現代戯曲研究会


座談会 連続3回掲載その(2)
いま、同時代演劇とは?
小田島恒志 佐藤 康 新野守広 平川大作 鵜山 仁(進行)

言葉に対する検閲、タブー
鵜山●ストーリーの解体とか、登場人物や言葉の解体とかいう現象の背景には、マイノリティーからの視点、エスタブリッシュメントの的価値の転覆という問題が含まれているような気がします。フランスでも旧植民地の、異文化社会との軋轢は強烈なものがありますよね。

佐藤●他者、つまり文化の異なった人とどう共存していくかというテーマで、みんなが納得できる物語を作らなきゃいけない。その公共演劇にあたる役割を、日本だとNHKのドラマが作っている。フランスは公共劇場が演劇を使ってそれを作っている。例えばイスラームの話に再解釈された『タルチュフ』っていうのは、一番象徴的です。それは、イスラームと複雑な関係にあるヨーロッパの姿を描き、同時に「他者」を偽善者として暴く。しかし、物語の根底はフランスの古典を提供している。非常にねじれたものを提出するわけです。フランスの公共劇場というのは、文化に対するナイーブな支援ではありません。政策としてポリティクスがある。ポリティクスに合うものしか上演されない。古典の再解釈は他者との共存という「ねじれ」を描けるけれども、新作上演はその力に劣る。

新野●フランスは同化政策ですね。異なる文化圏の出身者をフランス文化のなかに組み込もうとする。

鵜山●「他者性」の発見ということについて、自分の内なる他者性を発見していくためのハードルというか、フィルター探しの試みは当然昔からあったんだろうけど……。

佐藤●フランスにも社会的なタブーって、ないわけじゃないですけど、前衛芸術ではそれほど強くない。何があっても認められちゃうというような。けれども、演劇にもスキャンダルはいくつかあって、ジュネの『屏風』やベルナール=マリ・コルテスの『ロベルト・ズッコ』が上演中止になったことがありますけれども、平川さんや小田島さんの話に出てくるような演劇の文体、言葉におけるタブーの解放のような現象は、それほどないと思います。<続>

[2009年4月10日発行、『シュート・ザ・クロウ』公演プログラムに掲載]