「おさん」
オペラトークの模様を掲載

2月25日(金)の世界初演を前に、「おさん」オペラトークが開催されました。 畑中良輔プロダクション・アドバイザーが、豊富な知識と巧みな話術で 出演者の本音をみごとに引き出し、和やかなトークとなりました。
その模様をぜひご一読ください。

 
 
「おさん」オペラトーク
2005年2月2日(水)18:30
新国立劇場小劇場
   
出演 畑中良輔(プロダクションアドバイザー)、久保摩耶子(台本・作曲)
神田慶一(指揮者)、粟國 淳(演出家)
ゲスト:森川栄子(小春役)、柴山昌宣(治平役)

■「おさん」公演情報


トーマス・ノヴォラツスキー芸術監督 あいさつ
「おさん」は作曲をはじめ、全て日本人スタッフの手による日本オペラですので、司会進行を畑中良輔さんにお願いいたしました。
新国立劇場にとって、そして私にとっても大切なアドバイザー畑中良輔さん、そして、作曲家の久保摩耶子さん、指揮者の神田慶一さん、演出の粟國淳さんによるオペラトークを存分にお楽しみください。

畑中良輔(以下、畑中):皆様こんばんは、ようこそお出かけくださいました。いよいよ『おさん』の世界初演も近づいて、毎日すばらしい稽古が展開されております。今日お集まりいただいた皆様は、新しいオペラに興味をお持ちの方ばかりと思います。

私は最初、この『おさん』というオペラをこの劇場で上演すると聞いて、近松門左衛門の“おさん・茂兵衛”のことかと思いました。“おさん・茂兵衛”をご存じでしょうか、『大経寺昔暦』というタイトルで、これも“おさん”が主役なのですが、そちらではなくて“紙屋治兵衛(オペラでは治平)”の方の“おさん”だというので、近松にはふたつ『おさん』があるのだなあと思ったわけです。その“おさん・茂兵衛”に対して、もうひとつは正式には『心中天網島』ですが、“おさん・治兵衛”とは言わず、紙屋治兵衛を略して“カミジ”または、1幕の“河庄の場”に見所が多いので“河庄”と呼ばれております。

オペラと歌舞伎は共通点が多いので、たいていオペラファンは歌舞伎ファンであり、歌舞伎ファンはオペラファンでもあります。そこで近松の書いた“二大おさん”のうちのひとつがオペラになるということで大変期待しました。ところが今回、台本や楽譜を拝見すると、近松そのものをご期待なさるとだいぶ違うのではないかという気がいたします。近松が描いた原作は、おさんと、対するもうひとりの女性・小春、その間に立つ紙屋の治兵衛が主人公です。治兵衛が紀伊国屋の小春に熱中して2年半経った頃、小春がまもなく請け出されそうになっている中、紙屋のお店がつぶれそうになってお金にも困ってもなお治兵衛は小春を諦めることができない。それに対して治兵衛の妻おさんは、店の経営が傾いていく一方で、自分に構ってくれない夫に胸を痛めます。ここではふたりの女性が対立的な性質で描かれています。小春にのめり込んだ治兵衛は、彼女の女性としての魅力に抗しきれない、かたやおさんは非常に論理的に物事を考える女性で、治兵衛も間にたって悩み・・・・僕は学生のころ、歌舞伎座で先代の雁治郎さんと扇雀さんの『心中天網島』を観ました。恋にやつれ果てて河庄の場で思いに沈む雁治郎の治兵衛の顔は忘れられません。

アダムとイブの昔から、“エロスとタナトゥス”という言葉がありますが、人間、殊に女性の持っているエロスは男性を惹きつけてやまないもので、そのエロスの虜になった男性の行く末はタナトゥス=死です。官能の頂点には、死の匂いがついてきます。近松のほとんどの世話物がそうですが、『曾根崎心中』もやはり死が待っています。“おさん・茂兵衛”の『大経寺昔暦』では理不尽な姦通罪によって町中を引き回されます。溝口健二の映画「近松物語」では、最後の引き回しの場で馬に乗ったおさんと茂兵衛が延々と映しだされますが、本当に胸突かれるシーンで、溝口健二最後の名作です。この『心中天網島』も篠田正浩のすばらしい映画がありました。そのように、エロスからタナトゥス、という点で西洋に目を向けると『トリスタンとイゾルデ』の愛と死など、やはり死の匂いがつきまとっています。


