シアター・トーク
レポート


『象』新国立シアター・トーク
「日本の不条理劇」


2010年3月6日(土)小劇場
出席者:別役 実
    深津篤史
    鵜山 仁
    大笹吉雄(進行)

【客席の方からの質問に答えて】

(質問は大意です)
◎ 本読みから立ち稽古、そして本番まで、いちばん大きく変わった部分はありますか?
深津:えーとね、毎日更新という感じで変わっていきますね。どんと大きく動く時期というのはあるんですけど、でも日々少しずつ変わっていって、ある時期に大きく動いて、どこかひとつ大きく動くと、他が動く、そんな流れですね。だから、きのうが初日で、やっぱりおとといがゲネプロだったんですけど、ゲネプロから初日で変わっています。昨日の初日からきょうでもやっぱり変わっています。僕自身が、お芝居自体が安定することはいいことですけど、予定調和に安定しちゃうのは好きではないので、日々少しずつ変わっていくのがいいんじゃないかなと、だからきょう2ステージ目ですけど、全28ステージで、28ステージ目にはどこにいきついているのかなというのが、僕自身も楽しみです。
Photo別役:僕、きのうきょうと観ましたけど、やっぱり変わっていましたよ、細かいところですけどね。だからそういう形で、後半になったらかなり変わるんじゃないかなという予感がありました。(笑)構造そのものは変わらないにしても、細かいところのやりとりとか、場面のつくりみたいなものは、少しずつ動いていますね。月日が経つとどんどん進化していくというニュアンスを、きょう僕は感じましたね。
鵜山:僕の場合は作品によるかなぁという感じはするんですけど、この深津演出ではほんとうに変わっているんですよ。山西君(通行人)と神野さん(病人の妻)のシーンにしても「人生の智恵になりますよ」と言って、奥さんがいなくなっちゃうところでは、きのうは白い布をかぶせたりしてましたからね。だから、連日観なくちゃいかんということらしい。(笑)


◎ 「男」の大杉さんが手を挙げて体をひねる動作をしましたが、長崎の平和の像をイメ=
ジして書かれたんですか?
別役:書いたときはその感じはなかったんですね。いま言われてみると長崎の像と同じような格好をしてるんですけど、僕ね、あんまりあの長崎の像は好きじゃないんですよね(笑)。なんだか大ざっぱ過ぎるんじゃないかなという感じがしましてね。


◎ 被爆者をどうやってお調べになったんですか?
別役:よく覚えてないんですけど、被爆者自身についてはそんなに勉強してないと思う。このモデルになったのは「原爆一号」という人で、これは土門拳さんの写真集から得たんですよね。それからもうひとつは、白い埃っぽい道に、広い部屋が続いて……という写真を広島の写真集で見ました。これを書くまで、僕は広島に行ってなかった。その写真は、川端を撮ったもので、それと土門拳さんの写真が僕のイメージをつくるためのものでした。それから、最初に鼻血が出るとかの病状については、何か本を読みましたけど、それがなんだか覚えていませんね。専門的なものではなく、一般的な本だったと思います。
被爆者の心情も、雑誌とか週刊誌とか、そういうようなものの総合的な知識だと思うんですが、「原爆一号」という人がケロイドを街頭で見せることに猛烈な非難があったんですよ。その非難に対する義憤みたいなものが最初の書く動機だったんですね。見せるのはいいじゃないか、積極的な行為だろうと。それからやっぱり日本的な伝統として、お祭りのときにライ病の人たちが病気を見せながら参加するのも抵抗運動だろうということがあって、その非難を肯定する意味で書きたかったのと、それからすぐにその非難がやみ、受け容れるようになった。受け容れるようになったことについても、なんとなく納得できないものがあって、その両方の意見をおそらく雑誌などの一般的な知識で得て書いたと思うんです。


◎病人と男の2人の登場人物と現代性について。
別役:稲垣君のやった「男」の役は、60年代では割と珍しいタイプで、どっちかというと60年代は行動する外向的な人間が多くて、現代でこそ草食系男子とか、引きこもりとかありますが、それを自己主張する時代ではなかったんですよね。そういう意味では、当時は男が珍しいキャラクターだった。現在はそれが説得力のある、類型があるキャラクターに変わっていた。それから、病人が、さっき言ったように喜劇的に見える場合と悲劇的に見える場合と、やっぱり時代によってかなり変わったという感じがするんですね。喜劇的に見える場合のほうが僕としていい時代だという感じがします。その差は時代によって若干見方がどんどん変わっていくんだろうと思う。どちらが現代的であるかないかは、よく分かりませんけど、ただ男のあり方と病人のあり方が、どっちが受け容れられて、どっちが否定されるかというのは、時代ごとに幾分変化していくんだろうなという感じはしています。


◎ 男が言う「お月さま」や「おさかな」はどういう意味ですか?
別役:それを聞かれるといちばん困るんですけどね(笑)。わからないんですよ。(笑)読み合わせのときにも同じように役者さんに聞かれたんですけど、いまどうしようもないんですね。その書いた当時は、僕は天才だったものですから、天才が書いたものはわかりませんというふうに説明したんですけど、なんかそう言わざるを得ない。思いにまさせて書いていますからね。月に関しては、『赤い月』という散文詩があったんですよ。それに男が出てきて、あのせりふに引用しています。だから、どう説明のしようもない、だからいちばん説明しがたいところです。


◎ 国立の劇場でやる意味
Photo鵜山:どうなんでしょうね、僕も結構長いこと芝居をやってるものですから、最近、昔観たものとか、高校生のときに自分がやったものとかを上演する機会に巡りあうことがよくあるんですけど。国立で、ということは、やはり政治的な話をそう声高にするつもりはないんですが、やはり次の東京裁判三部作もそうですけど、個人の責任と公の責任というのは、いったいどういう関係になってるんだろうか、持ちつ持たれつというか、さっきも『象』が現代的だという話がでましたけど、個人ばかりじゃなくて、たとえば異議申し立てがあって、そういう責任をつまびらかにするということが、いったいどういうメカニズムになっているんだろうみたいなことについては、国という枠組みをひとつおいて考えると、いろんなことが見えてくる気が勝手にしてるところがあります。だから、こういう場所でこういう作品を取り上げる意味というのはやっぱりあるんじゃないかと思います。つまり国というのは、国構えみたいなもので、枠だけがあって、そこを埋めてるのはやっぱり民であったり、われわれ一人ひとりだったりすると思うんです。そのことが時に国が個人に責任を押しつけたり、いろんなキャッチボールというか、揺れがあるわけで、そのなかでわれわれがどういうふうにお互いにコミュニケーションしていくかというときに、やっぱりこういう表現を国の劇場でやるということは、僕にとっては意味があり、それで解ってくることもずいぶんあったような感じが個人的にはしています。