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2007年5月25日

オペラ「ばらの騎士」オペラトークの模様を掲載

5月20日(日)、中劇場にてオペラ「ばらの騎士」オペラトークを開催いたしました。指揮のペーター・シュナイダー、演出のジョナサン・ミラーをゲストに迎え、興味深いお話しを伺うことができました。ノヴォラツスキー芸術監督最後のオペラトークの模様をお届けいたします。

2007年5月20日(日) 15:00-16:00 新国立劇場中劇場
出演:ペーター・シュナイダー(指揮)、ジョナサン・ミラー(演出)
司会進行:トーマス・ノヴォラツスキー(オペラ芸術監督)
通訳:角田美知代

「ばらの騎士」公演情報はこちら

【シュトラウス音楽の振幅】
トーマス・ノヴォラツスキー オペラ芸術監督(以下、ノヴォラツスキー):シュナイダー氏は、世界中で多くのオペラ、コンサートを指揮されていますが、とりわけ、ワーグナー、シュトラウス作品の第一人者です。バイロイト音楽祭でも最も長い期間にわたって指揮者として現役で活躍されています。今回、新国立劇場において、「ばらの騎士」を指揮していただけることになり、大変光栄に、そして幸運に思っております。さて、新国立劇場では2年前に「エレクトラ」を上演いたしました。今回「ばらの騎士」を上演するわけですが、この二つの作品の音楽的な違いとは何でしょうか?

ペーター・シュナイダー氏(以下、シュナイダー):二つの作品にもちろん違いはありますが、シュトラウスの作曲スタイルの変化はありません。「エレクトラ」は悲劇的な作品で、シュトラウスは「サロメ」の後、同じように悲劇的なテーマの作品を作曲できるか躊躇していましたが、ホフマンスタールの説得により、シュトラウスは「エレクトラ」を完成させました。この二つの作品の後は、ガラッと違った作品を二人は作りたいと思い、「ばらの騎士」というアイデアに至りました。全くシチュエーションや雰囲気が違う作品です。多くの批評家は、シュトラウスが大衆に迎合するような甘い、ソフトな音楽を作曲したと批判しましたが、シュトラウスは舞台で母親を殺すような作品ばかり作曲できないと述べています。

ノヴォラツスキー:シュトラウスとホフマンスタールの書簡に創作過程を見ることができますが、大変興味深いのは、二人はワーグナーについてしばしば議論していることです。

シュナイダー:シュトラウスにはモーツァルトとワーグナーという二人の神がいました。ワーグナーなくしてシュトラウスはいなかったとも言えます。両者の共通点として興味深いのは、二人とも筋書きに沿って作曲しただけではなく、演出プランをも構想したということです。

ノヴォラツスキー:シュトラウスはワーグナーと同じようにライトモチーフを使用したのでしょうか?

シュナイダー:シュトラウスもライトモチーフを使っていますが、ワーグナーの例えば「リング」ほど意図的ではありません。例えば「ばらの騎士」において、銀のばらのテーマは1幕で既に、そして2幕の有名なばらの献呈のシーンなどで使われており、他にもモチーフはありますが、それほど一貫してはいません。

【シュトラウス特有の音】
ノヴォラツスキー:オーケストラを指揮する際、最も重要な点は何でしょうか? 特別なシュトラウスの音はありますか?

シュナイダー:シュトラウス特有の音というものはあります。この音を表現できるのは、シュトラウス作品の初演を最も多く演奏したシュターツカペレ・ドレスデンとウィーンフィルです。この二つのオーケストラは高い表現力と軽やかさを合わせ持っています。シュトラウスのオーケストラはかなり大編成なため、適切な表現をしつつ、うるさくならないようにするというのが私にとって大きな課題でした。「ばらの騎士」では、有名なばらの献呈の場面、第3幕の三重唱、二重唱の音楽は、非常に甘く、温和ですが、一方でオックス男爵の音楽は彼の人物像を表現するために荒々しく、けたたましく書かれています。「ばらの騎士」は甘く、ソフトなだけではなく、同時に荒々しくなければならない、ということを忘れてはいけません。「エレクトラ」はオペラ史上最もオーケストラ編成の大きな作品ですが、「ばらの騎士」はその後にシュトラウスが作曲した作品なのです。

【シュトラウスはテノールがお嫌い!?】
ノヴォラツスキー:シュトラウスに関してひとつの謎は、なぜ美しい音楽を主に女性歌手に作曲し、「影のない女」の皇帝は除きますが、テノールに重要な役割を与えず、技巧的に残酷ともいえる音楽を書いたか、ということです。「ばらの騎士」のテノールの役も非常に難しく書かれています。