さて、今回、久保さんの台本と音楽により、オペラが誕生しました。久保さんは『羅生門』で日本にオペラ作曲家として出現なさいましたが、これは、ヨーロッパで高い評価を得た力作で、男勝りといっても良い作品でした。この『おさん』の中で、“男勝りのおさん、あれじゃ男が逃げていく”という合唱の部分がありますが、久保さんもあんまり男には縁がないのかな、と思って稽古を聞いていましたけれど、本当はどうなのでしょう。(爆笑)

久保摩耶子(以下、久保):それはクエスチョンマークということにいたしましょう。(笑)

畑中:おさんが非常に人間的なのは、小春が死を決意し、手紙を書くところでもわかります。歌舞伎でも映画でもこのシーンはありますが、おさんに、治兵衛には妻も子供もいるのだから、身をひいてほしい、とまるでヴィオレッタとジェルモンの会話のように言い含められて、心にもない愛想づかしをした小春に逆上した治兵衛が1幕の河庄の場で、刀を持って小春を刺そうとする場面があります。ところが、小春が死を決意していることを知ったおさんが、私のために小春が命を落としたらたまらない、と小春を請け出すために子供の着物まで質に入れてお金を作る場面があります。そのあたりをおさんは非常に冷静に見ており、夫のふがいなさも、小春に溺れていることも知っているが、ここで自分がしっかりしなくてはならないという、強い女性の生き方を示しています。小春は小春で官能の世界に身を置いて、ひとつの美学を持っており、この二人の女性を現代に引き写したらどうなるか、ということに久保さんがまず興味を持ったのではないかと僕は思いました。そして、治平がその間に立って背負う男の苦悩を現代に置き換えて表現するなど、近松のシチュエーションと人物構成はそのまま使用しています。ただ、すべてのことが近松から離れていくことが、この「おさん」のいちばんのポイントではないか、という気もしますから、久保さんにどういう点で近松に着眼なさったか、おうかがいしてみましょう。『羅生門』を構成的なすごい迫力で書いた久保さんですが、今回は対位法的に人間の心理の綾を丹念にお書きになったのでしょうか。久保さんが近松に近づいていった理由からお話しください。

久保:私がはじめて歌舞伎で『心中天網島』を観たのは、河庄の場が終わってからのバージョンで、『天網島時雨炬燵(しぐれのこたつ)』の場面でした。それはもう10年以上も前のことで、おさんが子供の着物やかんざしを売って作ったお金を、治兵衛に「これを持って小春に会いにいきなさい、おまえさんが幸せなら私も幸せ」というところがあるのですが、そこで歌舞伎座の観衆がすごく興奮しており、私はそれを見て、日本の男性は、まだこういうところを女房の鏡としているのか、と驚きました。この作品をドイツに持っていったら、きっと女性の反発をくらって上演禁止になるだろうと思ったほどで、このテーマはいつか研究しなくてはいけないと思っていました。私なら、おさんがかんざしを売ってまで夫にお金を与えたのには、下心があるからではないかと勘ぐりたくなります。夫が小春と仲良くなったらなったでかまわない、私は紙屋を引き継いで女社長となって出世してやるという気持ちから、二人の愛を認めるという大見得を切ることができたのではないか、というところから私の最初の一歩が始まりました。つまり、近松から始まったものの、いかにして近松の『天網島』を壊すかということから入ったのです。そうするうちにだんだんと現代に近づいてきて女社長という設定になりました。そうなるとどんどん治平がつまらない男に思えてきたのですが(笑)、治平には治平なりの苦しみがあるのだろうと思い直し、自分で台本を書き、そして次にオペラにしてみようと作業が始まりました。

おそらくどんな音がするのか、皆様ご興味がおありと思います。私は今回は『羅生門』と違い、なるべくマテリアルを少なくして、始まりから死に至るまで一本の線で、まっすぐにたどれるように書いてみました。後ほど実際に演奏を聴いていただこうと思いますが、まずはピアノで基本となる和音を弾いていただきましょう。治平の和音【譜例@】、小春の和音【譜例A】、おさんの和音【譜例B】です。

続けて聞いてみると、全然そういうつもりで書いたのではないのですが、何となく“トリスタンの和音”に似ているので驚きます。やはり“愛”と愛するものが“死ぬ”という共通のテーマがあるからでしょうか。このオペラはこの3つの和音だけを使っています。もちろんリズムによる変化もありますが、いつもこの和音によるメロディーが出てきます。

