「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
オペラトークの模様を掲載

2005/2006シーズン オペラの開幕を華やかに飾るのはワーグナー作曲『ニュルンベルクのマイスタージンガー』。今回のオペラトークは日本ワーグナー協会の全面的な協力を得て、久保敦彦氏の司会進行・通訳のもと、盛況に開催されました。「東京から新しい舞台の装いを世界に向けて発信したい」(トーマス・ノヴォラツスキー芸術監督)、「この作品の軽やかでエレガントなサウンドを追及したい」(シュテファン・アントン・レック)、「法則にとらわれないヴァルターの音楽。それを補うザックス。その融合が未来の音楽を形作る−ワーグナーがこの作品の中で語りたかったことではないでしょうか」(ベルント・ヴァイクル)など、『マイスタージンガー』の真髄に迫るトークの模様をぜひご覧ください。

「ニュルンベルクのマイスタージンガー」オペラトーク
2005年8月24日(水) 6:30開演 新国立劇場中劇場

<出演>
シュテファン・アントン・レック(指揮)
ベルント・ヴァイクル(演出)
トーマス・ノヴォラツスキー(オペラ芸術監督)

司会進行:久保敦彦(神奈川大学教授/日本ワーグナー協会理事)
企  画: 山崎太郎(東京工業大学助教授/日本ワーグナー協会理事)
協  力: 日本ワーグナー協会

久保敦彦(以下、久保):オペラトークの開始には、まずトーマス・ノヴォラツスキー芸術監督にシーズンオープニングを飾るこの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の企画についてお話をうかがいたいと思います。

トーマス・ノヴォラツスキー(以下ノヴォラツスキー):「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は、芸術面、スタッフ、テクニカル面なども含めた過去2年間の私の新国立劇場での仕事のひとつの到達点を示すエポックとして位置づけています。多くの人は、作品として「リング」はもっとも大きな挑戦だとおっしゃいますが、「マイスタージンガー」こそさらに大きな挑戦の対象だと思います。もちろん、「リング」も超大作ですから大変な労力を必要としますが、「マイスタージンガー」もスタッフ、キャスト、オーケストラ、コーラス、技術的なスタッフに至るまで総合力を必要とされる作品です。就任して以来2年間、お客様も含めてこの劇場は大きく発展してきたと自負しています。これまで一つ一つの作品が真珠のような輝きを持ちながらひとつの流れに沿う形でその粒を重ねてきました。2年経った今、ここでひとつの記念碑的な上演をと思った次第です。

久保:そのような流れの中で、ノヴォラツスキーさんが指揮、演出そして出演者のチームを束ねていらしたわけですが、その中における人事的な面はいかがでしょうか。

ノヴォラツスキー:多くの優秀なアーティストを迎えて公演を行ってきたことをこの劇場の大きな財産とし、今後もその財産を大切にしながら歴史を重ねていきたいと思っています。キャストの中には、初役(その役を初めて歌うこと)をこの新国立劇場で披露し、それから世界の他の劇場へその役で出演をしていく、そういう人がいても良いのではないかと考えております。
このオペラの内容についてお話ししますと、主役の女性であるエーファを取り巻く3人の男性を中心にストーリーが展開します。その3人の男性は、いずれもエーファの花婿候補になりうる面々です。さて、こういう物語をお伝えするために、それを語る役割である良き演出家が必要になってきます。指揮者には、この作品を何回も振って慣れ親しんでいるというタイプではなく、フレッシュな感覚で取り組んでこの作品の新しい音楽的側面を開拓し引き出してくれる可能性を持つ人材に依頼しました。それが私の企画者としての発想ですが、同時に目指すところは、この作品で、お客様に新しいスタイル、新しい舞台の装いをぜひ提供したいと思っていることです。最近では、東京がどういう作品をどういう風に上演するのかということに世界中から注目が集まっています。皆様と一緒に世界に向けて新しい時代を発信したいと思っております。

久保:次に、指揮のシュテファン・アントン・レックさん、演出のベルント・ヴァイクルさんをお迎えしお話をうかがってまいります。
まずは、ヴァイクルさんに演出面のお話を伺おうと思います。新国立劇場の情報誌「ジ・アトレ」6月号に、ヴァイクルさんの詳細なインタビューが掲載されておりますので、繰り返して同じことをお尋ねすることはしませんが、それをベースにしてお話を進めてまいりたいと思います。アトレ誌によりますと、演出家としては今回が4作品目だということですが、これまでの3作品とはどの作品だったのでしょうか。

