インタビュー&コラム

コラム

大人の中の大人のオペラ~ヤナーチェク『イェヌーファ』

林田直樹(音楽ジャーナリスト・評論家)

古今のほとんどのオペラ、『フィガロの結婚』から『ばらの騎士』に至るまでの男女のドラマにおいて、多くの場合――愛の象徴としてのセックスが、語られざる中心にある。直接触れることはなくとも、「それ」は常に最重要テーマであり、隠された無言の目標である。
ところが『イェヌーファ』が独特なのは、若さゆえの情熱の結果――ヒロインの妊娠から物語がスタートしている点にある。他のオペラがうやむやにしてしまっている問題が、ここでは赤裸々に扱われているのだ。
道ならぬ恋を美化するオペラは多いが、それが必然的に招く結果として、実際のところ――妊娠がある。長い人類史において、避妊の知識と方法が定着してきたのはごく最近のことであることを忘れてはならない。危険な恋を楽しむのもいいだろう。だがその結果としての妊娠が女性の人生をどれだけ変えてしまうか。そのことについて、真摯に突き詰めたオペラが他にどれだけあったろうか?
その点、ヤナーチェクほど真剣に女性を愛し、なおかつ女性の立場を理解しようと努めた作曲家は、極めて珍しいのではないだろうか。

『イェヌーファ』では、気の滅入るようなことばかりが起こる。妊娠しても喜ぶこともなくどんどん冷淡になっていくイケメンで金持ちの恋人シュテヴァは、さっさと別の女と婚約する。一方、昔からつきまとう粗雑な男ラツァからはナイフを振り回され、顔にひどい傷をつけられる。あげく、世間から隠れるようにして極秘出産した赤ちゃんは、継母コステルニチカの手によって川に捨てられる。イェヌーファは若い娘として、最悪の人生を過ごしているといっても過言ではないだろう。
そこに渦巻いているのは、地域社会特有の息苦しさであり、世間体であり、貧富の差であり、家制度の呪縛であり、女性をモノとして扱う、どうしようもなく旧弊な考え方である。このテーマは、男女の平等が謳われている現代においても、本質的には決して古びていない。

『イェヌーファ』には甘口の夢物語は存在しない。これでもかと男女の現実を突きつけてくるリアリズム、目を背けたくなるような偽善とエゴイズムの連続である。
だが、それでもイェヌーファには誰よりも幸せな、最高の救いがもたらされる。
最初は、ただ粗雑で嫉妬深いだけの男と思われたラツァが、実は心の底からイェヌーファを愛する誠実な男として成長し、すべての真相を知りつつもイェヌーファとともに苦しみを分かち合うパートナーとなってくれるのだ。男の身勝手に苦しむすべての女性にとって、そして本当は女の味方でありたいと願うすべての男性にとって、ラツァは輝かしいばかりの希望になりうる存在である。
『イェヌーファ』を観ると、すべての男たちはきっと考えさせられることだろう。愛する女性を幸せにするとは、一体どういうことなのか。ただ美しい見かけだけを追いかけるだけの無責任な行動が、どれほど醜く不幸な結果をもたらすか。
顔に傷をつけるとか、氷漬けの赤ん坊の死体が婚礼の日に上がるとか、語るのもおぞましいエピソードの連続ではあるが、それほどの苦難を超えてでも、愛の救いがもたらされる『イェヌーファ』の結末は、他のオペラとは別次元の崇高さが確かにある。これこそ本当の、大人のなかの大人のオペラといってもいいだろう。

高収入・高身長・高学歴だの、やれイケメンだの何だの、男を選ぶ基準がますます下らなく現実的になってきている昨今、『イェヌーファ』の突き付ける問題は深い。ルックスもたいしたことなく、がさつで嫉妬深く、こともあろうに愛する女性の顔すら傷つけてしまう男ラツァが、なぜ女性にとって救世主のような理想の男たりうるのか。
その理由は、いくつかある。まず第一に、一度愛したら最後、たとえその女性の容貌が衰えたとしても微動だにしない献身的態度を保つこと。第二に、快楽や喜びばかりでなく、苦しみをも「共にひきうける」覚悟ができていること。第三に、たとえ愛する女性が大きな罪を犯し、世間から嫌われる羽目になったとしても、命がけでも最後まで味方でありつづけること…。
書いていて男である私自身もつらくなってきたが、それでも『イェヌーファ』の指し示している男女の愛のあるべき姿の指針は、多くの人にとって、勇気と希望をもたらすものである。そのための残酷なストーリーだということを理解すれば、『イェヌーファ』はたちどころに親しみやすく身近な物語となるであろう。

最後に、『イェヌーファ』のオペラ史における独特の地位について、少しだけ触れておこう。ヤナーチェクがこのオペラをきっかけに成し遂げた功績とは、モラヴィア特有の方言や民謡、そして話し言葉の抑揚を大胆に音楽にとりいれたことである。日本で言うなら、徹底的に大阪弁で語り、歌うオペラを作ったようなものだ。さらにはそうした地域性が、ただの珍しいローカル色で終わることなく、世界中に普遍的な説得力をもちうる音楽劇として結実しているという一種の「奇跡」である。土に根差し、暮らしに密着した文学と演劇と音楽は、もっともたくましく、誰もが共感しうるものへと昇華されうるという真理がここにはある。ヤナーチェクは原作戯曲のガブリエラ・ブライソヴァー(1862-1946)の同時代の現代劇をもとに、韻文ではなく散文に対して密着するような音楽を作曲した。それは定型的な番号形式のアリアではなく、もっと演劇的で自在な歌うような語るような音楽劇の可能性を大胆に切り拓いたのである。それはR.シュトラウスやベルクが実践していた演劇的なセリフに密着したオペラの方法と、同時並行的に進められたものであり、そうした実験のなかでも最も地域性を帯びているがゆえに普遍性をも獲得している。調性音楽の範疇にとどまりながらも前衛的でありうるという、その創作態度は、いまや世界中で再評価の機運が高まっている。

ドラマのテーマにおいても、音楽の手段においても、いまやヤナーチェクは、最も注目されうる、エキサイティングなオペラ作曲家の一人である。『イェヌーファ』を上演することによって、新国立劇場は世界の重要なオペラハウスの一角としてクリアすべき課題の一つを、ようやく果たしたと言っても過言ではない。

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