畑中:今のは、ワーグナーのライトモチーフ(示導動機)のような和音が3つですね。
でも、ちょっと覚えにくいですね。『おさん』の初日を観にきて、「あっ、おさんの和音、小春の和音・・・」そこまではなかなか覚えられないだろうけど、慣れていくうちにだんだんおわかりになるだろうと思います。

久保:それから、よく質問されるのは、なぜ台本も書くのかということですが、ここに模型があります(舞台上の人形を示す)。台本を書く、というのは人形の骨組みを作るようなものだと思います。たとえば、身長を決め、手や足を長くしようか短くしようか、素材はプラスティックにしようか金属にしようかというように台本を考えます。そして、骨組みができますと、作曲の段階でそれに肉をつけて血を通わせます。そうすると人形が今度は人間になります。でも、魂と表情が足りません。そして、そこまでできると、魂を入れてくださる方にバトンタッチしなければなりません。魂を入れてくださる方が指揮者なのです。そして魂を入れて人間となった後、起こしてアクションをつけて動かしてくださるのが演出家だと思っています。魂が入って、人形が動けるようになったら、私の仕事はもう終わりなので、今少し寂しい気持ちもします。では、今度は魂を入れてくださる方に・・・・(笑)

畑中:では神田さん、久保さんの台本、スコアをご覧になって、これをどう調理して皆様の前に出そうとお考えですか。

神田慶一(以下、神田):はじめにスコアと台本を受け取ったときに、これは難しい作品だと思いました。原作が近松であるということでそこを手がかりにしようとしますし、私も粟國さんも、まず近松の勉強から始めてしまいました。おそらく、このオペラを観にいらっしゃる方には、そういう期待や、それらをどのように変えているかに興味をもたれる方が多いのではないかと思います。もちろん、歌舞伎や近松との相違を見比べるのもひとつの楽しみではありますが、まずは久保さんが手をつける以前の骨組みが、久保さんのキッチンでどのように粉々にされて味付けされて、再生産されたかということの方が実は面白いのではないかと思っています。久保さんは、ご覧のように非常にユニークで個性的な方ですし、お互いに価値観の違うところもあるわけですが、こうなった以上はギャップを埋めることなく、それをまず呑み込んでしまおうというところから始めてみました。というのも、私自身、作曲もいたします。同じ音楽家として、彼女がどのように作品を作り上げたかというプロセスを何とか見つけられないかと考えました。先ほどご紹介のあった和音もそうですが、実際にはワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』も、今でこそ劇場に通ったり、CDやレコードを聴いたり、スコアで勉強することができますが、100年ほど前の初演時には、当時の聴衆は同じような印象をもったのではないでしょうか。新しいオペラが生まれるとき、必ず同じような問題が起こります。その作品がその後愛され続けるかどうかは、その後の上演にかかっているところも大きく、作品の良いエッセンスをいかに汲み出して見つけてあげるかというのは、指揮者、演出家の仕事であると思います。まずは、その作品が聴いていて難しいとか抵抗があるなどのレベルは、人それぞれ違うと思いますので、最初からわかろうとしなくても構わないと思います。自分の肌に合うかどうかというところから興味を持っていただいて、まず観ていただくことが大事だと思います。私は、このオペラのタイトルを『おさん』ではなくて『久保さん』にするとすごくわかりやすい作品になると思うのですが(笑)、近松の解釈の仕方も、それを砕いて自分の世界に取り入れる手法にしても、実に久保ワールドです。好きか嫌いは別にして、たいへん独特で魅力のある世界ですので、それにどっぷり浸かれるように、指揮者として引っ張っていきたいと思います。

畑中:僕が初めて神田さんの作品を拝見したのは、東京文化会館小ホールでの『桜の満開のもとで』でしたが、あの文化会館の小ホールを、大劇場に匹敵するほどの空間に変容させてしまって、すばらしいファンタジー性にびっくりした経験があります。それ以前から神田さんの名前と、“青いサカナ団”で、様々なグランドオペラを色々な形に変容させながら活躍していらしたのはよく存じていましたが、実際にこの目で観て聴いたのはその時が初めてだったので、こんなにすばらしい才能の人が居たのか、と驚いたものです。その後、大ホールでの『浅草天使』、これはまた非常に変わった面白い作品だったのですが、作曲、指揮だけでなく、あの時は演出もなさって、マルチタレントな活躍をしている人は、本当に珍しいと思いました。もっとも注目している人のひとりなので、今度も良い仕事をしてくださるのだろうなと思って、期待しております。

