しまれていてもよいオペラだ。 ルサルカを演じたオルガ・グリャコヴァは、決してオーケストラに埋もれない声量の持ち主で、しかも十分に柔軟な歌いぶり。対するペーター・ベルガーによる王子も、若々しい声で役柄にぴったり。魔女など脇を固める歌手陣も総じて隙がない。
加えてヤロスラフ・ギズリンク指揮の東京フィルハーモニー交響楽団が良い。その表情豊かなアンサンブルは、筆者がこれまで新国立劇場で聴いた演奏の中でも最上のものの一つだ。 舞台は、第1幕の幻想的な湖の世界から、第2幕のゴージャスな結婚式シーンまで、見どころが多い。第2幕、舞踏会の音楽のシーンで、合唱団の歌手たちを動かしながら、ルサルカの孤立を描いてしまうところの演出の手際は見事だった。 本来は、ルサルカのキスを受けて、改心した王子が命を落とすところで終わるのだが、この演出では王子はむっくり起き上がる。そしてラスト数十秒で、冒頭と同じ、ベッドでルサルカが寝ている情景が戻ってきて幕が落ちる。最新の機構を総動員した「夢落ち」。多少強引ではあるが、悲恋の物語をなんとか救出したかったのだろう。 「サロメ」の数年前のオペラということを考えると、少しロマンチックにすぎるかもしれないが、美しい舞台だった。 |
| 2011/11/30 |
ルサルカ 2011年11月30日(水) 日本経済新聞(岡本稔・音楽評論家)
抒情的な美感生かした演奏
新国立劇場がドヴォルザークの「ルサルカ」を上演している。(12月6日まで)。
水の精ルサルカは水浴に来る王子に恋をし、魔法使いに頼んで自分も人間の姿にしてもらう。王子と結婚したルサルカだが、人間界では言葉を発することができず、やがて王子に裏切られる。水の精ヴォドニクの呪いによって自らの罪に目覚めた王子はルサルカのところに赴き、彼女の死の口づけを受けて息絶える。 プロダクションはノルウェー国立オペラ・バレエから移行したもの(2009年制作)。その芸術監督ポール・カランの演出による。
水を表す青を基調とした舞台は幻想的な美しさが印象的。冒頭で現れたルサルカの家が最後の場面で戻ってきて物語全体をルサルカが見た幻想として読み替えた手法も説得力があり、物語を悲劇的な結末から救っている。 指揮のヤロスラフ・キズリングはチェコ出身でスロヴァキア国立歌劇場の首席指揮者をつとめる。ドヴォルザークの音楽が持つ抒情的な美感を生かした演奏が特徴的で、その瑞々しい味わいは特筆に値する。東京フィルハーモニー交響楽団がそのタクトに的確に反応していた。 ルサルカ役のオルガ・グリャコヴァは透明な声を駆使して水の精を好演。第1幕の幕切れから第2幕の前半にかけての言葉を発することができない場面でも、巧みな演技によって存在感を示した。魔法使いのピルギット・レンメルトの性格表現も秀逸だ。王子のペータ・ベルガーは第1幕では高音の発声に若干難があったものの、曲の進行とともに改善された。ヴォドニクのミッシャ・シェロミアンスキーの歌唱も手堅い。 新国立劇場にとって初のチェコ語によるオペラ。上演機会が少ない中欧の作品を紹介した意義は大きい。26日。 |
| 2011/11/8 | |
| 2011/10/25 |
イル・トロヴァトーレ 2011年10月25日(火) 読売新聞(松平あかね・音楽評論家)
内面えぐる 低弦の響き
新国立劇場のシーズンが新制作のヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」で開幕。憎悪の連鎖がひきおこす悲劇だが、台本にはない死神が、つねに舞台を闊歩する演出(ウルリッヒ・ペータース)が少々わずらわしい。
たとえば吟遊詩人マンリーコが歌う背後で、その恋人レオノーラに死神がしのびよって花束をわたす芝居。意図はわかるが、本来歌い手へ注がれるべき視線が逸れてしまい、場の緊張感がそがれるきらいがあった。