ベルント・ヴァイクル(以下、ヴァイクル):最初は「フィガロの結婚」でした。次に「サロメ」、そして「地獄のオルフェウス」を新しいテキストで行いました。

久保:アトレ誌にお話しになったのは、「マイスタージンガー」は一種の裁判劇だということ、最初はヴァルターがT幕で審判に負ける、そして最後にはヴァルターが勝ってベックメッサーが負ける、そこでは審判はマイスターたちであると同時に民衆である、という趣旨でしたが、敢えて裁判劇という見方をされたのはどういう観点からだったのでしょうか。

ヴァイクル:まず、裁判劇と言ったのは、審判の場、という言葉が台詞の中に出てくるということがきっかけです。自分が実際にして欲しくないことを他人にするな、という格言めいたものがあるように、立場が逆になったらどうなるのか、ということが問われます。T幕ではベックメッサーが扇動して攻撃の矢がヴァルターに向けられますが、V幕では、それがそのまま逆転した形で展開します。


久保:これまで何度もザックスをお歌いになってきたヴァイクルさんですが、いつ頃から、将来この作品を演出してみようというお気持ちになったのでしょうか。

ヴァイクル:その思いはずいぶん古くから持っておりました。実現したのは、ノヴォラツスキーさんがお招きくださったからです。確かにザックスを色々な演出で歌ってきましたが、本音を申しあげれば、自分の思いをその役の中で完璧に遂げた、ということは一度もありませんでした。つまり、与えられた枠の中で歌う、ということがずっと続いてきたわけです。

ノヴォラツスキー:私が招いた、とおっしゃっていますが、私としてもある朝目覚めて急にヴァイクル氏に演出を、と思い立ったわけではありません。その前提としては、事あるごとにこの作品について思いを交換して、お互いの意見を伝えあってきました。その自然の積み重ねがあって、今回の演出家・ヴァイクルという結論に至りました。

ヴァイクル:これまでの演出で、私がこれは違うな、と思ったのは、ベックメッサーについてです。彼が“悪者”という形で描かれていなかったことです。T幕で、ヴァルターが登場したときに、ベックメッサーの台詞『あれは誰だ、どこの奴だ』という最初の対応が始まります。あの世界では、ヴァルターはいわばよそ者、外国人的な存在であり、それに対して拒絶的に『あれは誰だ』という反応が示されています。つまり、自分だけの秩序、世界に閉じこもるタイプの人間である、という意味で、ベックメッサーこそがナショナリストであり、その人物の中身といえば、他に対して寛容でなく、エーファに求婚しているのもポーグナーの資産目当てなのが本音なのではないかと思われるように実際に「愛」というものを身につけているのかどうかもわからない、そういう性格として作品に描かれています。しかし、その独裁者ベックメッサーの敵対者であるハンス・ザックス、そしてその二人をそのように描いたワーグナー自身はナショナリストではなく民主主義者である。ですから、台本によれば、ベックメッサーは最後には祝祭の場から追いやられる、という筋書きになっています。それらをふまえて、作品が本来持っているストーリーに立ち返って演出をしたいと常々思っていました。

なお、ナショナリズム(国家主義)とともに、反ユダヤ主義についても、過去30年に渡ってショーペンハウアーやトーマス・マンなどの著作を読んできました。トーマス・マンは1933年にすでに、「この作品そのものは反ユダヤ主義ではない」と言っています。その関連を取りざたされる理由は、この作品をナチスが濫用してその目的に使ったということであり、作品そのものに内蔵される思想ではないことが指摘され、私自身もそう思っております。つまり、台本によれば、ベックメッサーがV幕の終わりで追い払われることは、ベックメッサーがそこで体現している国家主義とか反ユダヤ主義が追い払われる、ということを意味しているのです。

久保:さて、ザックスの歌う「ニワトコのモノローグ」、この歌の中には、ザックスの人となり、その考え方、人生観、芸術観などが凝縮されて歌いこまれています。これからザックスの性格についてのコメントをいただく中で、まず、新しい流れを持ち込んできたヴァルターに対して基本的に賞賛し受け止めているザックスが、その反面若干の羨望や嫉妬とまではいかないまでも複雑な思いを抱いているのかどうかにも触れていただきたいと思います。

