新国立劇場について メニュー

2009年9月6日

オペラトーク「オテロ」、フリッツァ、マルトーネが語った!

9月20日(日)に初日を迎えるオペラ「オテロ」。
2009/2010の幕開けを飾る話題の公演のオペラトークが開催されました。
この公演を指揮するリッカルド・フリッツァ氏と、演出家のマリオ・マルトーネ氏によるトーク。
加えて、今回の公演のカヴァーとして活躍する豪華日本人歌手陣による名シーンの歌唱が披露されました。
その模様の一部を抜粋してお伝えします。

「オテロ」公演情報はこちら

「オテロ」オペラトーク
9月6日(日)11:30開演 オペラパレス ホワイエ
<出演>
リッカルド・フリッツァ(指揮)、マリオ・マルトーネ(演出)
新井鴎子(司会、音楽構成作家)、本谷麻子(通訳)

リッカルド・フリッツァ氏  新井鴎子氏

マリオ・マルトーネ氏

 

「オテロ」はヴェルディ74歳の時に書かれた円熟期の傑作ですが、
ヴェルディの創作活動の中でどのような位置にあり、
またどのような個性・特色が出ているオペラでしょうか―――


リッカルド・フリッツァ氏(以下、フリッツァ):
音楽的に言いますと、この「オテロ」はヴェルディのオペラが到達した頂点をなす作品です。ヴェルディは音楽家としての天才性をいかんなく発揮した人ですが、この作品では音楽家としてだけではなく、劇場、舞台芸術を知り尽くした人間としての完成度の高さを示しています。
ヴェルディは若いころからオペラを書き、イタリアオペラのシーンをけん引してきた存在です。最後の作品「ファルスタッフ」は喜劇なので他の作品とは一線を画していますが、その1つ前、この「オテロ」という作品で自らの歴史の1シーンを閉じ、新たなる幕開けを標したのではないかと思います。
それが後にプッチーニらにより、リアリズムとして引き継がれたのです。


マルトーネさんは演劇の演出家、映画監督としても活躍されていますが、
オペラの演出、特にヴェルディの作品を演出される面白さはどのような点にありますか―――


マリオ・マルトーネ氏(以下、マルトーネ):
ヴェルディの作品にはイタリア人ではないお客様には気づきにくい点が一つあると思います。
それは、彼は人生の晩年にして初めて最高のパートナーである台本作家アッリーゴ・ボーイトに出会ったということです。
ヴェルディは長いキャリアの中で数々の台本作者と共同作業を行っていますが、ボーイト以前の台本作者は華やかで装飾的なレトリックに終始していて、それがあまり効果を為さなかったという過去があります。
そのヴェルディが「オテロ」で初めて素晴らしい言葉で書かれた作品に出会いました。そこに音楽を乗せることでヴェルディは真のヴェルディ足り得たのではないかと思います。
ボーイトが台本を書いてヴェルディにささげた「オテロ」は、かなり完成度の高い、演劇性の大変高い作品になっています。ですので、舞台の演出家としては、この「オテロ」の演出に、「マクベス」や「エレクトラ」といった演劇の古典の演出とまったく同じ気概を持って臨んでいます。


ヴェルディの「オテロ」ではシェイクスピアの「オセロー」の第1幕で描かれた
イアーゴがオテロを憎むに至った経緯が省かれていますが、
このあたりを演出していく時に演劇版とオペラ版でどのような違いを感じますか―――


マルトーネ:
まず、ヴェルディの「オテロ」はそれだけで十分完成した一つの作品になっていると思います。
ヴェルディの「オテロ」にはイアーゴの信条告白というシーンが加わっています。自分は悪意の塊である、自分の本質は悪なのだという信条を独白するシーンですが、シェイクスピアにはこういったイアーゴの信条告白といったシーンはありません。まさにこれが象徴的で、この他にイアーゴがオテロを憎む理由づけというのはいらないのではないか、つまりヴェルディの「オテロ」においては、イアーゴが悪意に満ちた行動に至った理由は特になく、彼の本質、「自然」がそうさせているのだという解釈ができます。
ゆえに、ヴェルディの「オテロ」は独自であり完結した作品なのです。


