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2009年7月2日

『現代能楽集 鵺』 坂手洋二インタビュー

現代社会に潜む歪みを、さまざまな演劇的手法を用いて描き出す坂手洋二。
今回、新国立劇場に書き下ろす新作では、世阿彌の作といわれる能「鵺」をモチーフに、
平安末期の日本から現代のアジアまで、時空や夢幻を超えて人間の心の深遠を辿っていく。
芸術監督の鵜山仁が演出を手がけ、坂東三津五郎、田中裕子、たかお鷹、村上淳の4人が
小劇場の濃密な空間で、複数の役を演じていくのも見どころだ。

インタビュアー◎山村由美香(演劇ライター)
会報誌The Atre 4月号掲載


複式夢幻能の形式を現代劇に

 

――坂手さんは「現代能楽集」のシリーズを1993年から断続的に発表されていますね。今回、新国立劇場に新作を書き下ろすことになった経緯をお聞かせください。

 最初は、鵜山さんと坂東三津五郎さんと僕、という組み合わせで何かやれないかな……というお話だったんです。それで、せっかく三津五郎さんとご一緒できるなら、歴史的・伝統的な要素の入ったものをやりたいと思って。以前、「世阿彌」(2003年、新国立劇場中劇場)を観たときに、やはり新劇の俳優さんとは違うものを感じたので、その印象も大きいかもしれません。実は、今までの「現代能楽集」は、謡曲の内容を下敷きにやったことはないんですよ。現代の事象を扱った新しいストーリーとか、チェーホフの「三人姉妹」を取り上げたりして。ただ「鵺」だけは、ずっと前から「現代能楽集」でやりたいと考えていた。それでお話をいただいたとき、三津五郎さんなら過去の能作品を踏まえたものでも、違和感なくできるんじゃないかと思ったんです。

――原作の「鵺」は源頼政の鵺退治を題材にした物語ですが、どこにご興味を持たれたのですか?

 能の形式について説明するとき例に出しやすいくらいの、典型的な構造の作品ということがありますね。世阿彌がつくり上げた複式夢幻能という形式は、単に現実を写し取る演劇とは違って、死者や霊的な存在と出会うためにある。それこそが演劇の基本であると思う僕にとって、この形式のシンプルな原型であるところに魅力がある。
 夢幻能の面白さというのは、人間の無意識の霊的領域が、本人の自覚と切り離されたところで一人歩きする部分だと思うんです。「鵺」の場合は、それが人間でなく妖怪だというのが特色です。鵺はある所では「顔がサル、胴体がタヌキ、手足がトラ、尻尾はヘビ……」といろんな動物が合体した姿とされていますが、正体が分からない。別な伝承では、また違う生き物だし。そういう正体のなさみたいなところに興味を持って、時空を超えて、非常に個人的な感情のやり取りから大局的なことまで描けるんじゃないかと思ったんですね。また能でいう修羅物、つまり戦争の要素が入っているところにも関心を持っていました。

――台本は現在、ご執筆中だそうですが、かなり詳細なシノプシスをつくられていますね。時空を超えた三部構成で、登場人物は少ないですが、ダイナミックなうねりを感じました。

 第1部が能の「鵺」の時代、第2部で日本の今を見せて、第3部で舞台はアジアに広がります。確かに、今回はシノプシスにかなり時間をかけました。アジアと戦争の問題を入れたかったので、ベトナムにも取材に行ったりして。物語的には特定の国ではなく、アジアのどこかということになっているんですけれど、日常生活の中に水が入り込んでいる土地にしたかったんですよ。「鵺」に興味を持ったもうひとつの理由は、水のイメージに惹かれたこと。「鵺」のシテは小舟で現れるし、退治された鵺は川に流される。数世紀に渡って流れ続ける川は、時代や場所を超える「通路」でもある。ベトナムという国には、興味深い部分が多いんですね。ベトナム戦争ではアメリカに勝ったはずなのに、今や国内は米ドルに押されている。日本がかなりODA(政府開発援助)を行っていて、たとえば最近完成した空港は日本の支援を受けている。日本は最大の貿易相手でもある。経済の力学に押されて、戦争が戦争の顔をしていない今の時代に、戦争の記憶を描くのにふさわしい国ではないかと思います。



鵺とは実体のない存在

 

――鵺という存在は、作品の中にどんな形で関わってくるのですか?演出の鵜山さんは鵺について「キメラ」という表現を使っていましたが、坂手さんにとって鵺とは何者なのでしょう。

 身も蓋もない答えだけれど、鵺とは人が勝手に想像する存在で、実際にはいないのかもしれない。ジュゴンを見て人魚だと思う人がいたり、イッカククジラやサイからユニコーンを想像する人がいたりと、幻想を形にするイマジネーションというのは、人々の意識の側にあるわけです。
 そのうえで考えると、差別される側の象徴のようなイメージはありますね。キメラというときれいだけれど、妖怪の鵺ってかっこ悪い、変な生き物でしょう。「鵺のようなやつ」という言い方もあるし。そういう差別される存在、共同体からはじかれていく、のけ者にされていく立場という部分でも興味があって、その恨みだけが残って、実体がなくなっても霊として残されてしまっているというところが面白いんです。人間って、ある強い思いを持ったときに、その思いだけが残って、その原因となった具体的な出来事は消えてしまうことって、往々にしてあるような気がするんですよ。でもそれは、人が愚かであるということではなく、恨みの強さによるものでもなく、人間の中には自分自身を霊的な存在に見立てて、残された「思い」を純化させることによって浄化していくというシステムがあると思うんです。それが能という芸能の本質的な部分でもあって、物語の中で観客がそれを追体験していくわけです。多くの演劇が少なからず同じ作用を持っていて、それは、なぜ人間がフィクションを必要とするかというテーマにつながっていくんですね。

――今回はカンパニーの顔ぶれ的にも、非常に演劇的な濃度の高い舞台を見られそうで、楽しみにしています。

 鵜山さんというのは飄々としながら、それこそ何かを霊的にヒュッと見つける人なんですよ。演出についても、そういう直観から入っていくところがあるから、鵜山さんのどこかのスイッチがちゃんと入るような台本になるよう、頑張って仕掛けていきたいと思っています。出演者の4人も、いろんなことができる方たちなのは分かっているので、それでもなおかつ、皆さんの、今まであまり見たことのない部分を見たいなあと思いながら書いているんです。「現代能楽集」と名のるからには、世阿彌さんが今の時代に生まれたらどんな芝居を書くか想像するというか、新作を書くことで世阿彌さんと出会うような気持ちで取り組んでいます。




⇒『現代能楽集 鵺』公演情報