ヴァイクル:まず、この物語の中の日付ですが、6月20日、21日という時期です。ヨハネ祭が6月21日です。実は、この歌、Was duftet doch der Fliederの“Flieder”は通常“リラの花”のことを指しますが、この時期にはバイエルン地方ではリラの花は盛りを過ぎています。ただし、同じFliederでも“ニワトコの花”(Holunder/英語名はElder)を意味することがあり、この場合はこのニワトコについて歌われていることになります。実際にFliederという名前のワインがありまして、それに使われている実はHolunderニワトコなのです。もうひとつ、ヨハネ祭、ヨハネの祭日については、ドイツ語で男性の更年期のことを「ヨハネの衝動」という言い方をしているのですが、そういう意味合いも含めてヨハネの祭日というのが歌いこまれているわけです。

さて、ザックスはこのモノローグの中で、いろいろ考えるわけです。それまで一般的であった法則では、歌の定型はA・B・Aがルールでした。ところがヴァルターが持ち込んだのはA・B・B,またはA・B・B−1といったように、従来の法則に合わないものでした。しかし、ザックスはそれも一つのスタイル、一つの法則であると寛容に受け止め、さらにそれは未来の音楽を形成する可能性、これはワーグナー本人も持っていた感覚、アイデアでもありますが、それを感じとっていたのだと思います。

ベックメッサーは法則のかたまりですが、反してヴァルターは自然、自由を持ち込んできた。しかしそれはルール、法則にはあまりにかけ離れている。その欠けた法則の部分を後から補うのがザックス、という融合から、未来の音楽の形が出来上がっていく。それが、ワーグナーがこの作品の中で語りたかったことだと思います。

久保:では、レックさんにお話をうかがいましょう。まず今回どのように指揮に取り組まれるのか、基本的なお考えからお聞かせください。

シュテファン・アントン・レック(以下、レック):私にとっての第一のテーマは「マイスタージンガー」の音楽に従来からつきまとう重々しく大げさなイメージを取り除くということでした。この3日間、東京フィルハーモニーと毎日7時間のマラソンのような稽古を行い、声もかすれ体力的にも限界に近いものがありますが(笑)、本日は皆様にワーグナーの大切なところをお話ししたいと思いましてトーク出演のご依頼を受けました。まず、ワーグナーが実際にこの「マイスタージンガー」や「トリスタンとイゾルデ」を作曲した頃のオーケストラの響きは、今日とはまったく違っていたということを申しあげたいと思います。例えば、弦楽器は腸(ガット)で作った弦を使用していましたし、もちろん木管楽器も現在のものとは違い、クラリネットもファゴットも細い音で、フルートも木製、もちろん、金管楽器も全般的にとても薄い音色でした。ティンパニーも小さいものでしたから、今日のオーケストラとは比べものにならないサウンドだったわけです。スコアは100年も前に書かれたものであり、強弱も当時書かれたまま演奏するわけですが、当時の楽器の演奏の方法もテクニック的なことも現在は全く違ってきているのです。


そのような観点からすると、ワーグナーが当時、確かに“重厚”にこの作品を書いたのですが、今日でも誤解されていることが、その“重厚さ”の捉え方です。例えば「マイスタージンガー」のスコア上で見ると、使われている楽器編成は比較的小さいものでクラリネットは2本のみ、バスクラリネットは使われていません。バスクラリネットの登場しないワーグナーの作品は他にありません。ファゴットも2本だけでコントラファゴットの使用もなし。フルートが2本、ピッコロが1本、オーボエが2本。ホルンは4本のみ、トロンボーンが3本などそこにチューバがなければまるでベートーヴェンの交響曲のような編成なのです。ですから、ワーグナーが意図的に「リング」や「トリスタン」と対比させるためのコントラストとして、このような楽器編成で作曲したのではないかと思っています。

さて、「マイスタージンガー」といえばまず有名な序曲を思い出す方も多いかと思います。この4度音程のモチーフにもドイツ語でKraftigクレフティヒ(力強く)とスコアに書かれています。しかし、そのクレフティヒという言葉も色々と相対的に考えなくてはいけないと思います。その当時のオーケストラで聞いていた耳に対する“クレフティヒ(力強く)”という意味だからです。今回の「マイスタージンガー」における指揮の解釈ですが、これを私がドイツで演奏するよりも、はるかに容易くこの東京での公演で可能となったことがあります。これまで重く重く、と伝統づけられていたこの作品の音楽をまるで埃を拭い去るように、軽いイタリア的なサウンドで演奏し、ヴァルターのアリアなどもイタリアもののアリアのように演奏するのが、この作品への私の解釈の出発点です。そういう意味でも、私はこの作品を東京で演奏できることをとても幸せに思っておりますし、東京フィルハーモニーのメンバーとのこの3日間稽古を通じ、やわらかくエレガントな音色は世界のトップに名前を連ねるオーケストラだと申しあげたいと思います。軽やかでエレガントなサウンドが今回の私の音楽のコンセプトと言いましたが、これがドイツでの演奏となると重く伝統的なしがらみがあり、それと戦わなくてはならない側面がでてきます。ここ東京でオーケストラに私のコンセプトを説明しましたら即座に理解していただき、素晴らしいリハーサルが展開しています。

