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2009年11月12日

オペラトーク「ヴォツェック」の模様を掲載A

「ヴォツェック」オペラトーク
11月7日(土)11:30開演 オペラパレス ホワイエ
<出演>
ハルトムート・ヘンヒェン(指揮)、アンドレアス・クリーゲンブルク(演出)
長木誠司(司会、東京大学教授)、蔵原順子(通訳)

アンドレアス・クリーゲンブルク

ハルトムート・ヘンヒェン

 

@からのつづき―

長木:
今回の舞台について少しお聞きします。今回の舞台は一面に水を薄く張るなどいろいろな特徴があるようですが、演出のコンセプトはどのようなものなのでしょう。


クリーゲンブルク:
今回の演出に際しての基本的な考え方というのは、すべてをヴォツェックの目から見た世界として描こう、というものです。
オペラが幕を開けた時点で、ヴォツェックはすでに自分自身を見失いそうになっています。人間であることを忘れてしまいそうな状況です。それはいろいろなことに苛まれ押しつぶされそうになっているからです。仕事が厳しい、常に不安を抱えている、といったことに圧迫されどんどん妄想を抱くようになり、さらに一方では医者に実験道具として薬を与えられているのでそれが助長されてしまうという状態です。
ヴォツェックが自分の中に抱えている怪物のような想念は現実に現れ始めています。ヴォツェックの目から見て唯一まともなのはマリーと自分の息子だけです。それ以外の大尉や医者といった人物はすでに人間の姿とは言えない、怪物のような見た目をしています。大尉は異様な程太っているし、医者は拷問部屋から出てきたような格好をしています。それはヴォツェックが見ている悪夢そのものなのです。ヴォツェックはそういった想念にがんじがらめになってしまっているわけです。

「医者」役の衣裳を合わせる妻屋秀和

 

舞台に張った水については、ふたつの意図があります。
ひとつは私たちが見るヴォツェックの世界が、非常に居心地の悪い、常に湿って汚れている、じめじめとした嫌な雰囲気であることを表しています。
もうひとつは音響的な面について、水を使うことで補足をしたいという意図です。ベルクの音楽は非常に構造を意識したもので複雑です。そこに水の撥ねる音、私たちが知っている自然に響く音を加えることにで、舞台の世界があまりにもかけ離れたものにならないようにするという狙いがあります。誰もが知っている水の撥ねる音がすることによって、私たちの感情に近い、触れ合える世界にしたい。
さらに補足として、水が生み出す光の反射の効果も意図しています。人々がしっかりとした床の上ではなく、水のうえを歩くことによって、そこに大きな穴があいているような雰囲気を醸し出したいと思っています。もしかするとその穴は地獄に通じる穴なのかもしれない、そして登場人物はその穴の上をさまよっているのかもしれない。そういうイメージを抱かせることによって、この非常に非合理的な世界を表すことができればと考えています。


長木:
クリーゲンブルクさんはもともとは演劇の演出でご活躍されていますが、演劇の「ヴォイツェク」とオペラの「ヴォツェック」の違いをどのような点に感じますか。


クリーゲンブルク:
もちろん音楽がないのが一番の大きな違いですが(笑)
音楽がない分、演劇の方が観客の皆様が舞台を観たときにエモーショナルな面に訴える可能性がたくさんあります。
ベルリンで演劇の「ヴォイツェク」を演出したことがありますが、その時狙ったのはお客さんがこの舞台を観ることで怒りを覚えてほしいということです。何に対して怒りを覚えるかというと、抵抗しないヴォイツェクに対してです。ヴォイツェクは全く抵抗しようとしません、そのヴォイツェクに対してお客さんに怒ってほしいのです。
お客さんには非常に不公正な扱いを受けているヴォイツェクに同情の念を抱いてほしくなかったのです。同情ではなく怒りを覚えてほしかった。なぜかというと同情というのはお客さんにとって、少し心地よい感情だからです。同情することで安心してしまう。気持ちよさを味わってしまう。そうではなく強い感情、怒りを感じてほしかったのです。

オペラの「ヴォツェック」に関してお客さんが抱く感情というのは、やはり音楽によって影響を受ける部分が舞台上の演出よりも非常に大きいと思います。ですから私がとても注意しているのは、人としてのヴォツェックをどう描くかということです。ヴォツェックという人物が生きなければならない人生、運命をどう描くか、そしてその描き方によってお客さんのなかに何か強い感情を呼び起こしたいと思っています。

基本的な部分では演劇でもオペラでも、私がお客さんに求めていることは変わりません。ヴォツェックという人物に同情してほしくない、ということです。むしろヴォツェックの運命に驚愕するとか衝撃を受けるとか、なにかしら強い感情を呼び覚ましたいというのが私の演出の願いです。
先ほど申し上げたように、同情という感情は強いというよりどちらかというと安心するような、ちょっと気分がよくなってしまう部分があります。そうではなくて、お客さんの強い感情、衝撃でも憤りでもいいのですが、なにか強いものを呼び起こしたいと思っています。


長木:
このオペラではマリーもヴォツェックも非常に宗教的な、敬虔な人物として描かれていると思うのですが、モラルと貧しさ、あるいはモラルと宗教との関係がこのオペラでどう扱われていると思いますか。あるいはヴォツェックとマリーは宗教的にどのような人物と捉えていますか。