とはいえ主役はやはり音楽。イタリアオペラの王道をゆく作品だけに、歌い手には技術や表現はもとより、第一に「声」が求められる。なかでもマンリーコ役ヴァルテ・フラッカーロは音程が不安定なところもあるが、強くしなやかな声は魅力だ。とくに「愛情をあいつに売ったのか!」と恋人に疑念をぶつける場面では、声色にかすかな甘さを加える。これに菅と弦が半音階上行で寄り添うと、怒りというよりはむしろ愛の苦しみの側面があらわになった。 だがこの日、ドラマを牽引したのは管弦楽(ピエトロ・リッツォ指揮東京フィルハーモニー交響楽団)だ。とりわけ心理描写のこまやかさが光る。とくに終幕、火刑を待つ身となったジプシー女アズチェーナ(アンドレア・ウルブリッヒ)が「私の眉の上にあらわれているのは、死のしるし!」とつぶやく場面のこと。うめくような低弦を背景に高圧的な菅をとどろかせ、目前にせまる死の恐怖をまざまざと浮かびあがらせたのである。 旋律美と人物の内面をえぐり出す音楽の残酷さ。この両極のせめぎ合いこそが作品の肝であると、あらためて感じた。 読売新聞社の著作物について |
| 2011/5/24 |
尾高忠明芸術監督による特別企画 コジ・ファン・トゥッテ〈演奏会形式〉
2011年5月24日(火) 読売新聞(三宅幸夫・音楽評論家) カヴァー歌手 驚嘆の役作り
新国立劇場が本公演を前にして、モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」を演奏会形式で上演した。ふだんは陽の目を見ることのないカヴァー(控え)歌手と、菅打楽器をピアノで代用し編成を縮小したオーケストラだが、どうしてなかなかのインパクトだ。
それは、まずもってヘッド・コーチ石坂宏の指揮によるところ大といえよう。ともすれば孤立しがちなナンバーの数々を自在な呼吸で束ね、滞ることのない音楽=ドラマの流れを生み出す。皮肉なことに、これまでの同劇場における上演水準をはるかに突き抜ける瞬間も多々あった。
そしてカヴァー歌手たちの、コミカルな身振りをまじえた役作りも驚嘆に値する。これをそのまま大劇場に移して通用するかどうかは未知数だが、たとえば小間使いデスピーナ(九嶋香奈枝)と老哲学者ドン・アルフォンソ(佐藤泰弘)。二人のカタカナ・イタリア語ではない「生きた」台詞には、日本人歌手もここまで来たかと感じ入る。。 また、熱のこもった独唱・重唱を展開した2組の恋人たち(佐藤康子と吉川健一、小野和歌子と鈴木准)にも、満席の聴衆から盛大な拍手が送られた。とくにフィオルディリージの佐藤康子はアリア〈お願い、許して、恋人よ〉で、この役にふさわしい、太く温かな声を聴かせる。軽めのソプラノが多いわが国では、まことに貴重な人材と見受けた。 なお今回は初めての試みだったが、この勢いを保てるならば、さらに本公演の1回をカヴァー歌手に任せても…と思ったのは評者だけではあるまい。 ―15日、初台・新国立劇場中劇場。 読売新聞社の著作物について |
| 2011/11/16 |
パゴダの王子 2011年11月16日(水) 日本経済新聞(長野由紀・舞踊評論家)
現代にも通じる”キモ可愛さ“
新国立劇場バレエによる、「パゴダの王子」新演出。1950年代に世界初演、以来ほぼお蔵入りだった珍しい作品を、芸術監督デヴィット・ビントレーが笑いを交えた冒険譚として蘇らせた。
パゴダとは、仏塔の意味。ブリテンの曲の聴かせどころもインドネシアのガムランを取り入れた部分だが、今回の舞台は菊の国と呼ばれる帝国だ。世継ぎの王子が急逝し、皇帝は意気消沈。皇后は、王子の妹さくら姫に懐柔しやすい夫をあてがい国を乗っ取ろうと画策する。じつは兄妹とは生さぬ仲の皇后こそが、王子を醜いサラマンダー(とかげ)に変え追放したのだ。
