「コジ・ファン・トゥッテ」
オペラトークの模様を掲載

2006年はモーツァルト・イヤー。たくさんのお客様をお迎えし、「コジ・ファン・トゥッテ」の オペラトークが開催されました。モーツァルトについて、そして今回の舞台について 楽しいトークが繰り広げられました。その模様を、ぜひご覧ください。

「コジ・ファン・トゥッテ」オペラトーク
3月5日(土)18:30開演 新国立劇場 小劇場
<出演>
ダン・エッティンガー(指揮者)、コルネリア・レプシュレーガー(演出家)、
トーマス・ノヴォラツスキー(オペラ芸術監督)



トーマス・ノヴォラツスキー(以下、ノヴォラツスキー):今晩は、「コジ・ファン・トゥッテ」について大いに語りあいましょう。この物語の歴史的背景、登場人物の人柄や感情、作品について、新しい発見があれば嬉しく思います。

残念なことに、フェルランド役に出演を予定していたジョン・健・ヌッツオが、出演できなくなりました。彼は、肩から首にかけて具合が悪く、しばらくの間療養が必要ということでドクターストップがかかってしまったとのことでした。リハーサルの始まるたった2日前に彼から連絡がきたものですから、大至急、代わりのテノール歌手を探すことになりました。ニューヨークのメトロポリタンオペラの多大な協力と理解により、あちらの公演リハーサルへの参加を数日遅らせていただくことができ、幸運にもグレゴリー・トゥレイという素晴らしいテノールを迎えることができました。彼は、急遽来日し、さっそく稽古に参加しております。

さて、「コジ・ファン・トゥッテ」が作曲された時代、オーストリアではヨーゼフU世が皇帝として君臨していました。彼は歴史上でもたいへん興味深い、偉大な人物で、多くの功績を残しています。その当時オーストリアでは革命の機運が高まっていましたが、彼は、革命家が目指している改革をすでに実行してしまいました。また、彼は芸術を愛し、多くのオペラ作品を委嘱しました。そのうちのひとつが「コジ・ファン・トゥッテ」でした。当時、ダ・ポンテは宮廷付きの詩人で、同じく宮廷付きの作曲家はかのサリエリで、本来なら彼が作曲をするはずでした。ヨーゼフU世は、政治や軍隊のことも含めて自分の関わるありとあらゆる分野について、それを舞台で上演してみせることで、人々に自分の行っていることを理解してもらえると考えていました。しかし、ダ・ポンテのこの作品は、その内容から観る人に誤解を与える可能性が大きいと危惧していました。そこで、いままでの伝統、体系の中から離れることを思いつき、モーツァルトに作曲させて上演することにしました.モーツァルト自身も「フィガロの結婚」の次の題材を探していたところで、この台本を気に入りました。モーツァルトは、「フィガロの結婚」の不評でウィーンにはいづらい状況にありました。しかし一方でフランス革命の影響で観客の好みが変わってきていました。この時代は、さまざまな階級の人にとって、複雑な時代でした。革命によって大きな時代の変化が起こり、人々は各々の居場所を見つけることができないでいたのです。そのことが「コジ・ファン・トゥッテ」に反映されています。

さあ、演出家と指揮者のお二人をお呼びして、こういった時代背景も含めてお話していただきましょう。
コルネリア・レプシュレーガーさんとダン・エッティンガーさんです。
すでに、エッティンガーさんは昨年の「ファルスタッフ」で新国立劇場劇場に登場していますので、皆様ご存知でしょう。レプシュレーガーさんは、オペラトークには初めての出演ですので、まずはご自身の経歴をお話いただきましょう。

コルネリア・レプシュレーガー(以下レプシュレーガー):では、少し自己紹介いたしましょう。生まれはベルリンです。ドイツ、フランス文学を専攻し、その後音楽と演技の勉強もしました。舞台ではアシスタントとして仕事をはじめ、6年間ウィーン歌劇場で仕事をしたのちフリーになり、今はドイツを中心に演出をしております。4年前には、新国立劇場の「マノン」の演出補として来日しました。この後は、ライプツィヒで「ウェルテル」の演出をすることになっています。

ノヴォラツスキー:コルネリアとは私がウィーンで仕事をしている時からの知り合いで、当時から彼女の仕事ぶりを良く知っています。彼女は、偉大なストーリーテラーなんですよ。
歴史を振り返っても、ベートーヴェン、マーラーなど多くの音楽家がこの作品を素晴らしいと感じていながら、台本については高い評価をしていません。実際、この台本は、あまり良くないのですか?

