2005年12月11日

怒り、絶望、暴力、憎悪…vs生命の謳歌、豊かさ、潤沢...
たとえそれが悪魔であろうが天使であろうが、所詮人間ほどではないのだ。
lectureA言語を絶する「N」海外メディア騒然
海外公演評

<公演評・新聞記事の抜粋>

●「ミディ・リーブル」 2004年6月29日
「コンテンポラリー・ダンスは、人類の歴史と密接に結びついた芸術です。単に美しく、楽しいだけであってはならず、世界の暴力と戦う義務を負っているのです。」前回のモンペリエ・フェスティバルの素晴らしい公演となるはずだった代わりに(訳注:昨年のフェスティバルは、ストライキのため、開幕直前に中止された)、同年度のモンペリエ・ダンスシーズンの素晴らしい一夜となった作品「Near life experience」で“忘我の境地”を探究した後、アンジュラン・プレルジョカージュは、他者の肉体を排除するという人間のみが持つ激情から、決して眼をそらさずに向き合うことを選んだ。自分の名をつけたバレエ団を創立する前に一時期ドミニク・バグエのダンサーであったプレルジョカージュは「他者を無に帰せしめること」は、「原始時代から今日まで、何度も激しい災いの頂点を極めながら、途切れることなく広まってきた“行動”であり、その力はまさに、我々が抱える全てのものに対する不信に匹敵するものなのです」と語る。
本質的であると同時に言語に絶するこの問題を深く掘り下げるため、振付家は、異分野でありながら共振し得る世界と自らのダンスを協働‐対決させるという考え方に従って(グループAirやイラストレーターのエンキ・ビラルなどの例に続いて)、マルチメディア作家の二人組、グラニュラ・シンセシスの協力を得て作品を創った。1991年以来、クルト・ヘントシュラーガーとウルフ・ラングハインリッヒは、ビデオパフォーマンスの最も優れた試みのひとつと認められているenvironnements réactifs abstraits(抽象反応環境芸術)を発展させてきた。そのために彼らは、極めて高度な技術の中でも特に「モーション・キャプチャー」、すなわち、動作や音声をビデオセンサーで捉え、それらを相互に作用させたり、再構成したりするという最先端技術を使用している。「彼らの意図の精神的かつ情動的なパワーに圧倒されました」と語るアンジュラン・プレルジョカージュは、彼らとは地獄の概念について仕事をしようと直感的に考えたと打ち明ける(つまり、グラニュラ・シンセシスが提案した試みは、まさしく肉体的に苛酷なものだったのだ)。一方の二人組は、クルト・ヘントシュラーガー曰く、ひとりの振付家とこれほど密接な関係で仕事をしたことはかつて一度もなかったと。「私たちのプロジェクトは映像と音声の融合を追究してきたのですが、今回は、実在する肉体という概念を組み込まなければなりませんでした。私たちにとっては未知の、衝撃的な体験でした。」
今回もまた、方向を変えること、自らに刺激を与えることに情熱を注ぎ、そのために、自らのダンスを、それを吸収し破壊してしまうかもしれない“メディア”と対決させて敢えて危険に身をさらそうとしたアンジュラン・プレルジョカージュ本人は、予想していたビデオとの対立が実際にはあまりなかったことに驚かされたようだ。「テクノロジーは、単に道具としてそこにあるのです。まやかしも、特殊効果のひけらかしもありません。意図を達成するためにぎりぎり必要なものがあるだけです。」実際のところ、暴力は、この欲動に捌け口を与えようとしつつもこれを当て込んでいるビデオゲームに伝染した・・・。
しかしさらに言うなら、「N」は、いわゆる人間の条件に根ざす肉体的凶暴性を、組織化された暴力が最終的に目指す肉体の消滅に至る切断や毀損の在り様を、解き明かそうとしているのだ。Nという文字の意味するところは、Néant(無)・・・。
執筆:ジェレミー・ベルネード