では、次は神田さんの音が、視覚的にどのように舞台に出てくるか、これまで数々のすばらしい舞台を作ってきた粟國さんに聞いていましょう。

粟國淳(以下、粟國):私は、新作オペラに関わるのは初めてで、まして日本オペラ、日本語でのオペラも今回が初めてです。まず、現代もの、ということで驚きはしたのですが、視野が広がり、逆にこれは大きなチャンスかもしれないと挑戦してみようと思いました。先ほど神田さんがおっしゃったように、一緒に近松を勉強して、ある程度イメージを考えていたところに、今回の久保さんの台本が来て、全然違う、という印象を受けました。ストーリーも違うなら、音楽がついたらどうなるのであろうかと思い、とにかく音にして聞かせて欲しいとお願いしました。オペラに関しては音があることによって、自分の視覚的なイメージが膨らんでいくわけです。たとえば『椿姫』など知っている作品なら、CDを聴かずとも、音楽の間にこういうタイミングがあるだろう、このアリアのこの場所でどのような動きができるだろう、などということが把握できるのですが、新作の場合は何の資料もないところからのスタートです。でも、音を聞き、楽譜を読むうちに、久保さんは近松の『心中天網島』をテーマにしているけれど、ただそれに音楽をつけて表現したいのではなく、神田さんが言うように、どこか久保さんワールドがあるのだと思うようになりました。

今回のおさんのテーマは単純に“愛”ですが、愛が全てであるというその気持ちが、自分の許容量をはるかに越えたり、周りの環境によってコントロールができなくなったりしたときに、人間はどのような行動をとるか。近松の場合は心中という形をとったわけですが、このオペラでは違います。やはり人間には欲というものもありますし、愛するといっても、相手にも何かを求めることで、自分の気持ちが収まるとこともあると思います。今回の『おさん』では、音楽的にも、治平、小春、おさんが三者三様の愛の表現の方法をもっており、それぞれが感情の極限を表します。もしこの世の中がもっと即席で、お金を払えば何でもすぐに手に入る、人の気持ちもすぐ手に入れられる、そういう表面的なものだけに囲まれている人間が、いきなり自分の感情を外から揺さぶられる状況に陥った時に、そういう人間たちはどうやって自分の感情をコントロールするのだろうか、というように研究しています。このオペラでは、ひとりひとりの性格がはっきりしていて、誰もが相手のためといいながらひとりで闘っている。そうすると、セットなどもリアルなものでは合わないだろう、と思い至りました。演出家として、もっとも大事なことは芝居ではなく、与えられている音楽を踏まえてできるだけ自分の好みにあったものを選び、空間を作っていくことだと思います。今回も音楽に合わせた方向性を探っています。その中で、少しエッシャーの絵とかミニマリズムなどからヒントを得ました。エッシャーの絵というのは、だまし絵で階段があってもどこが上だか下だかわからない、人間が上っているのか下りているのかわからない絵なのですが、あれも見方によっては3Dなのに、実際は平坦な面に書いてあります。それが、『おさん』の世界なのではないかと考えました。

ストーリーで少し種明かしをしてしまいますと、おさんはひとつ大きな責任を負ってしまいます。小春のことを最終的には許すというものの、もみあいになった時に一瞬だけエゴが出てくることで、おさんは小春を死なせてしまいます。このとき、小春も消えてしまいたいと思っていたし、治平もそれを止められなかったとはいえ、ひとつの命を消してしまうという一大事が起こります。その後、彼女は10年間がんばって成功し、女社長になるというところからオペラが始まるのです。そこで先ほどのエッシャーのだまし絵みたいに、必死に生きてきて成功して女社長になったのにもかかわらず、おさんは自分でどこが入口でどこが出口かもわからない世界を作ってしまいます。最終的には、パンドラの箱を開けるように自分の過去のストーリーを思い出し、小春と治平に何があったのかという展開になっていくのですが、短い時間に自分の黒い部分を全て外に出した瞬間、エッシャーの絵を触った時のごとく実際には立体感のない空虚な空間だった、ということを今回の舞台で表現したいと思います。

もうひとつ、周りの世界の即席さ、周りの人間たちがどれほど冷たいかということもひとつの大きなテーマになっていて、そこに飾ってある人形も今回のソリストのひとりとなっていくわけです。表情がある実際の人間であったり、マネキンのように形だけで何も感情を伝えてくれないオブジェが人間に見えてきたり、ソリストも人形と語ったり、という場面も何回か出てきます。