久保:新しく興味深いポイント、軽やかさを出したいという解説をいただきました。
この“軽やかさ”というのは、もちろん全体を通じてのコンセプトとしておうかがいしたわけですが、さらに何か特別なポイントでその“軽やかさ”というものを色濃く出してみたいところがあれば、お聞かせください。

レック:まずお客様には、最初の序曲の間に旅に出ていただきたいと思います。その序曲の間に、感情が最高潮にまで達していただき何の説明も要らないような状態で長い旅に出て行っていただきたいと思うのです。やはり、他の短いオペラなどと違い、こういう作品は毎日毎日聴くものではないと思いますから、その日一日は「マイスタージンガー」のために時間を割き、そのための喜びを見出して楽しんでいただきたいと思います。もし序曲の間にお客様が心地良い状態で「マイスタージンガー」の旅に出ていただくことができたなら、その日はきっと素晴らしい演奏になること間違いなしです。

久保:さて、先ほどマエストロのお話にもでてきましたが、序曲の冒頭に出てくる跳躍音程の部分、そこも含めて、音楽面で関連付けられているモチーフ等がいずれのオペラにもあるものですが、この「マイスタージンガー」でもやはりモチーフの関連付けが見受けられます。それについて、音楽例を用いて簡単に解説していただきたいと思います。

最初に、作品の基底をなす4度の跳躍音程についてのグループです。まず、この作品の序曲の冒頭です。2番目は序曲に続く教会の場面で、合唱が礼拝の場面で歌っているところです。それから、だいぶ先のシーンに飛びますが、V幕の合唱「目覚めよ」の冒頭です。この3つの部分に共通する点は何でしょう。

レック:これら3つの動機の共通点は、4度音程の跳躍です。「マイスタージンガー」では、この4度の音程が重要なポイントになっています。今の3つのうちの2つはいずれも上から下へ跳ぶ4度でした。3つめは、突然太陽が昇るように合唱が「目覚めよ」と歌うところです。この際には下から上への4度です。これは最初弱い音p(ピアノ)で始まりますが、音の強弱の問題ではなく、感情的に高まっていくところでこの4度が上がっていくのです。「マイスタージンガー」に限らず、音楽史上でも4度の上方への跳躍は、感情の高まりを表現する音程として用いられてきました。

ノヴォラツスキー:ここでは、合唱が非常に注意しなくてはならない興味深い点があります。合唱がザックスを褒めるのですが、そこでは同時にプロテスタント主義への賞賛をも表しています。歴史上のハンス・ザックスの作詞によるこの歌は、プロテスタントを礼賛したものであり、その中に出てくる“ナハティガル(=ナイチンゲール)”は暗黒の世に美しい歌声で夜明けを告げる鳥という意味から、マルティン・ルターのことを指しているのです。このようなことを話し始めたらきりがないほど様々な背景が存在しており、これらを理解していないために「マイスタージンガー」が誤解されている部分が多いのです。

久保:では、次のグループに話を進めましょう。作品の中で発展していく“憧れの動機”です。序曲の中で、この動機というかメロディが出てくるところがあり、それが他3箇所と関連があるかどうかを確かめてみましょう。これはずいぶん繰り返し耳にする動機ですが、最初に序曲の中で出てきます。次がT幕2場、徒弟のダーヴィッドが、マイスターを取得するためのルールについて歌う部分「マイスターの音と調べは〜」です。次は礼拝の合唱の部分。そしてヴァルターの懸賞の歌「思いだにせぬ歓喜」。憧れのような感触や動機であると受け止めてよいのでしょうか。

レック:この4つのメロディは“憧れの動機”として捉えてよいと思います。かといって、必ずしもこの4つを関連付けて考えなくてはいけないというわけでもないと思います。先ほどの4度音程についてははっきりと音楽的に分析できるのですが。今の最後のヴァルターの懸賞の歌は、先にご案内したようにイタリア的な明るい歌唱の特徴を持っていると思います。