レプシュレーガー:いいえ、とても良くできた台本ですよ。ただ、他のモーツァルトの作品とは少し異なっているかもしれません。たとえば、「フィガロの結婚」の物語は、すでにボーマルシェの作品で読まれていました。「コジ・ファン・トゥッテ」は、新しい要素をはらんでいます。音楽のみならず、ストーリーも大変モダンで、この斬新さはオペラにとっては大切な要素です。ただとても大胆な作品だったがゆえにリヒャルト・ワーグナーのような先進的な人にすら、台本には見るべきものがないと思わせてしまいました。まして19世紀の普通の人々には、この物語は理解しづらい部分がありました。現代を生きる私たちが、この物語の持つ真の意味を見つけることができることは、とてもラッキーなことだと思います。

ノヴォラツスキー:この作品に取り組むには、恐れにも似た気分がするのではないでしょうか。


ダン・エッティンガー(以下エッティンガー):ストーリーだけでなく、音楽もおもしろくないと言われている場合すらあります。この作品の序曲は悪くないと思いますが、「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」の序曲に比べると、音楽で表現される物語の展開にちょっと変わった要素を持っている作品です。「フィガロ」に出てくるような有名な曲もあまりありません。この作品は、冒頭から三重唱ではじまります。「フィガロ」はあの有名な二重唱で始まります。「コジ・ファン・トゥッテ」冒頭の三重唱は、音楽的にも物語的にも既存の筋書きのルールというものを打ち壊しています。物語の開始を三重唱で始めるのは、クレージーと言わざるを得ません。これでは、誰が良い人で誰が悪い人なのか、誰が誰を愛していてこれから何が起こるのか、全くわからなくなってしまいます。音楽家である私自身ですら、このオペラの演奏をするまでには時間がかかりましたので、お客様にはなおさら難解に感じられることでしょう。このオペラを演奏し始めると、自分自身も混乱してしまうので、なんとなく先延ばしにしていました。まずは「魔笛」から、そして「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「ティトの慈悲」と来て、それからようやく「コジ・ファン・トゥッテ」に取り組む気になりました。それほどまでに、この作品の冒頭は混乱しています。

ノヴォラツスキー:この作品は、気楽に、くつろいで楽しめるタイプの作品ではないかもしれませんね。哲学的な要素が最初から語られるので、そのまま最後まで一所懸命観て、聴いて、考え続けなければならないかもしれませんね。

レプシュレーガー:ルールを破るという点では、最初から3人の男性が登場し、これから何が起こるのかわかりません。それだけでなく、三重唱では1人を他が追いかけるように順番にどんどん続くのです。

エッティンガー:それは、5分、いいや、7分も音楽がずっと続いて、本当に凄いことになっている。

レプシュレーガー:最初からそれぞれに対立があるのです。それは、あまりハッピーなものではないということを暗示しているようです。

エッティンガー:“女はいつもこうしたもの”というタイトルからして、きっと最初は女性が出てくるかと思ってしまいますよね。

ノヴォラツスキー:その混乱や対立とはなのでしょう。抵抗感や苦手意識のような何かがそこに存在するのでしょうか?

レプシュレーガー:モーツァルトもダ・ポンテもこのオペラの最初から最後までずっと、混乱した感情や、そのもつれ合いによる激情を私たちに見せつけます。私もそうですが、人はふつう、問題や混乱には巻き込まれたくないと思いますよね。今日、U幕のフィナーレを稽古していたのですが、最後に皆で、モーツァルトとダ・ポンテはいったい何を言いたいのだろうと話し合いました。結論として、彼らは私たちに、私たち自身が考えること、私たち自身でその答えを見つけるということを言いたかったのではないかということになりました。それこそが、私がこの演出でこのオペラを通じて、観客の皆様に伝えたいことなんです。

ノヴォラツスキー:モーツァルトのオペラは、常に私たちに混乱を提示しています。秩序が整っているということはほとんどないような気がしますがいかがでしょう。

エッティンガー:それは、おもしろい映画に似ているのではないでしょうか。初めから混乱していて、いったい誰が良くて悪いのかわからない。誰が殺されてしまい、誰と誰が恋に落ちているのか。モーツァルトはそれを天才ならではの手法で表現していますが、まず音楽的に珍しい特徴を持って開始します。三重唱で始まり、アフフォンソがアリアとレチタティーヴォの中間のような音楽で歌います。ようやく、第2場で女性が登場し、とてもリラックスした混乱も対立もない音楽が続き、それが最初の解決であり、そこで初めて秩序が示されるのです。

ノヴォラツスキー:れは、女性の規律正しく、思考が整っているということでしょうか?

