演劇公演関連ニュース

「十九歳のジェイコブ」スペシャル・レポート その3

『十九歳のジェイコブ』 Report.3 観劇編

 

 

芝居の始まりと終わりは、何をもって定められているのか。

強い雨が降り、夕方近くに一度やんだこの日。劇場の外にあるはずの、曇天から濡れたアスファルトまでの

灰色のグラデーションは、既に、この舞台への導入だったように思う。

外と内との境い目が溶けたそんな日、生れたばかりの『十九歳のジェイコブ』に対面した。

(以下、3度目の記録となる今回は、すべて役名のみの記述でお許しいただきたい) 

 

稽古場で何度か目にした桟橋を連ねたような美術の造形、人物、耳というより身体に響く音楽は、

変わりなく舞台上にある。だが、目や耳で認知できない空気の密度、その色彩は明らかに変化を見せていた。

冒頭、白茶けた生贄のオブジェを彩るバールと電話の赤が、想像どおりの鮮烈さで目に飛び込んで来る。

ジェイコブの迷走と彷徨に観客を誘う、それは印の「赤」なのだ。

劇世界を加速させる大音量の音楽が、強い圧力を持って劇場を満たす。

文字、言葉、声、音楽。舞台上には幾つものレイヤーが存在し、場面ごとに自在に位置を変え、観る者の五感を刺激する。

「意味」の部分では、ジェイコブとユキ、キャスやケイコら若者が交わす何気ない会話、そこに潜む微かな感情に、

現代が織り込まれていることが伝わって来た。脚本・松井周の繊細かつ生々しい言葉の選択が生きている。

 

稽古場で気づけなかった演出に、"様々な行為に伴う「音」を拾う"というものがあった。

注がれる水音などは聞えていたが、グラスの置き去り、スナック菓子の咀嚼、セックスできしむ床などの生活音が

執拗に拾われ、(経験はないが)ラリって感覚が鋭敏になったときのように、逐一耳に入り、神経を刺激する。

松本雄吉の偏執的な演出が、劇世界の迷宮を深くする。

 

複数役を演じ分ける俳優たちも、それぞれの役が明確な輪郭を持ちはじめ、存在感の強度が増していた。

幻のように現れては消える食堂の少女、神話のごとき悲劇性をまとう姉と妹、港湾労働者、活動家、顔を持たない兄たち。

結果、芝居の面ではジェイコブと彼を取り囲む人々、対立する世界の関係性が、よりクリアに見えるように

なっていたと感じた。もちろん、ジャズ喫茶の店員・君原や高木夫妻の強度は変わらず揺るぎないものなのだが。

寄る辺ない身の上のようでいながら、ジェイコブは多くの人間に愛されている。

いや、いろいろな意味で"求められている"ように見える。だが、彼は彼を必要とする生身の人間を必要とはしない。

彼が請い慕うのは、記憶の中で過ぎ去ってしまった者のみ。生きている他者は征服の対象。

愛情も殺意も、その目的に変わりはない。

舞台の回を重ねるごとに、そんなジェイコブの虚無感がさらに研ぎ澄まされることに期待したい。

結果、ジェイコブの一番の犠牲者ユキの狂気と輝きも、比類なきものになるはずだから。

 

闇の黒と血の赤。舞台上の色彩は、極端な二色を除くと始終霞のような光のグラデーションに抑えられ、

作品の神秘的な様相を高めている。

そして終幕。すべての境界をぼやけさせていたその光が、舞台奥から客席に向かって強い逆光として投げかけられると、

人々はそれまでとは違った輪郭を持って迫り来るのだ。

狂い、壊れ、生命を失ったはずの者たちが、ドラマの中に一人、また一人と戻ってくる。彼らの顔に明確な表情はない。

が、誰もが観客のほうを強く見つめている。

 

そこは冒頭のジャズ喫茶のようにも、それを模した教会(シナゴーグ)のようにも見える。

現実か妄想か、さだかでない中での殺戮を終えたジェイコブは、劇中幾度となくダイヤルを回す赤電話に向かうが、

聞えるのは呼び出し音のみ。逆に、彼に対してかかってきた無言の電話になす術を持たない。

狩る者が狩られる者になったのだろうか?

確かに、暗い色彩の衣裳に身を包む人々に対し、純白のスーツに身を包むジェイコブには、これまでになく隙が見える。

だが、答えは与えられないまま人々は去り、舞台上には先刻まで椅子のフリをしていた桟橋が残り、ジャズの風だけが

吹いていた。

 

そして、そのまま誰も、舞台には戻って来なかったのだ。

私の問いは冒頭に戻る。

芝居の始まりと終わりは、何をもって定められているのか。

その答えは、この「事件」に立ち会った一人一人の観客しか知ることはできない。

 

 

                                             Text by SORA Onoe