ヴァイクル:ここでひとつ付け加えさせていただくとすると、全ての良い甘いメロディにはホルモンの作用と思われるある一定のやや物悲しげな、しかしまた一方では何か他のものに対しての憧れを誘うような要素を含んでいるものだと医学的に言われています。

久保:念のためご紹介申しあげると、ヴァイクルさんは、歌または音楽の持つ医学的な効果については、著書も出され、またウィーン大学で講義もなさっている、その方面にもとても造詣の深い方です。

では、第3のグループに参りましょう。ここでは、動機の断片がどのように活用されているかということをご紹介したいと思います。まずは、U幕のベックメッサーのセレナーデの部分です。次がU幕の最後の大乱闘、殴り合いのシーンのフーガです。そして、V幕の祝祭のシーンで徒弟たちを中心に踊る踊りの音楽です。

レック:今の3つの部分で、最初のベックメッサーのセレナーデでは、彼が色々歌って最後は混乱に終わるのですが、それが2番目の、幕の最後の群集の殴り合い、騒乱の場に通じることははっきりとした形で確認できると思います。しかし、3番目の徒弟の踊りのところで、その共通部分がつながってくるかということについては、はっきりとはわからないですね。

ヴァイクル:最初の2つのポイント、特にベックメッサーの歌に関していえば、頭は良くても感情面に欠陥を持った人間であるベックメッサーが、歌は一生懸命歌うのですが、正しいアクセントの付け方ができずに次第にゆがんできて、最終的には自分自身が混乱に陥って収拾がつかなくなり、その部分の音楽が全シーンを集約する殴り合いの場面に通じることになるのです。

久保:ベックメッサーについてのコメントをいただきましたが、ヴァイクルさんはある録音ではベックメッサーも歌っていらっしゃいますね。

ヴァイクル:ベックメッサーを歌うときは、私も楽譜に従い、“正しく”間違った歌い方で歌うということをしたわけですが、ベックメッサーの短所は、表面的には歌の間違いという形で現れますが、その根幹の部分には、イデオロギー、思想の過ちがあり、したがって大団円の場で、太陽に満ち溢れた野原に寛容、愛といった全てのものを包摂するユートピアに、ベックメッサーは参加していません。もちろん別の形でそこに戻ってくるということはあり得るかもしれませんが、少なくとも舞台ではその姿を見せられていないという結果になっています。

レック:たしかにU幕とV幕の対比はたいへん興味深いです。まずU幕でベックメッサーは、自分の間違った歌を皆に披露するのですが、先ほどお話にあったように、間違ったアクセントを強調したり、歌詞の内容も滅茶苦茶になったり、そのセレナーデが最後の大混乱のシーンを引き起こします。U幕の終わりはステージ中が混乱の渦と化します。それに対して、V幕のアリアは、ザックスがヴァルターに、この歌がどのように素晴らしいのか歌ってもらいましょうと言い、それらの言葉がどれだけ感情豊かなものであるかが歌われます。そして、その歌によって全員が天国にいるような心地に導かれます。そして、このオペラの大合唱団がそのユートピアに導かれていくのです。

久保:さて、最後になりますが、今回、ザックスを歌うペーター・ウェーバーはこの役を初めて歌うと聞いております。偉大なザックス歌いであるヴァイクルさんの演出のもとでこの役のデビューを果たすということは、とても名誉で喜ばしいことでもある一方、実は相当なプレッシャーがかかっているのではないかと思います。そのような部分を、演出家の立場でどのようにして今回のザックス役との関係を保っていらっしゃるでしょうか。

ヴァイクル:ペーター・ウェーバーは親しい友人で、ウィーンでは一緒に飲みにいく間柄でもあります(笑)。さて、演出家の立場からザックスの動きや性格づけについては、指示はいたします。しかし、歌手としてのウェーバーの個性を削ぐとか私の好みを押し付けて第2のヴァイクルにする、などという発想は毛頭ございません。彼は、歌手として彼自身のザックス像を作っていき、私もそれを尊重するという立場で、これまでも非常に和やかに稽古を進めてきております。



■「ニュルンベルクのマイスタージンガー」公演情報 (2005年9月14日〜10月2日)

チケットのお申し込み:新国立劇場ボックスオフィス 03−5352−9999



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