畑中:ありがとうございます。粟國さんがひとつの言葉にこだわりながら、その言葉にある年月、おさんであればおさんの考えること、その辺りを丁寧に歌手たちに要求しているのを稽古場で見て感心しました。あれだけすばらしい心理分析をして、歌い手たちにイメージを起こさせて引っ張り出す手腕に、次の世代は頼もしい、これだけの人材が育っているんだなという実感があって、このおふたりが頑張っているのを見て非常に嬉しいです。新しいオペラの世界が開けてくるのではないかと期待もしています。

さて、久保さんの音楽には、ジャズやタンゴの要素が出てくるなど色々な工夫があってびっくりします。これもやはり近松が東洋のシェイクスピアと言われるほど描いた世界が広く、世話物はもちろん、時代物も、上方歌舞伎のもっともすばらしい面を伝え、日本だけでなく外国でも高く評価されていることにも少なからず原因があるかもしれません。アメリカの大学にも近松の研究学部を持つところがあり、ものすごく細かく研究しています。近松の心中物のもととなった事件の起こった日から割り出して、この時の月のかけ方がどうであったかなど、200年も昔のことでも、そのあたりの月の状態、星の状態なども今の天体学では突き止められるそうです。『天網島』の心中事件が起こった1720年頃、近松が描写した、「頃は十月 十五夜の・・・」の文句とぴったりその時の星座と月の様子が合ったという学術発表が10数年まえにヒューストン大学で発表されて新聞に大きく報道されたことがありました。近松の書いたものが、それほど正確であったことを示しています。もちろん追跡した人たちもすごいと思いますが、近松は冷静な目と人間としての感性でドラマを構成していった偉大な作家だと思います。『心中天網島』は、近松の作品の中でも、もっともリアルな面を強調しているので、大長寺へ行く途中の橋づくしなど非常に美しい場面がありますが、今回は敢えてカットされて久保さんらしい率直な語り口で進行します。そういう面で言うと、今回は西鶴の目線で近松を感じた方が近いという気がします。それでは、そろそろ演奏をお願いしましょうか。これから歌う場面について説明してくださいますか。

粟國:おさんはもう治平に愛人がいるというのを突き止めています。治平は会社が倒産しかけて、悩んでいる中でも小春との関係を続けています。おさんに問いつめられて、夫婦げんかをして、それでもやはり治平は小春を訪ねていきます。これから歌っていただくシーンは、その小春の部屋で二人だけの世界にいるわけですが、小春は治平の会社が倒産したことは知っており、やはり自分は身を引くべきだと決意します。治平もそれをよくわかっていながら、どうしてもどちらかを選べない心境でいるわけです。3人とも、ある意味でコンプレックスを抱えてしまっており、いずれのキャラクターも良い面、悪い面をはっきりと出し、ぶつかります。ここでは、それまで治平に護られていた小春という弱い女性が、必死に自分の意志やエゴを出して、治平を突き放そうというシーンでもあります。小春は彼と別れるのに、自分の部屋、宝石、全て返します、と言います。久保さんの音楽には、ただ物を返すというだけの表現ではなく、もっと心理的な要素が含まれています。小さな部屋でも、これまで辛い目に遭ってきた小春が、唯一治平に与えられた愛によって人間として、はっきりと生きることのできる空間だったのです。それを治平に返す、ということは自分の居場所も人間として存在できる空間も失う覚悟でもあったということです。これから歌っていただくのが、そのシーンの後半です。

演奏:第5場 小春のアパートより
治平:柴山昌宣、小春:森川栄子、ピアノ:矢田信子

畑中:たいへん力強いデュエット、これで演技がつくと、さらに迫力が増します。森川さん、小春を稽古してきて、このように表現したいというイメージがありますか?