エッティンガー:そうですね。タイトルの「コジ・ファン・トッテ」は、だらしない女性のことだけれど、実際には、なんともだらしない男どもが登場します。それは音楽も同じで、男性の登場人物のための音楽は秩序が整っていないけれど、女性のために書かれている音楽は、整っていてまるで「フィガロの結婚」の最初の二重唱のように完全な形で構築されています。前半は、フェルマータを多用した音楽が書かれていますが、後半は整った三重唱や六重唱によって構成されていいます。少なくとも、このオペラの最初は女性は規律正しく、男性はクレージーで策略家だというように描かれていますね。

ノヴォラツスキー:それってオペラの中だけだよ(笑)。そもそも、女性と男性は、違った視点で物事を見ている。物事に取り組もうとするアプローチの違いがあると思います。登場人物の特徴づけはどのようにしていますか?

レプシュレーガー: それは、女性としての私に聞いているの、それとも、演出家としての私?(笑)

ノヴォラツスキー: 女性の演出家としてかな。

レプシュレーガー:女性の立場から世の中を見ることはあまりしていないの。大きな人間的な視点で物語と人物を捕らえようとしています。女性の目で見てしまうと、アルフォンソやフェルランドたち男性の登場人物たちの捉え方が変わってしまうかもしれない。最も大切なことは、なぜそうなるのか、なぜそこにいるのかについて理由を発見すること、行動の理由を見つけることです。音楽、物語を分析するためには、登場人物のとる行動を、男性だからとか女性だからという男女の違いという括りで判断を下してしまうのではなく、人間としてなぜこういうことをしたのかというポイントから考えるようにしています。

ノヴォラツスキー:音楽的にはいかがでしょう。同じように影響がありますか?

エッティンガー:男女の違いが話題になっていますが、この作品に登場する3人の女性の性格の違いが表れていておもしろいと思います。フィオルディリージは、情感を込めて歌えるプリマドンナ・アリアがあり、音楽的にも中身が濃くて長い曲です。歌詞も彼女の人物像が浮かび上がるような歌詞で、彼女の人生観、恋愛観が表現されています。そして、彼女の妹のドラベッラは、短めのアリアで、音楽もそれほど複雑な構成ではありません。しかも、彼女のアリアのひとつは、拍手も期待できないかもしれません。

レプシュレーガー:ドラベッラの2曲目のアリアは、まるで、デスピーナが歌いそうな曲に聞こえるの。

エッティンガー:なんだ、いま、その話をしようと思っていたんだ!僕たち、すばらしいチームワークだよね(笑)。この姉妹には、デスピーナというメイドがいて、きっとふたりの親友でもあると思う。ふたりのうちのどちらかがデスピーナとより親しくなってしまうのはよくある話ですが、この場合はドラベッラの方です。彼女のアリアは、曲調も低級というか、そういう身分の低い人たちに同調する雰囲気が出ています。ドラベッラのアリアは、比較的短いけれど、感情にムラがあることを表しています。最初のアリアは、恋人が離れていってしまい気分をコントロールできなくなっている様子を表していますが、2曲目のアリアでは、もう、新しい恋人ができそうで、彼女がかなりワイルドになっているのがわかります。3人目はメイドのデスピーナです。彼女の音楽は、とてもシンプルで、彼女の低い身分を表す曲調になっています。オーケストラの伴奏もそれを反映しています。しかし、相反するかのように、たいへん機智に富んだ賢明なことばで歌われているのです。彼女が、比較的低い階級に属していながらも、大地に根ざした、しっかりした考えをもつ女性であることを音楽が表現しています。音楽と歌詞の矛盾のようなものが非常おもしろいですよ。

