「マノン・レスコー」デ・グリュー役 グスターヴォ・ポルタ インタビュー 

 

このオペラは「デ・グリューの物語」と言えるかも
こういう役にこそ素晴らしい演出家が必要なんです

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──『マノン・レスコー』で歌う役デ・グリューを一言で表すとすれば?

ポルタ(以下P) 一言は無理で100語ぐらいになりそうです(笑)。彼は、情熱に溢れた若者で、衝動的で、人生を模索し、100パーセント幸せとはいえないような人物だと思います。その彼がマノンとの幸せの絶頂から、暗闇に落ち絶望する­­――この多彩な感情を歌い分けることを要求される素晴しくやりがいのある役です。最初はリリカルな歌で始まり、第2幕になりドラマが進んでいくと、スピントが強くなっていく。第3幕では狂気に近いような絶望状態を表現しなくてはなりません。同じ幕にはマノンとの再会でとてもロマンティックでリリカルな愛の二重唱もあります。そして彼には、心を引きちぎられるような、泣きながら迎える終幕が待っています。

このオペラを「デ・グリューの物語」ということができるかもしれません。こういう役にこそ素晴らしい演出家が必要なんです。私はラテン系なので、情熱と絶望感を表現する多くの手立てを持っています。ですが、心からの絶望を舞台の上で見せてしまうことは危険でもあります。舞台では、感情と歌唱と演技とを調和させていかなければなりませんから。舞台では自分をさらけ出すつもりではいますが、そこに演出家という導き手がいてこそ正しい道にたどり着けるのだと思います。『マノン・レスコー』第3幕の20分ほどの中で凄まじいまでの感情の発露を乗り切ることを音楽が要求しているのですから、そのためにも演出家と指揮者という導き手にうまくリードしていただく必要があるのです。

 


特別な想いを共有する出演陣で
必ずや『マノン・レスコー』を成功に

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2011年舞台稽古より

──イタリアを拠点にヨーロッパ各地の歌劇場でひっぱりだこの日々ですが、ご出身はアルゼンチンですね。

P 故郷はアルゼンチンのカリロボという片田舎で、20歳まで住んでいました。草原(パンパ)のなかにあって、学校には馬に乗って通いました。物づくりの工業学校に入学して、オペラは聴いたこともなかったんです。ただ父がアルゼンチンのフォークロアを歌っていて、私もギターを習ったり、歌を歌ったりしていました。16歳のときに、パヴァロッティが歌う『オー・ソレ・ミオ』や『帰れソレントへ』などが入ったカセットをもらったんですが、それらを歌ってみたら、私に歌の勉強を勧めてくれた人がいたんです。パヴァロッティをはじめデル・モナコやコレッリなど素晴らしいテノールのオペラを聴いたときには、自分の血が騒ぐような気がしたものです。今でも舞台に立つときは、自分が世界一幸せな男だと思っているんですよ。

 それにしても私がラッキーだったのは、両親が支援してくれたことです。彼らは、私が「テノール歌手になりたい」と言っても、何を言っているのかは分からなかったでしょうが、「やりたいなら、やりなさい。いつでも助けるから」と後押ししてくれ、私は音楽院に入学することになり、その後テアトロ・コロンの研修所に通いました。テアトロ・コロン等のアルゼンチンの歌劇場で合唱や小さい役を歌うようになると、1999年にさらに勉強を続けようとイタリアに渡ったのです。

 

──パヴァロッティは理想の歌手の一人ですか?

P 理想とする大好きな歌手はたくさんいますが、パヴァロッティこそ理想的な声の使い方ができた人だと思います。彼は大変インテリジェンスがあって、自分の持っているその声でレパートリーのすべての役柄を歌いきったと思います。ほかの歌手では、声を制御し、自分のものにするテクニックについてはサザーランドを目標とするところですし、カラスの『ノルマ』はオペラ史の金字塔です。

 

──幻のプロダクションとなった2011年の演出家、キャストが再結集する2015年の『マノン・レスコー』にかける想いを。

P 2011年以降みんなには会っていませんが、私たちはあのとき、舞台を実現できなかったということ以上に、日本の皆様が受けた大災害に心を痛めたという特別な想いを共有しています。その想いが、次は必ずや公演を成功させよう、という大きな力になるはずです。『マノン・レスコー』を待ったかいがあった、とお客様に思っていただけるような舞台をつくりたいと思っています。

 

 

 

 <会報誌ジ・アトレ9月号より抜粋>


 

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