シュナイダー:私には答えは分かりませんが、一説にはシュトラウスはテノールを嫌いだったと言われています。「ばらの騎士」のテノール歌手のアリアは美しく、私は好きですが、他のテノールの役、例えば「ナクソス島のアリアドネ」のバッカス、「影のない女」の皇帝は非常に歌うのが難しい役です。もしかして、シュトラウスは妻を非常に愛していたため、女性の役を偏重したのかもしれません。ホフマンスタールは二つの役、「アリアドネ」の作曲家、「ばらの騎士」のオクタヴィアンをテノール向けに書きましたが、それをシュトラウスは女性に歌わせました。

<左からミラー、ノヴォラツスキー、シュナイダー>

 

【1912年という時代】
ノヴォラツスキー:それではミラー氏にお伺いします。今回の「ばらの騎士」の舞台では、時代設定を本来の200年前のマリア・テレジアの時代から1912年に移されました。

ジョナサン・ミラー氏(以下、ミラー):これは一般的な問題なのですが、最近の演出家が時代設定を現代に近づけてオペラを上演すると、批評家、観客などに批判されることが多いのですが、そもそも、19世紀の作曲家は、18世紀の一部の作曲家もそうですが、当時から200年〜500年遡った過去に時代設定してオペラを書くという傾向がありました。実際に上演される時代と作曲された時代が隔たれば隔たるほど、時代を遡ることのアナクロニズムが良く分かってきます。保守的な観客も中にはいらっしゃいますが、そういう方はコンラート・ローレンツ(動物行動学者)の言う“刷り込み”で、最初にみた舞台が刷り込まれており、その刷り込みのせいで、現代の我々と舞台作品に距離があることに気がつかないのです。

ノヴォラツスキー:ホフマンスタールとシュトラウスの書簡を読んで興味深いのは、ホフマンスタール自身が、「『ばらの騎士』はバロックの復興ではなく、過去を通して現代に何が起きているのかを伝えているのである」と書いていることです。さらに興味深いのは、舞台のカーテンが開いたとたんに既婚の女性が愛人と不倫をしているような作品は、時代設定を移さないでは、検閲を通ることができなかっただろうということです。時代設定を変える必要が彼らにはありました。何故1912年に舞台設定を移されたのですか?

ミラー:この作品が作曲されてから約100年経ちますが、今この作品を改めて聴いてみると、まさに作曲された当時の音楽という感じがします。同様に、物語もいかにもその時代に書かれた物語であり、設定上の18世紀はキッチュに思えます。さらに重要な点があります。2007年の我々が作曲された1912年という時代を振り返ると、第一次世界大戦がまもなく勃発する時期であったことが分かります。当時の観客はそれを当然知りませんでしたが、何かが起きるかもというような空気があったかもしれません。1912年に舞台設定を移すことによって、観客自体が感じていた予兆を我々が目撃することができます。

【演出家は“掃除機”!?】
ノヴォラツスキー:ミラー氏が演出された「ファルスタッフ」を3年前に上演し、6月にまた上演しますが、「ファルスタッフ」では日常生活の機微を時には喜劇的に、時には悲劇的に演出されていました。「ばらの騎士」ではどのように歌手を演出されていますか?

ミラー:オペラでは、演劇の舞台ではみられないような、大仰な演技がよく見受けられます。例えば手を大げさに広げるなどのおかしな表現です。この理由のひとつは、これもコンラート・ローレンツのいう刷り込みなのですが、オペラの世界では前の上演がその後の上演に影響を与えることが多く、実際の人間の仕草、動作について考えることなく、同じ演技スタイルが繰り返される傾向にあるからです。

ノヴォラツスキー:リアルな仕草とはどのようなものでしょうか?

ミラー:バスや電車に乗って周りの人々を観察、或いは家族を見てみれば、すぐに人間の実際の動作というものは分かります。私は医者の教育を受けたため、人々がどのように動き、気持ちを表現し、話すときにどのように手を動かし、また聞くときはどのような姿勢をとるかなどを観察する訓練を受けました。例えば、オクタヴィアンに別れについて語る元帥夫人の1幕終わりのアリアについて、メランコリーで憂鬱なことを考えている時、人はどのような仕草をするだろうか、と元帥夫人役の歌手に話しました。このような瞑想的なアリアの演技について私がいつも歌手に言うのは、そのような時、人の自然な仕草としては、何も見ずに宙をみつめ、手を無意識にそっと動かすのであり、オペラ的に大仰に手を動かすのではない、ということです。このような演技は耐えられません。私のオペラ演出家としての仕事の半分は、過去50年間で培われてきた、ごみ屑のようなひどい演技を取り除く掃除機の役目を果たすことです。

ノヴォラツスキー:何か例を?