ノヴォラツスキー:モーツァルトのオペラには身分の低い召使いのようなキャラクターが、必ずと言っていいほど登場します。そして、その身分の低い登場人物の方が、知恵があり賢い設定になっています。これは、コメディア・デラルテ(即興演劇)の風潮を反映していると思いますが、その中には政治的な意味合いも含まれている気がしますがいかがでしょう。

レプシュレーガー:その通りだと思います。でも、「フィガロの結婚」ほどは、その色合いが濃くはないですね。なぜなら、「コジ・ファン・トゥッテ」の場合デスピーナは、勝者でも敗者でもありません。ダ・ポンテもモーツァルトも、彼女を他の身分の高い出演者と同格に扱っています。最終的には、彼女には両方の側面を表します。そして、転んでも落ち込んでも必ず立ち直る気概を感じさせます。なにより、現代にも通じるテーマとしてこの作品に込められているものは、人間誰もが同じ気持ちを共有しており、感情を培っているということです。身分に関わらず、根本の部分は一緒であるということが語られています。

ノヴォラツスキー:モーツァルトの作品を見てみると、生まれは高貴で貴族の階級であろうと、必ずしも成功するわけではなく、地位を追われたり、殺されたり、あるいは何かを学ぶ過程の身である人物像が多いのですが、それはモーツァルトの思想を反映していると思われますが、フリーメイソンの思想に基づいて、人間は平等であるというメッセージを、我々に伝えようとしているのではないでしょうか。

レプシュレーガー:興味深いことに、ダ・ポンテでなく、モーツァルトのアイデアで、当時流行していたメスマー博士の磁気療法を付け足したのだそうです。T幕の終わりで、デスピーナが一緒に変装して、ふたりの男性を治療しようとします。そして、カバンの中から磁石を取り出します。これは、メスマー博士を表現しています。モーツァルト自身も実際ウィーンで博士と会ったことがあるのだそうです。メスマー博士は、全ての生命体、動物も人間も、同じ磁気や体液が流れているという当時では画期的な考え方を持っており、一部からは批判をされていました。

ノヴォラツスキー:彼の治療法は催眠療法が中心でしたが、この方法では、どうしても人々を不安にしてしまっていました。
さて、作品について掘り下げていきたいと思いますが、このあたりで、“レチタティーヴォ”と“アコンパニアート”についてその秘密を教えてください。通常アリアになるとお客さまは身を乗り出し、レチタティーヴォがくると少しくつろいだ気分でお聴きになると思いますが、レチタティーヴォとはいったいどのような役割があるのでしょう。

エッティンガー:モーツァルトやロッシーニのオペラのレチタティーヴォ部分を計算したら、おそらく30分から1時間くらいの分量があると思います。ジングシュピールや芝居であればいろいろな情報がその部分に含まれているものですが、アリアや重唱の部分では話の展開するスピードが遅くなりがちです。そこでレチタティーヴォによって、筋書きが凝縮された形で、速いテンポで前へ前へと進んでいくことが大きなポイントと言えます。もしワーグナーがレチタティーヴォを使っていたら、6時間の作品が4時間に短縮されていたでしょうね。

大きく分けてレチタティーヴォには2種類あります。まず、チェンバロやフォルテピアノなどの鍵盤楽器によって伴奏されるレチタティーヴォ・セッコです。時に、チェロやコントラバスがそれに付随することがあります。もう一つは、レチタティーヴォ・アコンパニアートと言われるオーケストラ全部で伴奏するものです。モーツァルトなど作曲家は、レチタティーヴォを書くにあたって、セッコにするか、アコンパニアートにするかを決めるわけです。どれだけの情報をレチタティーヴォに注ぎこむか、どのくらい時間をかけるか、どのような特徴づけをするかなどを考慮しながら、いずれかを選択します。あっさりと軽い感じのレチタティーヴォなら鍵盤楽器、もっと感情をこめたければ雰囲気を作りやすい弦楽器を使うことが多いですね。アコンパニアートの場合は、まるでアリアの伴奏のように作曲されているのでそれに従って演奏をすれば良いのですが、セッコでは、楽譜には一つの音しか記されていません。伴奏者自身が、それに和音を積み重ねて演奏します。でも、ただの和音ではちっともおもしろくありません。それで、もし歌手が、「こんにちは」という一節を歌うとして、明るく幸せな気分を表現したい場合は高音を使って軽快な合いの手を、また少し悲しい気持ちで歌う時には、同じベースの音でも1オクターブ低い所から低音を這わせながら伴奏するなど変化をつけます。さらに、気持ちが定まらないことを表現したい時には、同じベースラインを弾きながらも、考え考え間を取ったあげく言葉をのせる、というように大事な役割を担っています。