クリーゲンブルク:
この作品で一番重要で中心的な観点というのは、ヴォツェックもマリーも善き人であろうとしているということです。こう言うと安易なように聞こえますが彼らが目指しているのは、ただ善き人であろうとすることです。
それに対して大尉や医者はある意味非常に自由です。彼らはモラルから自由な存在である。ヴォツェックとマリーはそれに不条理な状態で捕らわれてしまっている。だからこそマリーは自分が犯した不義の罪に苛まれ、それが負担になる、罪の意識がのしかかるようになるわけです。
このオペラの中で最も静寂に満ちた瞬間というのは、マリーが悩んで、葛藤を抱えて、非常につらい立場にあって神に祈るシーンだと思います。そしてそのあとにヴォツェックが自分にとって一番大切なもの、最愛のマリーを殺してしまうというシーンにつながります。


長木:
最終的にヴォツェックはマリーを殺害します。これは19世紀以来オペラでは当たり前のことなのですが、ただなぜヴォツェックはマリーを殺さなければいけなかったのか、よく考えると分からない、もっとほかの手もあったような気がするのですが、そういったことを越えてなぜヴォツェックはマリーを殺さなければいけなかったのでしょう。


クリーゲンブルク:
非常に悲しい考え方なのですが、ヴォツェックがマリーを殺すと決めたのは、ヴォツェックが初めて下した決断なのです。ヴォツェックという人物は自分の考えを持っていません。ちなみに彼のしゃべる言葉はつねにこま切れ状態で、ちゃんとした文章を最後までしゃべるということがないというくらい途切れ途切れに話します。彼の行動は自分の為ではなく、常に他者の為です。
そんなヴォツェックが初めて自分で決断を下したのが、本当に劇的なことに、自分にとって一番大切なもの、最愛の人を殺すということでした。このときのヴォツェックは初めて自分で決断を下すということに思いを捕われてしまっています。でもそれはヴォツェックが持っている怪物的な側面からの決断だったわけです。
ヴォツェックが貧困から抜け出す道はあるのか、あるいは殺人を免れる道はあるのかと尋ねたとき、残念ながらどちらもノーです。出口はありません。これがヴォツェックという人物の悲劇であって、貧困がゆえに生まれてしまった暴力、それを使わざるを得ない状況に陥ってしまうヴォツェックの悲劇です。
またさらに劇的なことは、この貧困あるいはもしかしたら暴力も、子供にまで受け継がれてしまうかもしれないという点です。


長木:
ではヘンヒェンさんに、この殺害シーンの音楽にもベルク特有のものがあると思うのですが、同時代、あるいは伝統的なオペラの歴史の中で、この殺害の場面にはどういう特徴があるのでしょうか。


ヘンヒェン:
先ほどのライトモチーフの話とも関連して、1幕1場でヴォツェックが「われら貧しきもの」と歌う部分があるのですが、このモチーフはその後のオペラ全体を通じて何度も出てくるものです。歌詞は必ずしも「われら貧しきもの」ではありませんが、ライトモチーフとしてヴォツェックが最後に溺れて死んでしまう間奏曲の場面でも使われています。そしてこの殺害のシーンでも、前からずっとつながる形でこのモチーフを用いています。モチーフは五度の音程を使っていて、これはベルクにとって災いのモチーフです。
ですから言ってみればこの殺人は最初から暗示されていたともいえるわけです。ずっと最初から存在していたモチーフですから。この災いはずっと二人の関係性にのしかかっていて、ヴォツェックとマリーの人生に常に影を落としている、それがどんどんと重なっていって最終的に殺害のシーンにつながっているわけです。そしてナイフが登場するところでこのライトモチーフが解放されて、ひとつの不協和音に移っていきます。そこに至るまでの音楽的技法は、むしろ古典的ともいえる盛り上がり方を見せていて、ティンパ二が徐々にその頂点に向かっていくという形で音楽が展開していきます。ですからクリーゲンブルクさんがおっしゃったように、この殺害の場面は逃れようがない、それ以外の道はなかったということで最初からベルクが音楽的に道筋を作っていたということになります。


長木:
ではここで、その殺害のシーン、3幕2場のシーンを演奏していただきます。



♪♪演奏:1幕3場より ヴォツェックとマリーのシーン♪♪


長木:
最後にお二人から、今回の見どころ、抱負などを。


クリーゲンブルク:
この上演にいらしていただいた皆様には、ぜひ作品の世界に入りそこでひとときの時間を過ごしていただき、さらにそこから去る時に何かしらを持って帰っていただきたいと思います。
その持ち帰った何かをすぐ忘れてしまうのではなく、ずっと抱えていられるようなものを持ち帰っていただければと思っています。


ヘンヒェン:
今回の上演は亡くなられた故若杉芸術監督に捧げたいと思います。若杉さんが願っていた音楽を私が再現できることを期待していますし、非常に親しい関係にありましたので、若杉さんの代わりに今回の上演の指揮を執ることができ大変光栄に思っています。
そして皆様には不安を抱かずにこの作品をご覧になっていただきたいと思います。しばしば現代音楽というだけで、なんとなく抵抗があったり不安を感じたりするものですけれど、決してそういう不安を抱く必要の無い音楽です。この音楽はとことんエモーショナルな、感情に満ちた音楽で、それはすべての良い音楽に共通する特徴でもあります。確かに細部に至るまで綿密に構成されつくしている音楽ではありますが、やはり作品の持っている力からそういう構成になったのだ、ということを知って、ぜひこの音楽を不安に思わず、むしろ後期ロマン派の作品だと思って聴いていただければと思います。


演奏曲目
♪@1幕3場より ヴォツェックとマリーのシーン  ヴォツェック:萩原潤  マリー:並河寿美
♪A1幕5場より マリーと鼓手長のシーン  マリー:並河寿美  鼓手長:成田勝美
♪B3幕2場より ヴォツェックとマリーのシーン  ヴォツェック:萩原潤  マリー:並河寿美

ピアノ:小埜寺美樹

萩原潤 並河寿美