やがて敵役の悪行は明かされ、数に勝る悪党を相手にした王子の大立ち回りに、姫の助太刀、最後に皇帝がとどめを刺して呵呵と笑う。してみるとこれは、お茶の間好みの勧善懲悪劇でもある。揶揄的に描かれる求婚者たち、老いさらばえた皇帝などリアルで辛辣なユーモアも多いが、俗に傾きすぎないのは舞踊場面の質の高さによる。 特に、姫が遠くサラマンダーの国へ旅する間の「泡」の女性群舞、第3幕の王子と姫のソロは、端正なステップが密度濃く組まれ、涼やかに美しい。王子/サラマンダーの福岡雄大は、弾力と拡がりのある踊りで悲運の気功師に爽快な個性を添えた。さくら姫の小野絢子は、純粋さとそれゆえの強さが魅力。皇后の湯川麻美子は断定的な強さを持つ苛烈で妖艶な美女だった。 舞台を囲む切り絵細工の幕をはじめ、輪郭で語る美術が美しい。大蛸に化けた皇后や妖怪の”キモ可愛さ“は、振付家の発想の源になった浮世絵だけでなく、現代アートにも通じる感覚か。1、6日、新国立劇場。 |
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| 2011/11/14 |
パゴダの王子 2011年11月14日(月) 朝日新聞(佐々木涼子・舞踊評論家)
英流ウィットに高度な遊び満載
新国立劇場芸術監督のデビット・ビントレーが手がける新作バレエ第2弾は、ブリテン作曲「パゴダの王子」。前作「アラジン」より更に鮮明に英国仕込みのウィットが打ち出され、高度な遊びも満載だ(10月30日、東京・初台の新国立劇場)。
舞台は古代の日本に置き換えられた。継母の皇后(湯川麻美子)にサラマンダー=トカゲに変えられた兄皇子(福岡雄大)を、妹のさくら姫(小野絢子)が試練の後に連れ戻す。
第1幕。衣冠を着けた宮廷人が富士と白い太陽を背景にしずしずと行き交う。十二単衣の皇后を見た時は、これでバレエを踊るの?と思ったが、するりと脱いだ。和服のポイントを押さえた美術(スミス)は工夫され、趣味もいい。 第2幕は異界の冒険である。不細工だが愛嬌のある妖怪たちと連れだって、さくら姫が空と海を行く。その後を皇后と求婚者たちが炎や深海のタコに姿を変えて追う。レース編みのように繊細な雲や海、泡の群舞。男性テクニシャンをそろえたタツノオトシゴのバ・ド・カトルなど、次々に繰り出されるダンスは、ジャンルこそ違え、豊饒な言葉の奔流に酔いしれるシェークスピアを思わせる。 それにしてもブリテンの現代音楽がこれほど面白く、バレエに合うとは思わなかった。独創的な振り付けが曲の味わいを存分に引き出したせいだ。この音楽には以前クランコ、マクミランが振り付けたが成功していない。ちなみに全曲演奏としては今回が日本初演という。 兄妹が廃人同様の父に再会し、家族の絆を取り戻す第3幕には、優しい心情があふれる。日本人の家族観や震災後の状況を踏まえた作品づくりにも、物語バレエを得意とするビントレーの技がうかがえる。 |
| 2011/11/8 |
パゴダの王子 2011年11月8日(火) 読売新聞(立木Y子・舞踊評論家)
ジャポニズム 斬新な息吹
機知に富む溌剌とした創作バレエが誕生した。新国立劇場の舞踊芸術監督デヴィット・ビントレーの待望の新作「パゴダの王子」(全3幕)である。クランコやマクミランら巨匠達が挑んだ英国バレエ史上の異色作で、ブリテンの音楽は踏襲しながら、台本を整理し、浮世絵に想を得て再構成した。
開国の転換期にある日本とおぼしき菊の国。邪悪な皇后に支配され、サラマンダー(トカゲ)に変えられた王子が妹ともに国を再興させる冒険譚だ。多彩な音色が広がるブリテンの曲と振り付けがよくかみ合い、舞台はスピーディに展開する。菊の国の富を目当てにさくら姫(小野絢子)に結婚を迫る各国の王子。姫はそれを拒み、醜い第5の求婚者、実は兄(福岡雄大)に従い旅にでる。試練を受ける2幕は、美術と振り付けが視覚的に相乗効果を生んで楽しませる。後半のパゴダの国の場面はガムラン音楽が響き、バリ舞踊が舞われる。