ミラー:(大げさに手を動かしながら)このように手を動かしたり、振ったりすることは、決して日常生活ではありません。舞台演出とは、という質問に対して、私はいつもシンプルに、演出とは歌手や役者に彼らがずっと前から知っていながら忘れていることを思い出させ、必要ではないことを忘れさせること、と答えています。日常生活で何気なく行っていることを舞台で再現すれば良いのです。例えば、親しい会話を交わす際の仕草は、聞いている側は背もたれにもたれ、話している方は身を乗り出すというような特徴があり、すべての動作は小さなものです。指揮者を観察していますと、オーケストラに指示を出す際は、親指と人差し指をくっつけて手を小さく動かして指示を出していることが多く、痙攣のような大げさな動きをする指揮者は大抵良くないという傾向にあります。歌手も役者も同じであり、痙攣のような動きを私は見たくありません。自然な仕草が見たいのです。私の演出法は二つの学問から大きな影響を受けています。ひとつはケンブリッジ大学で学んだ動物行動学で、これは動物がどのような行動をとるか、そして何故そのような行動をとるかを研究する学問です。もうひとつは社会人類学で、社会組織、階級や文化が人間の行動をいかに規定するかを研究するものです。このようなことを深く知らないと、舞台演出はできないと私は考えます。

<左からミラー、ノヴォラツスキー、シュナイダー>

 

【お客様からの質問】
質問1:ミラー氏に質問です。新国立劇場のオペラ公演をこれまで観てきまして、日本の歌手の動きに違和感を覚えることがありました。日本と欧米の歌手の動作、身のこなしの違いについて、どのように感じていらっしゃいますか? 

ミラー:ある文化で育った舞台芸術を他の違う文化で上演するというのは非常に興味深いことです。日本人歌手の演技について、問題に思ったことはありません。というのは、日本人歌手は非常に柔軟で、日本の歌とは全く違うヨーロッパのオペラ歌唱法を既に習得しており、欧米の身振りというものも知っているからです。歌舞伎や能の役者に「ばらの騎士」を演じろというのは、彼らの芸術スタイルは全く異なるので非常に難しいかもしれませんし、同様に欧米の歌手は歌舞伎や能を少しでも演じることはできないでしょう。20世紀後半から21世紀前半にかけて、世界中で模倣、影響し合うというグローバル化が起きているため、日本人歌手、欧米歌手が混ざったキャストと仕事するのは難しくなく、舞台上では違いは全く分かりません。私は日本で時間がある際、テレビで野球中継を見るのですが、面白い発見がありました。日本の野球選手の全ての仕草はアメリカの野球選手の仕草と全く同じなのです。ヒットを打つとかの野球プレーそのものだけではなく、その間の仕草、例えばあたりを見回したり、チューイングガムを噛んだり、ホームランを打った後のアクションなど全てがアメリカ流なのです。1年前、私はニューヨーク大学で、「模倣、物真似と似たような仕草」というタイトルでセミナーを行ったのですが、人間は文化の違いを超えて、いかに他者の行動に影響を受けやすいかということについて説明しました。世界でグローバリゼーションの動きがあり、他者の態度、仕草、発声法、ジェスチャーなどを人がいかに容易く取り入れているかをあちこちで見ることができます。これは社会人類学という学問の一環でもあります。

質問2:シュナイダー氏に質問です。シュトラウスの音という点で、二つのオーケストラを挙げられましたが、日本のオーケストラからシュトラウスの音をどのように引き出されますか? 短い練習でシュトラウス・サウンドを作り出すコツは?

シュナイダー:数日前に来日したばかりで、まだ東京フィルハーモニー交響楽団とは1回のリハーサルしか行っておりませんが、皆さん良く準備してきており驚きました。日本のオーケストラでこの作品を演奏することは難しくないと考えています。「ばらの騎士」はヨーロッパでしばしば指揮してきましたが、ヨーロッパのオーケストラには多くの日本人演奏家がおり、東フィルにもヨーロッパで活躍されてきた方が多くいらっしゃいます。コツのようなものを私がオーケストラに伝授するかもしれませんが、問題は全くありません。数年前、読売日本交響楽団でシュトラウスの作品を指揮しましたが、シュトラウス作品特有の音楽をオーケストラが掴んでいるのに驚きました。