●「ル・フィガロ」 2004年7月2日
アンジュラン・プレルジョカージュの新作は、ひとつの事件である。この振付家は、無関心でいることを許さないテーマに取り組み、驚くべきやり方で常に新しい表現方法を試みている。だからこそ、ヴェニス、アヴィニヨン、モンペリエといった著名なフェスティバルが彼の参加を得ようと争うのだ。柔軟な方針のモンペリエ・フェスティバルは今年、彼の最新作「N」を上演している。この作品のために振付家は、コンピュータによる音楽・映像の作家グループ、グラニュラ・シンセシスと密接に協力して仕事をした。N(「haine---憎悪・嫌悪」と理解してほしい/訳注:フランス語でNとhaineは発音が同じ)は、「名状し難いもの、言語に絶するもの:苦悩、苦痛、憤激、苦悶を、抹殺や消滅を導く主要な媒介物としての肉体」を告発している。しかし、アンジュラン・プレルジョカージュ自身は、これらのことを身をもって知ることは出来ない。そこで、彼の暴力は、耐え難いというよりは洗練されたものに、現実を切り取ったというよりは時間軸を超えたものに思われる。
彼が表現するのは、支配欲や所有欲、そして、欲望の対象となる肉体を、情熱、サディズムあるいは復讐心をもって単なる物体として扱いたいという欲求など、私達各々の内に在る、多かれ少なかれ抑圧された感情である。「N」は太古の闇のような薄暗がりの中で始まる。死んでいるのか眠っているのか、裸体が折り重なった二つの山が見える。それぞれのグループから、自分の部族を注意深く監視する首領がひとりずつ姿を現す。やがて、二人の首領は、獣のように四つん這いになって互いに挑み合い、攻撃し合い、乱暴に組み合う。この熾烈な闘いをしているのは男と女のようにも見えたが、暗さはそのままで、目が眩んで何も見えなくなるほどのストロボ効果に変るまで、上演中ずっと続く。敗者をいたぶるということに関して言えば、その感情は男も女も似たり寄ったりなのだから、男か女か分からないほうが演出として面白いにしても、照明をもっとうまく調整する必要がある。
音楽としては、一風変った音が使われていて、始めは静かだが、やがてすさまじい大音響になり、ゆっくりと消えて行く。
振付は自然な動きに従う。裸体に近い下着姿のダンサー達は、ゆっくりしたクレッシェンドに合わせ、様式化された動きと古典的な幾何学的配置によって和らげられてはいるものの確実に強まって行く暴力に呼応して、滑らかに淀みなく動きを繋げて行く。ボキャブラリーは緻密だが、斬新さに欠ける。アンサンブルの調和、薄暗がりの中でも認められる肉体の美しさ、それに、槍の場面のように、もしもっと良く見えればさらに衝撃的であっただろう幾つかの映像は楽しめるが、あまりにも不可解で、単調過ぎる。その代わり、CGの軍団、「乱」を思わせる赤と鋼色の甲冑をつけたサムライたちの3つのスクリーンへの登場は素晴らしい効果を生んでいる。プレルジョカージュは、さもしいリアリズムを回避し、テレビニュースと競おうなどとはせず、ほんのわずかな揉め事にぶつかるだけでいつでもすぐに呼び覚まされてしまう、人間の内に潜在する不寛容さを私達に気付かせようとしている。
執筆:ルネ・シルヴァン

●「ラ・プロヴァンス」パトリック・メルル 2004年7月22日
テクノロジーとダンスがこれほどうまく両立することは滅多に無い。グラニュラ・シンセシスとの準備作業は、催眠効果をもたらす超低音と見事に変化する照明をベースにした、身動きもままならなくさせるような力を持つ音響テープという成果に達した。12名のダンサー達は、その起源から今日に至るまでの世界中の暴力を、完璧な動きで表現している。原初であれ、未来であれ、「人間動物性」は常に力によって示威されるのだ。創意工夫に富んだこの作品は、観客の耳目をぐいと捕らえる。神経を刺激する最後のストロボ効果は、現実の肉体が虚構の映像と混じり合うことを可能にする。耐え難いほどすさまじいが、素晴らしい実験である。
執筆・パトリック・メルル