歌川国芳の浮世絵のみならず、英国絵画の意匠もちりばめたレイ・スミスの美術と衣装は、ジャポニズムを逆手にとって斬新な息吹を吹き込んでいる。設定や構成に「眠れる森の美女」や「リア王」などから“本歌取り”した趣向も仕掛けられ、創造力を刺激してくる。 強靭でしなやかな動きを見せるトカゲの王子に加え、脇を彩るキャラクターの造形も個性豊かだ。敵役の皇后エピーヌ(湯川麻美子)は華やかなもうけ役。2幕では苦難の化身として試練の過程にも姿を現す。 同時代を射る風刺も効き、娯楽性豊かな本作は、震災を経てグローバリズムの荒波にさらされる現代日本の戯画化でもある。再生の物語からは警鐘も聴き取れた。 読売新聞社の著作物について |
| 2011/10/12 |
中村恩恵×首藤康之 シェークスピア「ソネット」
2011年10月12日(水) 東京新聞(うらわまこと・舞踊評論家) 多彩な技術 表現力を駆使
このところ多彩、かつ充実した活動を続けている中村恩恵と首藤康之。今回はシェークスピアをとりあげた。ただし戯曲でなくソネット(14行詩)。その105番に触発されたという。この詩の要点は、愛の基本である真・善・美。しかし同一人物がそのすべてを備えることはない、という。彼女はダンスによってその三位一体化を実現しようとする。構成、演出は二人、振り付けを中村が行っている。
三つの場から構成され、それぞれに詩人、彼が詩を贈った美青年、そしてミステリアスなダークレディーの、詩集における重要人物が登場。詩人は首藤、美青年は中村。それに加えて、それぞれの場に、ロメオ、ジュリエット、オセロ、シャイロック、デズデモーナ、タイターニアなどよく知られた戯曲の人物が登場。二人が早変わり的に扮して、ドラマを繰り広げる。
各場とも黒衣の詩人がセンターで思索するところから始まり、最後に書を閉じて終わる。一場は「ロメオとジュリエット」の愛とエロス、二場は「オセロ」「真夏の夜の夢」などの一部を演じて善を逆説的に表現。さらに三場では同じスタイル、動きで登場した二人が、虚構を脱ぎ捨て真の理解を共有するという、正反合のプロセスで意図を実現したと受け取ることができる。 ともにクラシックからスタート、キリアンやベジャールに認められるなど、多彩な技術、表現力の持ち主。その力を駆使、強い暗示力をもつ音楽や照明、衣装とともに深淵かつ繊細、瞑想的な意味空間を創造した。 |
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| 2012/5/7 |
「負傷者16人」 2012年5月7日(月) 毎日新聞 (濱田元子)
個人の物語として生々しく迫る ユダヤ人とパレスチナ人の平和的共存は可能なのか。「負傷者16人」(常田景子訳、宮田慶子演出)の作者エリアム・クライエムは、互いの主張の交点を独自の視点で探る。宗教的・民族的存在ではなく、一個の人間同士の対話と相互理解にかすかな希望を託した物語は、普遍性を持って現代日本に響く。
アムステルダムでパン屋を営むユダヤ人ハンス(益岡徹)は、暴漢に襲われたパレスチナ青年マフムード(井上芳雄)を助ける。ユダヤ人ではなく「パン屋だ」と言うハンスのもとで働くようになったマフムードは、次第に心を開くが、予期せぬ来訪者によって運命が動き始める。