レチタティーヴォの鍵盤楽器の奏者は、歌手の歌う語りのようなレチタティーヴォに色彩をつけ、単にそこで起きている事項を説明するだけでなく、その時の登場人物の感情までも観客に伝えるよう表現しなくてはなりません。昔、無声映画においてピアノ奏者たちが、画面に映る役者の感情を表していました。画面だけでは感情があまり伝わってこないからで、それは後にオーケストラ演奏に変わっていくのですが、それと同じような役割というわけです。

レプシュレーガー:指揮者自身がレチタティーヴォの伴奏もすることはあまり多くないのですが、今回エッティンガーさん自ら伴奏をしてくださるというのは嬉しい限りです。演出しているシーンをよくご存じですから、それぞれぴったりな雰囲気で弾いてくださいますから。

エッティンガー:モーツァルトのオペラは、音楽がドラマとステージング(演出)を結びつけているという点で非常にユニークです。今回も、リハーサルでレチタティーヴォの伴奏をしていることで、演出にもいつも以上に密に関わっていられるから、楽しいです。

ノヴォラツスキー:演出家にとってレチタティーヴォ・セッコはどういう位置づけでしょうか。

レプシュレーガー:とても大事なものです。レチタティーヴォ・セッコの中に、ドラマとしての行動がほとんど集約されていますし、感情はアリアで表現するという既成概念も、モーツァルトの作品はセッコにおいてもじゅうぶん感情が組み込まれています。レチタティーヴォの中で、まるで日常生活のような会話が繰り広げられています。

ノヴォラツスキー:次に、テンポ(速度)について質問いたします。テンポといえば、速い遅いは感情やテンションによって変化してくると思いますが、モーツァルト作品において正しいテンポとはどういうものでしょうか?

エッティンガー:多くの人が、モーツァルトのテンポは速くて軽やかで陽気なイメージを持っていらっしゃると思います。しかし、人間というものは表面的にはハイテンションで冗談ばかり言っているような人でも、実は心の中は全く違う側面を持っていたりするものです。ですから、必ずしもモーツァルトだからといって、必ず速くて軽快なテンポで演奏される必要はないと思いますし、ゆっくりでロマンティックなテンポで弾いても差し支えないと考えています。もちろん、指揮者として、古典音楽様式の範疇での正しいテンポは守ります。ただし、古典音楽だから速めとか、ロマン派の音楽だからゆっくりという言葉上の意味ではありません。スタンダードな古典音楽のテンポでも、ゆっくり演奏することもあるのです。いずれにしても、テンポというものは、とても流動的なものです。私がこういうテンポで弾きたいという意思を持っていたとしても、リハーサルでも他の出演者や音楽家たちとの関わりの中で、まるで恋愛の駆け引きのように、相手の出かたに合わせて変動するものです。それは、曲にもよれば、登場人物のキャラクターにもよるし、歌手によっても雰囲気によっても変わります。私はいつも、あいまいなテンポは提示しないようにしています。作曲家が曲にこめた究極の感情をどれだけ伝えられるかという点で、非常にゆっくりか、非常に速いテンポで、作曲家が他者に伝えたいことを引き出したいと思います。安全のために中間の速度で表現することはしたくないと考えています。

ノヴォラツスキー:私の持論をお聞かせしたいと思います。メトロノームが発明されたのは、ベートーヴェン以降で、それ以来楽譜上に具体的に速度を示す数字が記されるようになりました。それ以前の作曲家にはありえないことでした。モーツァルト以前の作曲家にできたことは、アレグロ(速く)とか、アンダンテ(歩くような速さで)、マーチ(行進曲の速さで)などの音楽用語による指示まででした。ヨーロッパの人々ならマーチのテンポで、と言われればだいたいどんな速さかが想像できたのです。フランス革命そして、ナポレオン戦争以前の時代、モーツァルトがまだ生きていましたが、当時の誰もが、兵隊の行進する速度が1分間で60歩であることを知っていました。ここで、その理論が正しいかどうか立証しましょう。