では、ここで第1幕よりオテロとデズデーモナの愛の二重唱「すでに夜は更けた」を
お聴きいただきますが、この音楽の聴きどころは―――


フリッツァ:
まずはメロディーを聴いてください。メロディーの美しさはヴェルディに限らずベッリーニなどすべて、イタリアオペラの真骨頂をなす要素だと思います。
今回この作品に携わって気がついたことですが、作曲家は自分の芸術性、技術などをアーティストとして成長させていくにつれて、次第にハーモニー、調和を大事にしていく。そして、何かを解決するときに素晴らしい天才的なハーモニーを見つけ出してくる。そういうことに今回ヴェルディを指揮しながら気づきました。
たとえば第4幕では、デズデーモナの柳の歌からフィナーレに至るまで、素晴らしい、しかも現代的なハーモニーがあらわれ、ある種「トゥーランドット」のハーモニーがそこに込められているような気がしました。これはやはり実際に指揮して、作品に関わってみなければ見つけ出せなかったことで、私としても非常に印象深く感じております。
「オテロ」は1872年という時代に作曲されたのですが、あまりにも現代的な感性を表している作品で、ヴェルディは同時代の作曲家よりも30年は先に進んでいるという印象を受けました。


ではマルトーネさん、この官能的な愛の二重唱のシーンは
「オテロ」の物語の中でどのような意味をもっているのでしょうか―――


マルトーネ:
この二重唱がまさにこの後オテロとデズデーモナに起こる運命を象徴している、そんな場面だと思います。
オテロとデズデーモナの愛というのがある種、特殊な愛情関係でして、彼らの愛情というのは、オテロの話をデズデーモナがしっかりと聴く、傾聴するという形で進行していくのですが、この愛は美しい、しかしその中にはどこかいびつな関係を秘めているようなところがあります。
そしてこの二重唱の中にオテロのナルシズム、自己愛に固まってしまった性質というのが見え隠れします。このような自己愛がひいてはオテロの狂気、そして悲劇的な最期を誘発する要素なんですけれども、そんなものもうかがい知れる二重唱でもあります。つまり、愛はそれ自体美しいものとして輝くのですが、その中にはすでに暗闇が隠れている、そんな場面です。


この後第2幕ではイアーゴがオテロに対し、妻のデズデーモナが
副官のカッシオと通じていると言って惑わします。その後なぜかデズデーモナは
何度もカッシオに関する進言をオテロに繰り返してオテロの疑心を煽りますが、
それをどのように演出で見せてゆくのでしょうか―――


マルトーネ:
まず、このオペラの第2幕では幻覚というのがキーワードとして挙げられます。シェイクスピアの作品では「夏の夜の夢」しかり、幻覚、魔法というのが大変多く出てきます。
ヴェルディも見事にシェイクスピア的魔術というのを描きあらわしています。第2幕ではイアーゴが言葉によってオテロの心の弱い部分、傷口を広げるように魔法、魔術をかけていきます。第2幕のあるシーンをきっかけにして、あたかも絵に新しい筆致が加わったかのような感じで色調が変わります。そしてここからは幻覚がぐるぐると終わりなく取り巻き始めます。
デズデーモナがオテロにカッシオの話ばかりしてくる、これは現実的に考えればおかしいことで、不条理的なのですが、魔術、幻覚に捕らわれてしまったオテロの目からみた現実なんだ、という風に私は解釈しています。
つまり、イアーゴの張り巡らせた「クモの巣」にとらえられたオテロには現実はこのように見えている。もしかしたら、シェイクスピアの作品でもそうなのですが、デズデーモナはカッシオ以外の話もしているのかもしれない。ですが、今や魔法に目を曇らされてしまった、「クモの巣」にとらえられてしまったオテロにはその部分しか偏執的に見えなくなっているのです。


最後にお二人から、今回の公演見どころ、抱負など―――

フリッツァ:
今回の「オテロ」が私の「オテロ」のデビューなのですが、それを新国立劇場で、しかも尊敬すべきマルトーネさんという素晴らしい演出家と一緒に作り上げることができ大変光栄に思っています。そして日本の観客の皆さん、今回私は3回目の来日ですが、日本の皆様と心温まる関係が築けているのではないかと思っていますし、今回「オテロ」を演奏できるのも非常に楽しみにしています。そして今回の「オテロ」のキャスト、合唱、オーケストラすべて大変レベルが高く、最高のものをお届けできると自負しています。

マルトーネ:
稽古を続けていて、皆さんの中に大きな調和、ハーモニーが生まれてきているのを日々感じます。それもフリッツァさん、キャストの皆さん、そして劇場のスタッフの皆さんの協力関係があってこそのもので、期待も大きく膨らんでいます。私たちにとっても意味のあるプロダクションですし、観客の皆さんにとってもきっと何かを掴んでいただけるものになると確信しています。


ありがとうございました―――


演奏曲目
水口聡/小林厚子:第1幕より オテロとデズデーモナの二重唱「すでに夜は更けた」
島村武男:第2幕よりイアーゴのアリア「クレード」
ピアノ:小埜寺美樹

水口聡氏

小林厚子氏

 

小埜寺美樹氏   島村武男氏