舞台を、中東ではなく「寛容の国」オランダにおいたことで、民族の歴史的文脈だけでなく、個人の物語として生々しく迫ってくる。 マフムードはパレスチナの難民キャンプでの悲惨な生活を語り、イスラエルが占領地でやっていることがテロだという。一方のハンスはホロコースト(大量殺りく)の暗い影を引きずる。対極にある2人のやりとりから浮かび上がるのは、同じような苦難を知る者同士こそ、理解しあえるのではないかという問いかけだ。 井上は血気盛んだが繊細な青年を感情豊かに表現し、成長を見せた。益岡は、痛みを知る人間こそが持つ懐の深さと苦悩を的確に表現して、奥行を持たせた。 イラク戦争開戦の翌2004年に米初演。パレスチナとイスラエルの和平交渉の出口が見えないなか、新国立劇場の芸術監督でもある宮田が日本初演した意義は大きい。20日まで。 |
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| 2012/5/2 |
「負傷者16人」 2012年5月2日(水) 読売新聞 (塩崎淳一郎)
傷つけ合う人間の業 今なお紛争の続くイスラエルとパレスチナ。遠い地の出来事に興味を抱く日本人は少ないが、中東からの移民も多いオランダの1900年代を舞台に、人種や宗教が複雑に絡み合うこの作品は、人口減少による移民受け入れが現実味を増す日本社会の、あすの姿を映し出す。
パン屋を営むユダヤ人のハンス(益岡徹)は、暴漢に襲われたパレスチナの青年マフムード(井上芳雄)を助ける。マフムードはハンスに反抗するが、思想信条を超えて友情が芽生える。恋人のノラ(東風万智子)の出産を待つマフムードに、忌むべき客が訪れる。
米のエリアム・クライエムの脚本は、社会の恥部をこれでもかとばかりにえぐり出す。第2次大戦下のユダヤ人虐殺、ナチスへの協力を闇に葬るオランダ人、パレスチナでのイスラエルの暴力、無差別に殺傷する爆弾テロ。差別の連鎖は売春婦(あめくみちこ)にも及び、人間の業を暴く。社会と対峙する作品の姿勢は、ひりひりするほどの緊張感と迫力があり、人ごとと目をそらしたくても、それを許さぬ厳しさがある。 宮田慶子の演出は前半、場面を短く区切ってテンポよく進め、目先を変える。終盤、井上と益岡の言葉の応酬による陰惨な傷つけ合いはじっくり見せ、舞台を頂点に導く。井上が抑制のきいた熱演をみせ、先輩の益岡がしっかりと受ける。 今、この瞬間にも世界のどこかで人間は傷ついている。演劇という手段で、我々を現実の前に引きずり出す刺激的な物語である。 |
| 2012/4/26 |
「負傷者16人」 2012年4月26日(木) 日本経済新聞 (内田洋一・編集委員)
⇒ 公演評を読む(PDF) |
| 2011/10/6 |
「朱雀家の滅亡」 2011年10月6日(木) 朝日新聞 (山本健一・演劇評論家)
修辞に満ちた台詞に力 芝居っけたっぷりな三島由紀夫戯曲だ。華族の朱雀家を舞台に、終戦前後の2年間を、四季の移ろいに託す。家の守り神弁財天の存在、修辞に満ちた台詞。滅びを主題に、空虚なる中心の当主経隆(國村隼)をめぐり、家族が言葉の綾錦を競い、闘わせる。台詞だけが人物の関係、逆説の論理、魂を表現する。古典劇風の台詞劇に退屈する人もいるだろう。しかし演出の宮田慶子は、客席で囲む能舞台のような象徴的な美術(池田ともゆき)の前で、台詞の力に焦点を絞り、役の精神を喚起させた。
穏やかな春。専横な首相を天皇のために失脚させた経隆は、引退を決意し、長男経広(木村了)は出征を志願する。秋。経隆が頼めば息子は玉砕の島に行かずに済むのに、動かない。経広を産んだ召使おれい(香寿たつき)と、経隆の弟光康(近藤芳正)の説得を振り切り、出征する。経広の許婚璃津子(柴本幸)は、悲しみに嘆く。苛烈な夏。戦死した経広をめぐり、「あなたが殺した」となじるおれい。冬の焼け跡に一人暮らす経隆の元に、弁財天を思わす姿の璃律子が、「なぜあなただけが滅びないのか」と復讐に来る。