(時計を見ながら1秒ずつカウント。エッティンガー氏がその速度に合わせて「コジ・ファン・トゥッテ」のマーチの一節を演奏。)ぴったり合っていますね。

エッティンガー:もちろん、必ずしも毎日毎日同じテンポで進行するわけではないことは、日常生活の中で人々が話をしたり呼吸をしたりすることと同様です。

ノヴォラツスキー:ドン・アルフォンソという登場人物について、まだ触れておりませんでした。彼はどのような人物なのでしょうか。

レプシュレーガー:ドン・アルフォンソは、本人も最後には少し失うものがあったと私は捉えています。最初、彼は非常に教養の高い人物として登場しますが、台本に書かれているカフェでの場面を今回は図書館に変えて、そこでふたりの若い男性を呼び寄せて“女は浮気をするものだ、女心は移ろいやすい”ということを説得しようとする設定になっています。そして、色々なストーリー展開を経て、最終的には自分の作り出したストーリーによって、あまりにも生々しい感情を呼び起こしてしまったことに、本人も驚いてしまいます。この作品の中では、教訓を得たのは若者だけではく、ドン・アルフォンソ自身も学ぶことがあったのです。当初、彼は人間というものは、感情より理性に従って行動するものだという持論を持っていました。そして、最終的に若者たちの様子をみて、人間は感情を大切にしなくてはいけないということを学びます。

ノヴォラツスキー:しかし人間の感情というものは永遠には続かない、そしてそれが混乱を招くことであるということは誰しも経験しているのではないかと思います。なぜなら、ベートーヴェンは「コジ・ファン・トゥッテ」という作品を気に入っていたようでしたが、台本自体は好きではないということでした。彼は他の男性と同様、とてもロマンティックな人でした。そして、永遠の愛というものを信じたいという思いが、そ彼の「フィデリオ」にも表れています。妻が夫を救うというストーリーの中、ふたりの愛の成就をハッピーエンドで表現しているのです。

レプシュレーガー:当時としてはとても新しい考え方だと思うのですが、モーツァルトとダ・ポンテは、人間の感情も何も永遠に続くものはない、として伝えようとしていたのではないでしょうか。この十数年間に見られる「コジ・ファン・トゥッテ」の演出の傾向として、エンディングを軽いタッチで描くことが多いと思います。今回のラストシーンは、様々な新しい可能性があるということを考えていけるようにしたいと思います。人生は惨めなものだという終わらせ方にはしたくないのです。人生には、良い面も悪い面もあるということを表現したいと思います。

ノヴォラツスキー:音楽面ではどうですか?

エッティンガー:T幕は、比較的ノーマルな音楽の作りです。U幕ではかなり混乱してきます。それから素直にグランドフィナーレへと展開していくわけではありません。それ以上に、それぞれの登場人物の深い心理と感情を示しています。「フィガロの結婚」では、20分ものフィナーレに飾られていますが、「コジ・ファン・トゥッテ」は最後の最後まで音楽による一貫性は見受けられません。そして、これは演出的にも音楽的にも、最後に一つの解決法として、ある音楽が提示され、その後フェルマータになります。そしてまた新たな解決法が音楽で表現されます。ですから区切りとしては終わらず、色々な可能性を提供しながら、人生は続いていくのです。最後のアレグロの部分は本来なら陽気で幸せな雰囲気であるべきところで、調性的にはハ長調で速いテンポで書かれていますが、「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」のエンディングほど幸せには響きません。T幕の冒頭のように、もっと深く、何となく混乱している感じです。

ノヴォラツスキー:これまでお話ししてきたディテールをそろそろまとめてみようと思います。今回の舞台では、時代は特定されていません。ロココでもなくロマン派でもなく、原子力の時代でもありません。それより、時代を超えて人としてどのように感情を大切にしていくかということを表現していると思います。ひとつの決まりきった感情を押し通すのでなく、人との関わりで常に感情が変化し、常に相互作用で変わっていけることが続いています。それが人生の美しい部分だと思います。
皆様もそのようなことに思いをめぐらせていただき、ぜひ公演でお目にかかりたいと思います。
ありがとうございました。

■「コジ・ファン・トゥッテ」公演情報 (2005年3月21日〜31日)

チケットのお申し込み:新国立劇場ボックスオフィス 03−5352−9999

 



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