<参考資料>
[参考資料@]
◎「N」公演スケジュール
2004年6月1、2日  ザールブリュッケン/モーゼル・パースペクティヴ・フェスティバル
2004年6月18、19日  Istres オリヴィエ劇場
2004年6月29、30日  モンペリエ・ダンス・フェスティバル 2004
2004年7月19、20日  エクス・ダンス・フェスティバル
2004年9月15〜26日  シャイヨー国立劇場
2004年10月2日    トランスアート・フェスティバル(イタリア)
2004年10月21〜23日 クレテイユ文化センター(ヴァル・ド・マルヌ・ダンス・ビエンナーレ)
2004年11月18日   レ・グランド・トラヴェルセ(ボルドー)
2004年12月9〜15日  マルセイユ国立劇場ラ・クリエ
2005年4月1日     メゾン・アルフォール(ヴァル・ド・マルヌ・ダンス・ビエンナーレ)
2005年4月5日     イシ・レ・ムリノー PACI
2005年4月8、9日   オディシュッド・ブラニャック
2005年5月12日    コンピエーニュ・エスパス・ジャン・ルジャンドル
2005年10月27〜29日  テルアヴィヴ歌劇場(イスラエル)で公演の予定
2005年11月1日     ユーロ・シーン・ライプツィヒ
2005年12月14、16、18日 CCNエクサンプロヴァンス
2006年1月31日、2月1日 新国立劇場(東京)
(2005年1月現在)

[参考資料A]
◎グラニュラ・シンセシスの歩み
1991年以来、クルト・ヘントシュラーガーとウルフ・ラングハインリッヒは、ビデオパフォーマンスの最も優れた試みのひとつと認められている反応環境、<モーション・コントロール>シリーズを発展させてきた。ルト・ヘントシュラーガーは、フィードバック理論や、新しいテクノロジーが人々に与えるインパクトに、特別な関心を抱いている。「私が一番興味を持っているのは、複雑なメカニズムがもたらすフィードバック効果です。機械の<魂>と、それが人間の魂に及ぼす効果、言い換えれば、新しいテクノロジーが人々に与えるインパクトです。私は、超能力と完全な洗脳の混合物であるテクノロジーの持つ美的かつ情緒的潜在力を前にして、大いに満足していると同時に懐疑的でもあります。」ウルフ・ラングハインリッヒは、非常に早くから電子音の美しさに興味を持った。「音を創造するとき、microtonal(微調性)の構想を探究しながら、西欧の様々な古典的ハーモニーの融合に、そして、近東やアジアや日本の音楽の基礎にも興味を持ちました。」80年代の終り頃、クルト・ヘントシュラーガーとウルフ・ラングハインリッヒは、PyraMedia(ピラ・メディア)と呼ばれるウィーンのクリエイター集団で仕事をしていたが、一緒にパフォーマンスを構想するために、次第に協力し合うようになった。それらのパフォーマンスの最中に、彼らは、巨大な映像と音声を生でミキシングしたのである。「私達の狙いは、聴衆に気に入られるよりも、むしろ、彼らに挑むことにありました。その後、強い刺激を追求することは常に人々の関心を引くのだと気付いたのですが・・・。私達がしていることは、電子工学(エレクトロニクス)の世界とスペクタクルの世界に結びついていますが、それよりさらに強く、オペラや典礼の観念に結びついているのです。」グラニュラ・シンセシスのパフォーマンスは、音楽イベントであると同時にヴィジュアルイベントでもあると考えられている。グラニュラ・シンセシスによって創作された映像とドイツ表現主義との潜在的なつながりについて質問された際、クルト・ヘントシュラーガーは、フリッツ・ラングを例に挙げる方を選んだ。フリッツ・ラングは20年代に「急速に変化する文化的体制のプレッシャーや不安というテーマを探究していました。このような変化は常に激しい興奮やストレスなどを引き起こすように思われます。こうしたことこそ、私達の関心を引き、意欲を起こさせる題材のひとつなのです。」


photo:J.C.Carbonne


photo:J.Philippe