見ものは経隆とおれいの対決。貴種、偽善、無為、謹厳が経隆。おれいは愛憎にあられもない庶民。國村は沈鬱な台詞回しで滅びを歌い、役の位を出した。香寿が巧い。息子の戦死を境に、儀礼的な慎ましさから、経隆への反逆へと転じるめりはりがある。木村も真意とは裏腹に両親への愛憎を表現する難技に、ひたむきに挑戦した。柴本は青春の清らかな調べ。経隆への弾劾は、感情で湿らせない方がいい。近藤は明快な台詞回しだが、華族らしさが欲しい。 |
| 2011/10/5 |
「朱雀家の滅亡」 2011年10月5日(水) 毎日新聞 (濱田元子)
現代に響く三島の高い精神性 太平洋戦争末期を舞台に、ある滅びゆく華族の姿を描いた三島由紀夫晩年の作「朱雀家の滅亡」(宮田慶子演出)。三島の修辞に満ちた流麗なせりふに塗り込められた高い精神性を、宮田がシンプルな装置の中で、強靭で時に心揺さぶる旋律として、震災を経た今に響かせる。
エウリピデスの「ヘラクレス」に拠る――とした4幕構成の舞台は、終戦をはさんだ1、2年の春秋夏冬が、時系列を追って描かれる。代々、琵琶でお上に仕える朱雀侯爵家の当主経隆(国村隼)が、傲岸な首相を失脚させ、自らも職を辞して宮中から戻ってくる。一方、嫡男の経広(木村了)は女中おれい(香寿たつき)や許婚者の璃津子(柴本幸)、おじ光康(近藤芳正)の制止を振り切り海軍に志願し、戦死する。
終始響くのは、日本人の滅びの美学。そのなかで、三島は両性の対立を通して、生身の心情もむき出しにして見せる。死にに行くのと同じ「あの島」への経広の出征をめぐるやりとり、そして敗戦。お上への忠誠や名誉を重んじる経隆、経広に対し、おれいは母性的情念をあらわに迫り、「滅びの美」に否を突きつける。シンクロする敗戦と震災。秩序や価値観の崩壊、そして訪れる混沌を前に、人はどうあるべきか、我々への問いかけにも聞こえるのだ。 静謐さのなかに威厳をたたえる国村に存在感。社会が180度転換するなか、おれいの変わり身を香寿が鮮やかに見せる。10日まで。 |
| 2011/9/28 |
「朱雀家の滅亡」 2011年9月28日(水) 読売新聞 (北川登園・演劇評論家)
「三島」文体と対極の演出 太平洋戦争末期から戦後にかけて、1、2年の聞に生じた、ある名門華族の崩壊の物語である。作者の三島由紀夫は、本作についてエウリピデスの「狂えるヘラクレス」が典拠と書き、日本的な意匠を凝らした。運命を回転軸とするため、朱雀家の守り神弁財天の歴代当主への嫉妬を、ヘラクレスへの女神ヘラの呪いに擬した。
侍従長である侯爵朱雀経隆(園村隼)は、天皇の御意を忖度して傲岸な首相を失脚させ自らも職を辞す。嫡男の経広(木村了)は、召使いのおれい(香寿たつき)、婚約者の璃津子(柴本幸)、叔父の宍戸光康(近藤芳正)の意に反して、海軍予備学生を志願し、“あの島”で散華する。
経広は古くから琵琶奏者として、天皇に仕えた朱雀家初の武人。経隆は、早くから滅亡を自覚している。ヘラクレスとは異質の、醒めた狂気からである。嫡男を英霊にすることで、お上と一体化したとさえ思う。しかし、おれいは、経広の戦死を悲しみ、経隆を責め立て、結婚を迫る。弁財天は、彼女に空襲による爆死という罰を与える。 宮田慶子の演出は、意図的に三島の文体の対極を選んだ。舞台の左右にも客席を設け、鳥居の象徴性を無視した構成主義風の舞台美術(池田ともゆき)など、緞帳を要求する戯曲に風穴を開けようとして。終幕、璃津子が経隆の亡妻の花嫁衣装をまとって、経隆と対峙する場面が際立つ。見せ場は作ったが、流麗な修辞はどこへ行ったのだろう。 読売新聞社の著作物について |
| 2011/9/27 |
「朱雀家の滅亡」 2011年9月27日(火) 日本経済新聞 (河野 孝・編集委員)
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