森川栄子(以下、森川):小春というのは、決して弱い女性ではないと思います。それまでの20数年の人生の中で、人の何倍も世の中の辛酸をなめてきて、そこで彼女なりの強さと弱さを兼ね備え、しかもそれを利用して生きてきたのだと思うのです。それを数少ない場面の中でいかに出していくかということがとても難しいです。

畑中:森川さんはライマンなどの現代作品を歌って日本音楽コンクールでも1位をお取りになり、その素晴らしさに審査員一同驚愕したこともあるくらいですが、声楽的にはいかがでしょう。

森川:久保さんの作品は、以前に歌った『羅生門』もそうでしたが、声のテクニックということではクラシックの声をお使いになっていますので、現代音楽的な難しさはそれほど感じられません。ただ、他のクラシックを歌うのと同じような困難があります。特に今回は、音域が広くて、自分の音域としてはかなり低いところを使う一方、上もDの音までありますので、表現を弱めずにいかに歌うか、そしてそこで無理をすることで別のところに破綻を来してはいけないので、バランスを崩さないように気を遣っています。

畑中:普通、小春というと、弱い女性と捉えることが多いのだけれど、声の上で久保さんは下の音域はアルトが使うような低いGだとかGisだとか下線の下の音、それから上は、3点Dというように、これほど広い音域を使う残酷なオペラ作曲家はいないのではないかと思うくらいですが、どういうお気持ちでこれほどサディスティックに広い音域を書いたんでしょう?(笑)

久保:人の気持ちの幅って広いですよね。今日は優しくても次の日は鬼のように憎らしい、親切な人でも明日は氷のように冷たいなど、人間の心の中にもものすごい幅があります。そうすると高い声で優しい声もほしいし、いやらしい声もほしい。低い声も同様。それは本当に自然な現象だと思います。別にテクニックを使ってというのではなく、人間を見せよう、女の中身を見せようと思ったらこうなったということです。

畑中:いやー、かなりのテクニックも要求されますよ。でも、その説明は納得いく。それにしても普通なかなか難しいね、こんなに広い音域。

久保:まあ、自分を出してくださればいいんですよ。(笑)

森川:出すだけでは出ない音域というものもございます。(爆笑)

畑中:では、治平の柴山さん、歌いながら治平をどう捉えていったらいいでしょうか。

柴山昌宣(以下、柴山):男って勝手だな、と思いながら歌っています。僕にはそういう経験がありませんので。(笑)

畑中:今日、奥さん来ているんじゃない?

柴山:はい、奥さん来ています・・・ので言いにくいんですけど(笑)。たぶんこれをご覧になった男性の方々は、少なからず、「うん、わかる!」という気持ちがあるのではないかと思いますので、僕の治平と共感していただけるところがあれば成功かな、という気がいたします。あとは、残された期間でいろいろがんばります。

畑中:なんだか危ないオペラになってきたな・・・まあ、お聴きいただいたデュエットでもおわかりのように、治平は割と男っぽく作曲されています。久保さんが、『時雨炬燵』から始まったとおっしゃいましたが、私も『時雨炬燵』を見て、最初はただ炬燵持ってうろうろオロオロして、なんて情けない、どこがいいのだろうと思いました。ただ、道行きから最期にかけては、死へ追いつめられる男の哀れが胸に迫るものがあるので、その辺りはオペラでは男らしい曲想になっていますね。治平の場をちゃんと作って、おさん、小春とともに3つの点が対等に動いています。でも、10年間姿をくらましているんですよね。

久保:でも、姿をくらましたのも自分が身を引けば、という彼の愛の表現だったんですよ。

畑中:久保さんの作品には、声楽曲は少なくて、ドイツで出ているのも器楽曲が多いですね。

久保:若いときからオペラはとても好きだったのですが、オペラは書くべきではない、と思っていました。なぜなら、ブーレーズがベルクの『ルル』を観て、オペラはこれで完成した、以後はオペラを書くべきではない、と言ったことに影響されています。1980年に作曲科を卒業したときに、卒業作品で合唱曲『ヨギ(=ヨガを修行している人)』という作品を書きましたが、それから15年くらい歌の曲は書きませんでした。でも、これからはどんどん書こうと思います。今はオペラ作曲に専念している自分がおかしくてたまらないです。

畑中:次になにか構想はありますか?

久保:はい、ございます。でも今は内緒です。まずは『おさん』を観ていただきたいと思います。

畑中:そうですね。『おさん』は十分期待に値する作品で、現代の近松に変容してきているこのオペラを、ぜひぜひ皆様がたとご一緒に楽しみたいと思います。主役はダブルキャストで充実した稽古をしております。その他にも、冒頭のパーティの場面で、合唱が面白いことをやっていますし、ただ聴いているだけでなくて、おなかを抱えて笑えるところも久保さんが用意しているようです。そのあたりは粟國さんが面白い舞台を創ってくれると思います。あまり言うとタネがばれてしまうので隠すべき所は隠して、あとは本番でお会いいたしましょう。
本日は皆様ありがとうございました。



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