現代戯曲研究会


空気を訳す
小田島恒志

「空気を読む」という言い方があるが、戯曲を翻訳する際、気がつくとこれをやっている。本来の使い方とはちょっと違う意味で。自分のではなく、その劇世界の中でセリフを言う人物の吸っている空気を読むわけだ。これができないと(つまり「空気が読めない」と)セリフが死んでしまい、まさに致命的になる。逆に、セリフの一行一行の空気を緻密に読もうとするあまり、何気ない一言がいつまでも訳せなくなってしまうこともある。

南アフリカの作家A・フガードの『ハロー・アンド・グッドバイ』(1970)を訳したときもそうだった。貧しい家に一人で暮らすジョニーのもとへ姉のヘスターが15年ぶりに「ハロー」と言って帰ってきて、「グッドバイ」とまた出て行くまでの話だが、この「ハロー」が訳せなかった。普通に訳せば「ただいま」でいいだろう。自分の家に帰ってきたのだから。だが、しばらく会話が進むうちに、ジョニーがヘスターを姉だと認識していない(というか、認識していない振りをしている)ことが分かる。「ジョニー……」「あれ? 僕の名前知ってんだ?」といった具合に。つまり、見ず知らずの女性が訪ねてきたと思っている(振りをしている)わけだ。となると、もしヘスターが「ただいま」と言って会話が始まっていたとしたら、ジョニーは彼女を姉として、少なくとも家人として、認めていたことになり、おかしい。では、どう訳せばいいか。

これを訳すのに5日ぐらい悩んだ。で、出した答えが──訳せない、だった。家に帰ってきて家人にかける第一声としても、他人がいきなり口にする挨拶としても成り立つ日本語──英語の「ハロー」はまさにそれだ──がどうしても見つからなかったのだ。これが男同士なら「やあ」とか「よお」ですむのだろうが、女性から男性へ、姉から弟へ、という条件がネックになった。だからと言って、女性らしく「ねえ」、にすると、15年ぶりに家に帰ってきたという状況と空気があわないように思えた。結局このときは訳すのは諦めて、その後に続く「さっきから呼んでたのに聞こえなかった?」というセリフにしっくりくるように、「いたの?」という一言に置き換えたが、いまだに自分でも納得していない。

このようにたった一言が訳せずに悶々とすることがままあるのだが、90年代以降の現代劇の場合、現実世界を反映してか、「たった一言」だけのやりとりの会話が多くなってきているから困る。たとえば、D・ハロワーの『ブラックバード』(2005)は、ちょうどこれも15年ぶりに再会する男女の物語だが、女性のほうが the ─who ─afterwards ─ (「─」のところはテキストでは改行されている)などとぽつりぽつりと言葉を発するだけのセリフが多い。これを「その─人たち─あとで─」と単語レベルで日本語に置き換えてみても、彼女の言おうとした(けど言えなかった)ことは伝わりにくい。こうなるともう、言葉より空気を訳すほかないだろう。では、どうやって?

実は、窒息しそうになるほど苦しんで訳したのに、空気がいとも簡単に吹き込まれることがある──役者の口をついて出た瞬間である。やはり戯曲は演じるもの、訳者は役者には勝てない。
(早稲田大学教授)
<2009.3.18発行「シリーズ・同時代【海外編】番外リーディング プログラムより>